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実体験が炊き出し当事者に活きたこと

炊き出し当事者は、それぞれの人生の中で、不幸な出来事が重なり、苦しみや悲しみを抱えながら、最終的に列へ並ぶ状況に陥っています。常々、当事者に対して、口先だけの綺麗事ではなく、自分の姿勢や態度で示していくしかないと感じています。炊き出し現場では、当事者への言葉遣いを気をつけるように教わるのですが、ぶっちゃけ多少丁寧でなくても、そんなに問題ではないと思っています。言葉遣いは丁寧だけども、失礼な人や嫌味を言ってくる人は、世の中に沢山います。それは、恵まれた立場の人や、賢い人に多いです。表面上の言葉ではなく、中身だと思うのです。

僕は20歳頃と25歳頃に、一人ずつ親代わりの人と出会っています。幼少期から虐待されて育っているので、他者に対して、恐怖・不安・緊張は、現在でも、常に異常なほど高い状態です。20歳頃に出会った一人目とも、本当の安心感を持てたのは、実に出会ってから15年くらい経ってからでした。15年くらい経った時にふと、「適当な気持ちじゃ、接するのがとても大変な僕と、15年も関わり続けていられないよな…。」と、思ったのです。そこから、15年も関わり続けてくれたという事実が、安心感に変わっていき、徐々に僕の精神も安定してきました。

その実体験から、当事者へ一貫性のある自分の姿勢や態度を示し続け、長期的に継続して関わり続けるしかないと思っています。それを続けて、運よく縁がある当事者とは、安定的な関係性が築けていけるのかと感じているのです。それを3年半くらい続け、一部の当事者にはかなり浸透してきたと感じています。他者に対して不信感を持っている当事者に、相手と同じ目線で、同じ方向を見て、同じ時と場所を共有するしかないかと思うのです。当事者によって、傷つき具合、リカバリー能力、人懐っこさなど様々ですから、当事者の数だけ、相手との距離感の取り方、接し方など違ってきます。ひたすら、トライアンドエラーを繰り返しながら、肌感覚で関わり方を会得するしかないかと思っています。当事者への対応で、僕の過去の地獄も活かされているので、僕も少しは救われました。笑

多くの人は、重めの苦しみや悲しみを抱えた人達のことが、本当の意味で理解できていないのかと感じます。日本に生まれていても、日本じゃないような環境に置かれながら生きてきて、最終的にお務めを終えて出てきた人とか、苦しみや悲しみを抱えた人同士で、搾取する側と搾取される側が生み出され、最底辺の中で奪い合いになっているとか、周りが弱者だらけで、誰もが今日をどう生きていくかしか考えることができない、救いのない世界とかわからないのだと思うのです。そういう人達が必要としているのは、理解のない人に、石を投げられることではなく、安心安全な場と、安心安全な人間関係だと思うのです。それだけ日本は、階層によってかなり交流が分断されているのだと感じています。まずは、恵まれている立場の人は、日本にも様々な境遇の人がいる事実を知って、そういう人達のことを少し考えて欲しいです。

恵まれない境遇の人達へ、「排除ではなく許容」が必要だと、僕は強く感じています。そういう人達のことが理解できなくても、ちっとも共感できなくても、寛容な心になれなくても、まずは存在を許容して欲しいと思っています。今、貴方が恵まれた立場でいられるのは、遺伝や環境の運がよかっただけかもしれないのです。

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