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「で」の苦杯、日々丁寧に生きる

「昨日、悲別」という
倉本聰さんの脚本による
名ドラマがあった。
「ティファニー朝食を」という
オードリー・ヘップバーン主演の、
映画もある。

「で」は、場所や手段を示す格助詞のほか、
接続詞「、それからどうしたの?」 
終助詞「今晩の献立は、あり物。」など、
様々な局面で使えるから大変便利。
日常で無数に、ときに無意識のまま、
用いられる。

一方で、重宝される分、
ぞんざいに扱われてしまうことがある。
俳句では散文を誘う典型的な助詞とされ
赤ペン添削の対象となることも。
「の」「にて」「が」のほうが良いと。

この「で」で、僕が新入社員の頃、
上司との飲みの席の、忘れ得ぬ思い出がある。

その夜、残業の後、
上司たちの待つその焼き鳥屋に
僕は遅れて到着し、
店員さんにこう注文した
「とりあえず、ビールいいです」。

この言葉に、
「ビールいい、とは何だ?
ビールいい、ではないのか」
と水を浴びせるように叱責が飛んできた。
その声の主は、最も尊敬する次長だった。

その日の仕事が終わり、
楽しみに駆け付けた飲みの席で
出し抜けに浴びた苦言。ショック。

この一言を30年以上経った今でも、
心に刻んでいる。

あの一言で知った、
美しい言葉を丁寧に使うことの
難しさと尊さ。

後年、僕が日本語が好きになり、
書くことが愛おしくなった、
そのきっかけは、
あの一言だったと思っている。

言葉に注意を払うということは、
相手に心を尽くすこと。
真心のバロメーターであり、
大仰には、生き方も滲み出ると。

今更ながらに
そういう気付きを授けてくれる存在、
僕が勝手に「我が師匠」と心に定めている
当時の次長の、偉大さを噛み締める。

また、当時はこんなこともあった。
執務中に僕の6つ上の先輩が僕に、
「おい、煙草買って来てくれないか」と。
すかさず、我が師匠が声の主に言い放った。


おい、勘違いするな。
彼は君の煙草を買うために、
ここに存在しているのではない


この一蹴。

ドラマのヒーロー以上の、
圧倒的で、孤高。
忘れるはずもない憧憬。

僕は我が師匠から
仕事に向かう姿勢や情報収集法、
システム手帳やペン等の文具の愛で方を
授けて頂いた。
その影響は仕事面に留まらず、
その数年後にご自宅にお招き頂き、
ジャズと音響(オーディオ、スピーカー)、
ビールと洋食、その愛で方に
大きな衝撃を受けた。
僕にとっては、池波正太郎氏の如く、
粋な大人の佇まいを伝授くださった。

「で」で回想する我が師匠との思い出。
僕は今、あの頃の師匠より遥か上の年齢だ。

師匠から受けた教えや優しさ、
そして本質を捉える視点を
誰かに伝えてゆくことが
師匠への恩返しとするなら、
僕はそれを果たせていない。

僕は誰かの、
そんな存在になれていない。
それだけが師匠に申し訳ない。 

「孤立」ではなく「孤独」を選べと、
誰かが言った。
僕は未だに独りよがり、自己完結、
良くも悪くも、どこかSTAND ALONE。

言葉の優しさ、美しさをもっと勉強し、
地道に行進に伝えていければ、
そこから道標が見えてくる、
何かが始まると信じている。

「で」にも存在価値がある。
何事も便利だからとぞんざいにするなかれ。
日々、師匠からの教えを。今でも。

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