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校則を立憲主義に組み込んで考えてみる

はじめに

生徒主体による校則改正実践がかなり蓄積されつつあるが、まるで「校則を改正すること自体」が目的となっていたりして、ブラック校則を生徒の手で変えることによって美談化されているように思う。

そこで、校則から学校に設置される組織の位置づけをするのではなく、校則を立憲主義としての構造にあてはめた時に、学校組織をどう位置付けることができ、どのような改正手続きが望ましいのかを考えようと思う。

第1章 校則は法律である

まず、校則を日本全体の法規にあてはめた時、校則は「憲法的」なのか「法律的」なのか考えなければならない。結論から言うと、法律的である。

第1節 立憲主義とは何か

図1 憲法と法律の関係性

図1を見てほしい。国民が国家を縛るのが「憲法」であり、国家は憲法を守る必要がある(もちろん、国家は行政法も順守する必要があるが。)そして、国家は憲法規定を踏まえて国民を縛るのが「法律」である。したがって、国民は法律を順守する必要がある。

法律が憲法を前提にしている以上、当然、憲法が「最高法規」となるのである。それゆえ、国民が、ある法律が憲法に違反しているのではないかという疑念を持った場合には、裁判所に訴え違憲審査が行われ、憲法判断を下すのである。

したがって、立憲主義とは「憲法を制定して権力を縛る」(※1)という考え方になるわけだ。

第2節 学校社会にあてはめて考える

これを学校社会にあてはめて考えたいと思う。ここでいう学校社会とは学校と区別する言葉であり、ある学校における社会的空間を指すものとして考えてもらいたい。

そこで、「国家」に当たる部分を「学校」に、「国民」を「児童生徒」に読み替えてほしい。その時、校則と言うのは学校が守るものではなく、児童生徒が守るものになるから、校則と言うのは「法律」ということになる。だとすれば、その校則を規定している「憲法」に相当するものはあるのだろうか。

第2章 憲法的なものは存在しない

憲法の内容については多くの人が知っている通りだろう。大きく2つに分類され、人権とそれを保障するための統治機構(=権力分立)がある。

しかし、学校社会において児童生徒が学校を縛る「憲法」なるものは存在しない。一方で、児童生徒を裁く「生徒指導」という司法府が存在するし、校則の実施・解釈権を持つのは「学校の先生」という行政府に値するものである。

校則改正にあたって必ずというほど出てくるのが生徒会である。生徒会は、全員が加入しているから、生徒総会や生徒議会は生徒による民主的な議会である。そして、多くの学校ではそれを立法府に位置づけてるのである。だが、この総会や議会と言うのは「生徒会会則」によって規定されているのであって、憲法に規定される立法府とは次元が異なると言わざるを得ない(※2)。

このように、学校に憲法と位置付けられるようなものは存在しないのである。むしろ、生徒指導や学校の先生による校則の実施・解釈は地方自治体・国レベルで規定されているものであり、学校の外在的制約である。

以上のことを図式化してみると、下の通りである。

図2 学校社会と現実社会を連結させた立憲主義的関係性(筆者作成)

つまり、日本国憲法やそれに立脚した法律諸々は、あくまでも学校社会の外にいる存在であり、学校社会を規定付けているのである。そして、学校社会の中では、児童生徒が学校に求めるものである憲法に変わるものはなく、むしろ、学校が児童生徒を拘束する法律に代わる「校則」だけが存在するのである。児童生徒と学校という関係性だけ見れば、憲法なるものなき校則であるから、当然に人権など関係がなくなり「ブラック校則」が成立するのである(※3)。

第3章 憲法的なものをどう作るのか

では、憲法的なものをどのように作るのかという話である。
少なくとも、形式的意味の憲法を作るのは不可能である。なぜなら、生徒にとっての最大的効用は「完全な自由」であるからである。何をどの程度考慮するべきかを児童生徒がどれだけ把握しているのかは不明だし、なにより学校は「教育的目的」で設置されているため、校則も当然、学校を秩序付け全人的発達を目指す教育的目的でなければならず、その教育的目的に関する本質を最もしているのは学校の先生であるからだ。そのため完璧な憲法に代わるものを生徒が主体となって一から作るのは困難であり不可能である。したがって、実質的意味の憲法をどのように形成するかが重要である。

第1節 提案:校則の全文公開

提案としては「校則の全文公開」である。これは内部に限らず第三者の目線がさらされるよう、インターネットでの公開が望ましい。

そもそも、児童生徒が学校で手にする生徒手帳は校則の一部でしかなく、前文を載せているところはほとんどないだろう。しかも、筆者が聞いた限りではあるが、教職員自らが校則を調べようとしたが全文を明らかにできなかったなどザラらしく、まるでソ連崩壊後のようであり「法治国家」にある学校空間とは思えないのが実情である。

そこで、校則を全校生徒に明らかにするだけでなく、第三者の目線を入れることが必要である。そうすることで、インターネットに掲載できないような規則については、すぐに改正するなどの動きをせざるを得なくなるだろう(※4)。

インターネットに公開することで、公開に行きつくまでに改正が実施され大きく改善される効果をもたらすだけでなく、生徒がそれを見た際に、この校則があるのなら別の学校にするということが起きるのである。この典型が、芸能活動である。すでに芸能活動している場合、進学するとなるとその学校が芸能活動を禁止しているのか否かを確認しなければならない。それと同様の効果をもたらすことができるだろう。そうすれば、特に私立学校では受験者数の減少を食い止めるために、より校則を気にするようになり、改正が望まれる環境になるだろう。

つまり、学校が校則を不特定多数が見られるように全文公開することによって、生徒や世間の常識が学校に求められるようになり、その意見が実質的意味の憲法として機能して、学校がそれに合わせた校則改正をするようになるということである。

第2節 全文公開による課題

この課題の一部は、脚注4にすでに述べているので参照していただきたいところであるが、それ以外では「果たして生徒が校則の全文を見て学校を決めるのだろうか」という問題点がある。

例えば、中学受験をする児童がいたとしよう。その児童は医者になりたいので、医学部進学率の高い中高一貫校を目指しているとする。この場合、医者という将来の夢が先行するために、校則は2の次になっている。

このような事例もあり得るだろう。私は高校受験する生徒である。偏差値50ある高校であればなんでもいいと思っている。だけど、親は「あの高校へ行きなさい。そうすれば良い大学に行けるから」としつこく言われ、その高校を受験し入学した。このような場合も、高校の偏差値ばかり気にする親の意向が強く、校則が受験可否の要素にはなっていない。

このように、校則を全文公開したところであくまでも世間の目が光るだけで、図2が想定するような児童生徒が学校を縛るようなものとしては全く機能しない恐れが高い。なんなら、保護者らが校則に求めることが多くなり、生徒が学校を縛るものではなく、保護者が学校を縛るというおかしなことになってしまう可能性もあるだろう(※5)。

しかも、仮に機能した場合でもその当時の社会情勢や受験事情によって、受験者数に変化が出るわけであり、様々な要因を想定してそれを昨年度比と変化がない場合に、校則が受験者に与えた影響を算出する必要があり、このような調査を実施するほどの時間的余裕が学校にはあるはずがない。

したがって、校則がその学校に入るかもしれない年代の目にさらされるような仕掛けづくりが必須である。

第4章 「教育的目的」は諸刃の剣

本章をもって、結論に代えさせて頂きたいと思うが、とにかく校則というものの一番の厄介さは「教育的目的」である。とにかく、この規定は「教育のために必要なのです」と言ってごまかしてきたのが、ブラック校則として社会問題となったわけで、これは、校則を用いた虐待親と変わらない論理である。虐待親も「しつけのためにやった」という理由のもとで暴行がなされるように、学校も校則を「教育上の理由があるから」という理由で、生徒に守らせているだけにすぎないのではないか。

そういう意味で「教育的目的」は非常に厄介だし、それが学校社会の中では権力分立もなにもない理由付けになっていたのである。改めて、自らのいる社会的構造を見直し、それぞれの組織の立ち位置を様々な点から確認し見直してはどうだろうか。

脚注

※1 辻村みよ子『憲法改正論の焦点 平和・人権・家族を考える』(法律文化社、2018年)8頁。

※2 むしろ、学校の先生は勿論解釈していると見たほうがいいかもしれない。と言うのは、憲法に於ける立法府は国民を代表した議員が立法を作るように、生徒を代表した議員(代表生徒)が校則改正という名の立法を実施するのであるから、これは憲法の立法府における趣旨に則り、生徒総会・生徒議会を立法府に位置づけていると言えるのではないか。ただし、生徒会会則を立憲主義の枠組みにどのようにはめるかは議論の必要性がある。

※3 あくまでも、児童生徒と学校との関係性に限定して「ブラック校則」の成立可能性を論じたが、これにも明らかに矛盾がある。図2に示したように、この二者間の約束は学校社会内部での話であり、それを規定付けているのが憲法や法律なのであるから、本来、学校社会も憲法の支配下にあって、人権保障がなされなければならない。そのため、生徒が学校を拘束する憲法に代わるものがなくても校則自体が学校社会の内部に存在する以上は、その規定内容が当然、人権侵害になってはならない。

※4 ただ、改正の動きにならない事例がすでに発生している。例えば、世田谷区立学校の一部では、インターネットにあえて掲載しないが校則として学校内部では機能している「裏校則」が存在している事例があり、教育委員会は是正するよう通知している(上川あや『1.区立学校の校則公開。「裏校則」を見逃さぬ対処を』上川あや official website、2022年10月14日、2023年10月9日閲覧、1.区立学校の校則公開。「裏校則」を見逃さぬ対処を | 世田谷区議会議員 上川あや (ah-yeah.com) )。したがって、筆者が提案しているようなものをさらに補強し、風通しの良いものにしなければならない。

※5 可能性ではなく、いつ現実になってもおかしくない、校則ではないが、モンスターペアレントによる苦情の嵐が学校の先生の仕事を増加させてるように、それを回避するために学校の先生が勝手に校則に規定する事で、その責任を回避し、生徒に対しては「校則だから」で済ませようとする事態も十分にあり得るだろう。

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