雪について

2023/8/11 蛇足部分を削除

雪はしんしんと降るなんて表現は生やさしくていけない。僕は雪が年に1度降るか降らないかという地で生まれ育ってきた。子どもの頃は雪が降れば子どもらしく大はしゃぎしていたが、大人になってそれなりに経験値を重ねた今になっても、雪について抱くのはやはり幻想だ。それも夢心地な幻想ではなく、苛烈ながら全く静かで、世界を氷点下に閉じ込めるという生命への冒涜に等しい現象、その雪という現象に僕が特有に抱く、名状しがたい幻想だ。

世界が終わるときというのは、火山爆発やら隕石衝突が全てを破壊するものだと、人は安易に考えたがる。しかし本当のところ世界が終わるというのは、全活動がゼロに静止して初めて達成されるに違いない。その意味で破壊はエネルギーに溢れてるのだから全くもって終わりではなく、いずれ到来する創造の前哨でしかない。
雪のもたらす氷点下は世界の終わりを擬似的かつ即興的に演出してくれる。昨日までの世界が嘘のように豹変する。僕は昨日と変わらない活力溢れる僕のまま、そこに立っているのだ。そのコントラストがあまりにも強烈ゆえ、僕は真っ白いゼロエネルギーのパノラマに、逆説的な力を見出しす。これが僕の雪についての幻想の概要である。

ドビュッシーは海に馴染みのないまま、全くの幻想から僕のお気に入りの曲である《「海」管弦楽のための3つの交響的素描》を作ったらしい。しかしながらこの逸話を知ったときの僕といえば安直にも「芸術家の内面世界とは超人的で理解が及ばないのだな」と思ったものだがそれは見当違いであったように思う。つまりそういう現実に即さない自分勝手な幻想というのは、非芸術家であろうと誰でも少なからず持っているのだ。この投稿で僕は雪について僕が抱いている幻想を詳らかにしたわけだけど、読み返すほど、これは幻想ではなく僕にとっての一つの現実に違いないという独善的気分が否めない。

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