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私の幻の博士論文 第8回 条件間の比較と紐づけられた因果関係の枠組みとその難点

前回


1. はじめに

 前回は、IAA(Induced acceleration analysis)による機能分析をスポーツ技術の目的論的意味を解釈するための分析ツールとして使用することができるかということを検討しました。この点についての私の見解は、そのようなアイデアは上手く行かない(場合がある)というものでした。

このアイデアが上手く行かないと考えられる理由は、IAAによって主に可能なことは、ある瞬間に身体に作用した力のその瞬間において発生する因果的効果を表現するということであり、スポーツ技術の分析において必要となることが想定される時間遠隔的な効果を表現することは限定的にしかできないということでした。そこで、時間遠隔的な効果までも取り扱うことのできる分析枠組みを考える必要があるというのが前回の最後に述べた課題でした。

 今回の連載では細かく立ち入ることはしませんが、「因果関係があるとはどういうことか?」という問いに対する回答には、実は多種多様な学説が存在しています。その中には、上で提示された問題に対する解決策として有望な考え方も存在しています。それは、ある行動を行った場合と行わなかった場合における帰結の違いを比較するということに基づき因果関係を定義するという考え方です。

詳しくは次節で紹介しますが、因果関係についてのこのような定義の仕方を採用することによって、時間遠隔的な因果関係をスムーズに取り扱うことが可能になります。そこで、因果関係についてのこのような考え方をスポーツ技術の目的論的意味を解釈するための基本的思考枠組みとして活用することが可能かを検討することが今回のテーマとなります。

結論を先に述べますと、このような因果関係についての考え方をスポーツ技術の目的論的意味解釈のための基本的思考枠組みとして活用することはできないというのが私の見解です。それは、このような因果関係についての考え方をする際に行われる「ある行動が行われる場合と行われない場合の比較」というものが、より具体的にはどのようなものかということを精査してみると、スポーツ技術の目的論的意味を解釈するための基本的思考枠組みが備えているべき性質が欠如しているということが明らかになるからです。次節以降では、この点について順を追って考察していきたいと思います。

2. 基本的コンセプトとその魅力

 本節では、「ある行動を行った場合と行わなかった場合における帰結の違いを比較する」ということを基礎として因果関係を定義するということが、より具体的にはどのような考え方かを簡単に紹介したいと思います。その上で、因果関係についてこのような考え方をすることにはどのような魅力があるかという点について考察したいと思います。

 「ある行動を行った場合と行わなかった場合における帰結の違いを比較する」ということを基礎として因果関係を定義する場合、行動B(Behavior)が出来事E(Event)の原因であると言えるのは、

①Bを行ったときにはEが起きる
②Bを行わなかったときにはEは起こらない 

という2つが共に満たされる場合です。つまり、ある行動が「行われる場合」と「行われない場合」を比較し、その行動Bが行われない場合には生じない出来事Eが、Bが行われる場合には生じるというときに、その行動Bがその出来事Eの原因であると認められるということです。

 因果関係をこのような形で定義することによって、上の条件①②さえ満たしていれば、ある行動とその効果との間に時間遠隔性がある場合であっても、行動とその効果とをつなぐ詳細なメカニズムについて一切言及することなく因果関係が存在することを認めることが可能になります。また、私たちが日常的に行動と出来事の間に存在する因果関係を判断する際にも、このような因果関係についての見方が前提になっていると考えられます。このことは、以下のような仮想的状況における因果関係の判断の仕方について考えてみることで確認することができます。

 図1のように、ボタンを押すと5秒後に星印がスクリーンに映し出されるという機械システムが存在するとします。このような因果関係およびメカニズムの存在をまったく知らない人がこの機械システムに興味を持ったという状況について考えてみましょう。

図1 ここに因果関係があると
判断する根拠は何か?

ボタンを何回か押しているうちに、このボタンを押したことが原因となって、数秒後にスクリーンに星印が映し出されるという効果が生じるという因果関係が存在していることに気がつくことでしょう。このとき、ボタンを押すという行動とスクリーンに星印が映し出されるという出来事の間に因果関係が存在しているのだという判断は何を根拠としてなされるのでしょうか。

それは、ボタンを押した場合には数秒後にスクリーンに星印が映し出されるということが再現的に起こるのに対して、ボタンを押さなければスクリーンに星印が映し出されるということは生じないという規則性が存在しているということだと考えられます。このように、ある行動をした場合としなかった場合において生じる出来事の違いに注目することによって、詳細なメカニズムについては何も分からない状態でも、時間的に離れた行動/出来事の間に因果関係の存在を見出すということを私たちは日常的に行っています。

 実は、スポーツ技術についての目的論的意味解釈を行う際にも、私たちは類似の枠組みを日常的に動員している可能性があります。この点について、「何故あそこで攻撃の手を緩めてしまったのか」というコーチからの問いに対して、「敵の反撃に対応できるようにするためのスタミナを回復するため」と選手が回答しているという状況を題材として考えてみたいと思います。

このような説明をするときには、この選手は、少なくとも主観的には、「もしそのまま攻撃を続ければ、スタミナ切れを起こしてしまい相手の手痛い反撃を受けることになってしまうだろう」と考えて(感じて)いたと同時に、「攻撃を中断すれば、スタミナ切れを回避することができ、相手の反撃に対応することができるだろう」と考えて(感じて)いた必要があります。そのまま攻撃を続けていてもスタミナ切れが起こらなかったり、攻撃を中断してもスタミナが切れてしまったりするのであれば、この選手は支離滅裂な思考をしていることになってしまいます。

つまりここでは、攻撃を中断した場合と中断しなかった場合の比較をしたときにそれぞれのケースにおいて生じる帰結に違いがある(と考えている)ということが、目的論的説明の妥当性を支える根拠となっていると考えられます。これは、本節冒頭で提示された因果関係の有無について考えるときの思考枠組みとかなり似ていることが分かると思います。

 こうした比較に基づく因果関係の推論法は、日常的な因果関係の判断という局面のみでなく、科学的研究において因果関係を特定する際にも重宝されています。こうした思考枠組みが活用されている代表的な例としては、薬の効果を検証するためのテストを挙げることができます。

薬に効果があるかどうかを検証する際には、「薬が投与された場合」と「薬が投与されなかった場合」における、その後の健康状態が比較されます。そして、「薬が投与された場合」の方が「薬を投与されなかった場合」よりも、健康状態が良化しているという結果が得られたときに、その薬を服用することには、健康状態を改善させるような因果的効果があるのだと結論づけられます。

 また、人間や動物の特定の器官や遺伝子が担っている機能は何かということを調べる際にも、同じような比較に基づく推論法が用いられています。具体的には、実験動物に対して、脳の特定部位を破壊してみたり、特定の遺伝子を破壊してみたりすることによって、「ある部位や遺伝子が存在して(働いて)いる場合」と「その部位や遺伝子が存在して(働いて)いない場合」を作り出し、両条件間でどのような違いが生じるのかを比較するといったことがされています。このような破壊実験を行ってみると、通常ならばその動物に発現している能力や特徴が失われてしまうことがあります。そこから、破壊された部位や遺伝子は、失われた要素を発現させるという機能を担っているのだと推定することができます。

3. 再現性はあるけれども因果関係はない?

 本節では、「ある行動を行う場合と行わない場合を比較する」という観点を因果関係の定義の中に組み込む必要があるのは何故(組み込むことの利点は何)かという点について考えてみたいと思います。前回、ある行動(ボタンを押す)をした後に再現的に別のある出来事(窓が開く、換気がされる)が生じる場合には、両者の間に因果関係が存在すると判断することができるのではないかということをお話ししました。しかし実は、このような再現性があるというだけでは、必ずしもそこに因果関係が存在するとは限りません。

「ある行動を行う場合と行わない場合を比較する」という観点が因果関係の定義の中に組み込まれているのは、「本物の因果関係」と「再現性(規則性)のみが存在している偽物の因果関係」の違いを表現する(この2つを区別する)ために必要だからです。本節では、こうした区別を行うことの重要性についての認識を深めるために、再現性は存在しているが因果関係はないというケースとして具体的にはどのようなものがあり得るかという点について考えてみたいと思います。

 ある人は、風邪をひいたときには、必ず白い粉末をお湯に溶かして飲むことにしています。そして、これまでの経験上この粉末を飲むと数日後には必ず体調が回復していたとします。このような経験から、この人は、この粉末を飲んでいるおかげで風邪が治っていると信じています。つまり、この粉末を飲むことには風邪から体調を回復させるような因果的効果があると考えているということです。

ここでは、粉末を飲むと体調が回復するということが再現的に起こっています。あることをしたら再現的に別のことが起こる場合にはそこに因果関係が存在するのだという説を採用するならば、この粉末を飲んだことの因果的効果として体調が回復したと認めなければなりません。しかし、この粉末を飲むことには、風邪を治すような因果的効果は一切ないという可能性が論理的には存在します。

分かりやすいパターンとしては、人間に備わっている自然な治癒能力の働きによって風邪が治っているという可能性があります。人間の身体は軽い風邪程度あれば、大人しく養生していれば自然治癒します。したがって、上で提示されたケースにおいても、飲んでいる粉末には体調回復効果は一切なく、体調が悪くなるごとに自然治癒能力が働くことによって、数日後には体調が回復していたという可能性があることになります。

図2 再現性はあるが因果関係はないケース

 再現的に体調が回復したということのみから因果関係を推定してしまうと、このようなケースについてまで、粉末を飲んだことの因果的効果として風邪が治ったと結論づけることになってしまいます。そこで、因果関係がある場合は因果関係ありと、ない場合はなしと正しく判断するためには、どうしたら良いかということが問題になります。

この問題に対する回答が、粉末を服用した場合としなかった場合を比較してみるというものです。粉末が健康状態に対して何の因果的影響も及ぼさないものならば、飲まなくても相変わらず同じように風邪は治りますし、効果があるのであれば、治りが悪くなると考えられるからです。

4. 不適切な比較方法

 前節では、ある行動を行った場合と行わなかった場合を比較することで、本物の因果関係と再現性のみが存在する偽物の因果関係を識別することができるということをお話ししました。本節および次節では、「ある行動を行った場合と行わなかった場合」が意味している内容をさらに厳密に把握するということを試みたいと思います。

このような追加的検討が必要になるのは、「ある行動を行った場合と行わなかった場合」を比較しているにもかかわらず本物の因果関係と偽物の因果関係を識別することのできない、いわば不適切な比較方法というものが存在するからです。そこで本節では、典型的な不適切な比較の仕方を紹介した上で、そのような不適切な比較方法を用いることによって、どうして本物の因果関係と偽物の因果関係の識別が失敗してしまう場合があるのかということについて考えてみたいと思います。

 あるサプリメントを摂取することに筋肉量を増やすような因果的効果があるかを知りたいとしましょう。現実には、このような効果があるとされているサプリメントには多種多様なものがあり、その中には効果があるものもあれば、ないものもあると考えられます。しかし、今回の議論では、話を分かりやすくするために、世の中には筋肉量増大効果を謳ったサプリメントがただ1種類のみ存在するという前提で話を進めることにします。

このサプリメントを飲むことに筋肉量を増大させるような因果的効果があるかを調べるために、たくさんの人を集めて、

①サプリメントを飲んでいるかいないか
②筋肉量はどのくらいか

という2項目について調べたとします。こうした調査の結果、サプリメントを飲んでいる人たちの方が、飲んでいない人たちと比較して平均して筋肉量が多い傾向にあるということが分かりました。このとき、「サプリメントを飲んでいる場合」の方が、「サプリメントを飲んでいない場合」と比較してより大きな筋肉量を有しているということから、サプリメントを摂取することには筋肉量を増やすような因果的効果があるようにも見えます。

しかし、このような推論をしてしまうと誤った結論に到達してしまう恐れがあります。つまり、サプリメントを摂取することに筋肉量を増やすような因果的効果がない場合であっても、このような調査結果が得られる可能性があるということです。例えば、以下のような条件が満たされている場合が考えられます(図3)。

①ウェイトトレーニングを行うようになると、そのことがきっかけ(原因)となって、サプリメントを飲むようになる。
②ウェイトトレーニングを行わない人は、きっかけがないので、サプリメントを飲むことはない。
③サプリメントには、筋肉量を増大させる因果的効果はない。
④ウェイトトレーニングを行うことには、筋肉量を増大させる因果的効果がある。

図3 筋肉量はサプリを飲んでいる
場合の方が多くなるが・・・

 調査対象の集団がこのような特徴を備えていているとすると、この集団の中には、

①サプリメントを飲んでおり、かつ、ウェイトトレーニングを行っている人
②サプリメントを飲んでおらず、かつ、ウェイトトレーニングを行っていない人

という2タイプの人のみが存在しているということになります(図4)。

図4 集団内にはこの2タイプのみが存在する

このような集団を、サプリメントを飲んでいるか飲んでいないかという基準で二分してみると、同時にウェイトトレーニングを行っているか行っていないかによって集団を二分したことにもなります(図5)。

図5 サプリの有無で分類すると
ウェイトの有無で分類したことにもなる

ここで質が悪いことは、集団がこのような特徴を備えている場合には、調査者がウェイトトレーニングを行っているかいないかというファクターの重要性にまったく気がついていなくても、このサプリメントを飲んでいるか飲んでいないかということを気にしているだけで、自動的にウェイトトレーニングを行っている集団と行っていない集団への二分が完了してしまうということです。つまり、調査者にとっては、二分された2つの小集団の間にウェイトトレーニングを行っているかいないかという点について大きな偏り(不揃い)があるということは、必ずしも自覚されないということです(図6)。

図6 ウェイトトレーニングの有無の
重要性は認識されない

その場合、集団間で筋肉量に違いがあるのは、本当はウェイトトレーニングを行うことに筋肉量を増大させる因果的効果があるからにもかかわらず、何の因果的効果もないこのサプリメントを飲むことによって、集団間の筋肉量に違いが生じているように見えてしまいます。本節冒頭で提示されたような比較方法では、このような原理で本物の原因(因果的効果)と偽物の原因(因果的効果)の取り違えが起きてしまう恐れがあるのです。

5. 他の行動はまったく同じでなければならない?

 前節では、「ある行動を行った場合と行わなかった場合の比較」をしていることにはしているのだけれども、本物の因果関係と偽物の因果関係の識別が上手くできない、不適切な比較の仕方というものが存在するということを指摘しました。これを踏まえて本節では、本物の因果関係と偽物の因果関係を区別するという要請に応えるためには、「ある行動を行った場合と行わなかった場合の比較」とは、より具体的にはどのような比較を意味しているとみなすべきかという点について検討していきたいと思います。

 前節で検討したケースにおいて生じていた問題は、サプリメントを飲んでいるかいないかによってどのような違いが生じるのかを調べようとする際に、ウェイトトレーニングを行っているか行っていないかもグループ間で違ってしまっていたということです。これによって、ウェイトトレーニングを行っていることによる因果的効果がグループ間の筋肉量の違いに反映されてしまっていました。

だとすると、ウェイトトレーニングを行うか行わないかは一致しており、サプリメントを飲むか飲まないかは異なっているというグループ間での比較を行えば良いということになりそうです。このような発想を徹底させてみると、まったく同じ性質を持っている人が、まったく同じ環境で、サプリメントを飲むか飲まないか以外についてはまったく同じ行動をとったときに、サプリメントを飲んだいる場合の方が筋肉量が多くなるという場合に、サプリメントを飲むことには筋肉量を増大させるような因果的効果があると言えるのではないかという仮説が出てきます。

 前節で検討したケースについては、このような仮説的定義を採用することによって、サプリメントを飲むことに筋肉量を増大させるような因果的効果がある場合には効果ありと、ない場合には効果なしという正しい結論を導くことができます。まずは、このことについて確認してみたいと思います。

筋肉量を増大させることに対する因果的効果を数量的に表現しておいた方が分かりやすいので、ウェイトトレーニングを行うことによって+10という筋肉量増大効果があることとします。サプリメントを飲むことについては、+10という筋肉量増大効果がある場合(図7上)と筋肉量増大効果がまったくない場合(図7下)の2パターンがあり得るものとします。

図7 サプリメントを飲むことに
筋肉量増大効果がある場合とない場合

まったく同じ性質を持った2人に実験用の施設(同じ環境)に入ってもらい、そこでサプリメントを飲むか飲まないかという点以外はまったく同じ行動をさせるという状況が、先ほど考案した仮説的定義が反映された具体的状況と言えるでしょう。そこで、この状況における2人の筋肉量を比較した場合について考えてみましょう。なお、ウェイトトレーニングをするかしないかについては、どちらにも行わせなかった場合について今回は考えてみることにします。

この場合、サプリメントを飲むことに筋肉量増大効果がある場合には、図8上のように、サプリメントを飲んだ人の方が筋肉量が多くなり、効果がない場合には、図8下のように、サプリメントを飲んでいようといまいと筋肉量に違いは生じないことになります。因果的効果がある場合とない場合で異なる調査結果が得られるということは、両者の識別をつけることに成功したということを意味します。

図8 仮説的定義に基づきサプリに
因果的効果がある場合とない場合を識別できる

 しかし、サプリメントを飲むか飲まないかということ以外のすべての行動を比較対象間で完全に一致させるという定義には問題があります。なぜなら、この定義に従った場合、サプリメントを飲むことに因果的効果があると考えるべきケースにおいて、サプリメントを飲んだ場合と飲まなかった場合で筋肉量に差がないという結果が出てしまうということが論理的には起こり得るからです。

例えば、図9のような因果関係が存在している場合にこうした問題が生じます。今回のケースで摂取するサプリメントは、それを飲んだ上で何もしなければ筋肉量が増大することはありませんが、体を鍛えたいという欲求が高まるという効果があり、自発的にどんどんウェイトトレーニングをやり込んでしまうようになるものとします。そして、ウェイトトレーニングを行うことには、さきほどのケース同様、+10という筋肉量増大効果があるものとします。

図9 仮説的定義では上手く
行かないパターンの一例

このような関係性が、サプリメントを飲むこと、ウェイトトレーニングを行うこと、筋肉量が増大することの間に存在している場合には、このサプリメントを飲むことには、筋肉量を増大させるような因果的効果があると考えるべきでしょう。しかし、現在検討中の仮説的定義を適用すると、このケースについて、サプリメントを飲むことには筋肉量を増大させるような因果的効果はないという結論が導かれてしまいます。

この場合、サプリメントを飲むか飲まないかにかかわらず、ウェイトトレーニングを行えば筋肉量が増大し、行わなければ筋肉量が変化しないことになります。つまり、ウェイトトレーニングを行うか行わないかを比較対象間で一致させたうえで、サプリメントを飲むか飲まないかのみに違いをつけると、図10のように、比較対象間で筋肉量に違いはなく、サプリメントを飲むことには筋肉量を増大させるような因果的効果はないという結論が導かれてしまうことになります。

図10 その他の行動をすべて一致させて
しまうと因果的効果の検出に失敗してしまう

 以上の考察を踏まえると、因果的効果の有無がテストされる行動(サプリメントを飲むこと)以外の行動や出来事の中には、比較条件間(サプリメントを飲んでいる場合と飲んでいない場合)で同じになっていなければならないものと、違うことがあっても構わない(強制的に同じにしてはならない)ものがあるということになります。そこで、何は同じになっていなくてはならなくて、何は違っていても構わないのかという点について明確化する必要があります。

 違っていてはいけないと考えられる事柄は、注目対象の行動が行われたり行われなかったりする段階での人間の性質、それまでの行動、その時点での環境諸々込みのその時点での状況全般です。これらに違いがあると、注目対象の行動には因果的効果がなくても、その違いがあることの因果的効果によって注目する結果について条件間の違いが生じてしまうことで、注目対象の行動に因果的効果があるという誤った結論が導かれてしまう恐れがあるからです。

例えば、サプリメントを飲むこと自体にはまったく筋肉量増大効果がなくても、既にウェイトトレーニングを行っている人にサプリメントを飲ませ、ウェイトトレーニングを行っていない人にはサプリメントを飲ませなかった結果を比較するとします。そうすると、サプリメントを飲んでいる人の方がサプリメントを飲んでいない人よりも筋肉量が多いという結果が得られてしまうことになります。注目対象の行動の有無(サプリメントを飲むか飲まないか)が問題になる時点までの状況はまったく同じでなければならないというのは、こうした問題が発生する可能性を除外するために必要になる要求だと言えます。

 それに対して、「同じ状況」に対して「注目対象の行動の有無のみ」に「介入的」に違いが与えられた後に、比較条件間で行動や出来事に自然に違いが生じることは認めなければなりません。別の言い方をするならば、同じ状況に対して1つの行動の有無のみに変化が加えた後には、もはや人為的(外部からの強制的)な介入を行ってはならず、自然に生じる行動・出来事の流れをただただ見守る必要があるということです(図11)。

図11 何と何を比較する必要があるのか
についての視覚的イメージ

1つの事柄にのみ変化を加えた後には、それ以上余計な働きかけを行うことなく、事の自然ななりゆきを「見守る」必要があるのは、追加的な働きかけを行うことによって、本来(自然な事の成り行きとして)は生じるはずであった因果的効果を人為的に打ち消してしまったり、反対に効果を付加してしまったりする可能性があるからです。

図10のケースは効果を打ち消してしまう例として位置づけることができます。本来はウェイトトレーニングをするようになるかならないかという1次的効果が生じ、そこに差がつくことを介して、筋肉量にも差がつくはずです。しかし、ウェイトトレーニングをするかしないかを人為的に揃えてしまうことによって、この1次的効果(ウェイトトレーニングを行うか行わないかに違いが生じる)から波及して生じる2次的効果(筋肉量に違いが生じる)が顕在化することが妨げられてしまうことになるのです。

6. スポーツ技術の目的論的意味解釈との相性の悪さ

 前節では、ある行動に因果的効果があると認められるのは何と何を比較した結果に違いがある場合かという点についての明確化を試みました。具体的には、

①それ以外の状況は完全に同じところに
②注目する行動の有無のみに違いがあるような介入的操作が行われ
③その後は余計な働きかけをせずに事の成り行きを見守る 

ということをしたときに、③の段階において注目対象の行動がされた場合とされなかった場合とで違いが生じた部分については、注目対象の行動をしたことの因果的効果であると認められると考えられます。

これを踏まえて本節で論じるのは、このような枠組みに従ってスポーツ技術の目的論的意味解釈を行おうとすると、パフォーマンスを向上させるような効果(目的論的意味)があると考えるべき行動(技術)について、上手く取り扱えないという問題が出てきてしまうということです。特に問題となるのが、ある行動をするかしないかの前段階の状況はまったく同一でなければならないという、偽物の因果関係を本物の因果関係と取り違えないようにするためには必要不可欠な条件を守ろうとすることに無理があるということです。

以下では、こうした問題が生じるであろうケースを2パターン取り上げて考察を加えてみたいと思います。どちらも人工的(仮想的)なケースですので、本当にそうなるのかといった点について疑問を持たれる方もいるかもしれませんが、重要なことは、上手く行かないケースが論理的に存在し得るということですので、そういう論理的可能性の存在を示しているものだと捉えていただけますと幸いです。

 まず1つめのパターンとして、現実とは異なる特殊な100m走について考えてみたいと思います。この100m走では、50m地点で協力者に背中を押されることがルール上認められています。このルール上は認められている50m地点で背中を押されるということに全体タイムを短縮するような効果があるのであれば、「タイムを短縮するために背中を押す」という目的論的意味づけが可能と言えるでしょう。そして、押された直後の走速度が伸びることによってタイムを短縮することが工夫次第で実際に可能だとしましょう。

前節で整理した因果的効果を判定するための基準を適用すると、背中を押されることなく100mを走るときとまったく同じように50m地点まで走ってきて、50m地点で背中を押された後は選手の思うように走った結果として、最終的なタイムが伸びていれば背中を押されることにはタイムを短縮する効果があると言えることになります。

ここで、背中を押されることを利用してタイムを短縮するためには、押される以前の局面から、50m地点で背中を押されることを念頭において走り方を調整しておく必要があるものとします。このような背中を押されるのより前の局面における事前の準備が封じられている場合には、背中を押されるとバランスを大きく崩してしまってタイムはかえって悪くなってしまうものとします。

この場合、前節で整理した因果関係の定義に従うならば、背中を押されることにはタイムを短縮する因果的効果はないという結論が導かれることになります。しかし、背中を押される前の局面も含めた調整次第ではタイムを伸ばすことが可能ならば、背中を押されることにはタイムを伸ばす効果があると解釈するのが妥当だと私は感じますし、多くの方がそのような考えに共感してくれるのではないかと思います。

 この例を通して私が指摘したいことは、今まで行っていたのとは違う技術や動きを取り入れる時には、その技術や動きが実行されるよりも前の局面も含めた運動パターンの全体的調整が必要になるだろうということです。そして、その技術や動きを取り入れる場合と取り入れない場合で、実際にその技術や動きを実行するよりも時間的に前の局面におけるふるまいを違うものにしなければフェアな比較が成立しないということと、関心対象の行動を実行する以前の状況は完全に同じになっていることを要求する因果関係の定義との間には両立困難性があると考えられるのです。

 上で検討したケースでは、タイムの短縮につながる走速度の上昇という効果(=目的論的意味)は、効果に関心を持たれていた事柄(背中を押されること)よりも時間的後に生じるものでした。それに対して、次に検討するケースは、注目対象の行動よりも時間的前の局面に効果が現れるというものです。

前節で整理した因果関係についての考え方を前提にすると、ある行動をすることによる効果として扱うことができるのは、その行動よりも時間的に後に生じる効果に限定されることになります。なぜなら、因果的効果が存在すると認められるためには、条件間で生じる行動・出来事に違いがなければならない一方で、注目対象の行動よりも時間的に前の局面の状況はまったく同じであることが要求されているからです。したがって、ある行動の効果がその行動よりも時間的に前の局面に生じると考えられるケースについては、今回検討してきた因果関係についての枠組みによっては原理的に取り扱うことができないという問題が生じてしまうことになります。

このような問題が生じるケースとして、例えば以下のようなものが考えられます。前半区間と後半区間に分かれている長距離レースがあるとします。このレースでは、前半区間が終わった中間地点において複数のルート選択の余地があるものとします。

このような長距離レースにおいて、従来選択していた後半区間のルートではなく新しいルートを選択することの効果について考えてみましょう。この新ルートは、従来選択していたルートと比較すると、後半区間のタイムは少し遅くなる代わりに、体力の消費を大幅に抑えることができるものとします。

このような設定を前提にすると、前半区間を従来と同じように走った場合には、後半区間で新ルートを選択することによってトータルタイムは悪化してしまうことになります。つまり、前節で整理した因果関係の定義に従うならば、新ルートを選択することにはトータルタイムを短縮するような因果的効果はないという結論が導かれることになります。

しかし、このような解釈は不当だと主張をする余地があると考えられます。問題となるのは、効果についてのこのような評価の仕方では、新ルートを選択することによって後半区間における体力消費が大幅に抑えられるということを活かすように、前半区間の走り方も含めた全体的レースプランが変更される可能性があるということが考慮されていないということです。

後半区間における体力の消費を従来よりも抑えられるということは、より多くの体力を前半区間の走りに注ぎ込むことが可能になると考えられます。それによって実現される前半区間のタイム短縮が後半区間のタイムロスを上回るのであれば、後半区間についてこの新ルートを選択することには、トータルタイムを短縮する効果があると解釈すべきではないかという主張ができそうです。

 スポーツ技術の中には、上で検討した例と同様に、その行動をすることによって、その行動をする以前の状況が好転することに意味があるというものが存在すると考えられます。例えば、相手のカウンター攻撃に対する守備力が改善する(守備技術を向上させる)ことによって、よりリスクのある攻撃を展開することが可能になり、結果的に攻撃力が向上するといったことが対戦競技においては一般に存在するのではないかと思います。注目対象の行動が行われる以前の状況は同じになっていなければならないという制約の下では、こうした技術の効果(=目的論的意味)を適正に取り扱うことができないということが問題になると考えられます。

 2つのケースについての考察から共通して導くことのできる教訓は、ある行動(スポーツ技術)の効果や意味について考える際には、注目する行動の時間的に前の局面も含めて、その行動をするということを踏まえたものに、全体として行動(動き)を調整する必要があるということです。他方で、前節までで整理した因果関係についての考え方では、注目する行動以前の状況はまったく同じになっていなければなりませんでした。この2つの要請が両立不可能であるということから、「ある行動を行った場合と行わなかった場合における帰結の違いを比較する」ことによって判定される因果的効果に基づきスポーツ技術の目的論的意味解釈を行うというアイデアは棄却されるべきであるというのが私の見解です。

7. おわりに

 因果関係の定義の中には、本物の因果関係と、それと似た部分のある偽物の因果関係を区別できるような枠組みが組み込まれていることが要請されます。しかし、そうするとスポーツ技術の目的論的意味解釈を行うための基本的思考枠組みに要請される特徴との両立ができなくなってしまうということを論じました。

もっとも、ある行動をすることの効果と目的論的意味を同視するということ、そして効果については、その行動をする場合としない場合の違いに基づき判定するという基本的構想自体を放棄する必要はありません。ここで認識しておくべき重要なことは、私たちがスポーツ技術の目的論的意味を解釈する際に暗黙裡に行っている比較と、今回検討した因果関係を定義する際に想定されている比較とでは、実は指している内容が微妙に異なるのではないかということです。

私の理解としては、今回検討したような因果関係についての考え方は、科学的な実験方法や統計処理方法の前提となっており、それ故に、この考え方の細かな性質や具体的運用のあり方などについての学問的認識がかなりの程度整備されています。それに対して、これとは微妙に異なる、スポーツ技術の目的論的意味を解釈するために必要となる基本的思考枠組みとはどのようなものであるべきかという点については、私の知る限りほとんど整備されていないという状況にあります。

したがって、スポーツ技術の目的論的意味を解釈するための基本的思考枠組みとはどのようなものであるべきなのか、その枠組みにはどのような特性があるのかといったことを自分たちの手で構想・精査していく必要があります。次回以降は、全3回の予定で、こうした枠組みについての現状の私自身の考えを提示してみたいと思います。


次回

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