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不思議な裁判官人事 第4回「出る杭」として処分を受けた人

取材・執筆:木野龍逸・フロントラインプレス

 国家賠償請求や公共事業の差し止め請求などで国に不利な判決を出した裁判官は、その後の人事で不利な扱いを受けるのではないか――。そんな“都市伝説”を検証するため、フロントラインプレスは記者2人の取材チームをつくって、膨大な数の判決を読み込み、複雑に入り組んだ人事異動との関係を調べてきた。見えてきたのは、退官直前に“去り際の一発”と言えるような判決を出す裁判官が、実際に存在することだった。一方で、判決と人事の相関関係は、そう簡単には証明できないこともわかった。

 それでも、取材に応じてくれた元裁判官の言葉を頼りに異動経歴を洗っていくと、「明らかな左遷」と断言できそうな実例も浮かび上がった。本連載の第1回で触れた藤山雅行・元裁判官のケースもその1つだ。今回は、藤山の異動経緯の検証を中心にリポートする。

最高裁判所(撮影:木野龍逸)

「国敗訴」の判決を連発し、出世から取り残された

 市民に有利な判決を出し、国などを敗訴させる判決を出すと、その裁判官は左遷されてしまう。そんなことが実際にあるのか?

 この問いに対し、元裁判官で今は明治大学法科大学院法務研究科で教授を務める瀬木比呂志は、本連載の第3回で次のように答えている。

「多くの場合、あると思います」

 そして、こう付け加えたのだ。

「もっとも、すぐにということは比較的少なく、ひと呼吸置いてからが多いと思います。また、長期間にジワジワと、同期との間で差をつけるやり方で意地悪をするという場合もあります。(その人事を評価するには)10年くらいではダメで、最後まで見ないとわからないのです。部外の人間には簡単にわからないような差の付け方もあり、当人には結構こたえるものなのです」

 左遷はある、イエス。

 それが瀬木の回答である。

「ひと呼吸置いてから」「長期間にジワジワ」やるのだ、と。

 では、「ジワジワ」とはどういう意味なのか。それを検証できる実例はないのか。

 そう考えたとき、東京地裁民事第3部(行政訴訟専門部)の裁判長だった藤山雅行に思い当たった。

 司法修習第30期の藤山は、同期たちの中でトップエリートだった。同時に、東京地裁民事第3部の裁判長時代には、国敗訴の判決を連発し、「国破れて3部あり」と言われた裁判官でもある。

 では藤山と同期の裁判官たちを比較したらどうだろうか。

 司法修習第30期には、81人の裁判官がいる。その中から、最高裁の局付や調査官などを経験したエリート裁判官を抽出した。ここでは“出世コースの王道”と言える最高裁事務総局の経験者だけを取り上げることにした。

 すると、第30期のトップエリートは8人いた。藤山を除く7人の実名を挙げておこう。

 長秀之(おさ・ひでゆき)
 金井康雄(かない・やすお)
 菊池洋一(きくち・よういち)
 北澤晶(きたざわ・あきら)
 西謙二(にし・けんじ)
 三好幹夫(みよし・みきお)
 山名学(やまな・まなぶ)

 この期は1978年に裁判官に任官された。

 順を追って見ていくと、判事補として最初に着任した裁判所は、西(大阪地裁)と山名(名古屋地裁)を除く全員が東京地裁だった。任官時からすでにエリート予備軍だったことがわかる。

 判事補は法令で「10年」と決まっている。裁判官としての駆け出し時代である。その間、トップエリートの8人はどんな経歴を経たか。

 三好は一度、裁判官弾劾裁判所の参事に出た。そのほかは、藤山を含めた全員が最高裁の局付となり、司法官僚としての経験を積んだ。

 判事補としての10年が過ぎると、裁判官は「判事」に任官される。ランクアップだ。では、判事になってからの次の10年間(1988〜1998年)、トップエリート8人の軌跡はどうか。

 この間も、やはり全員が最高裁の局付や調査官を経験した。中でも藤山、金井、菊池、北澤、山名の5人は、この10年の大半を司法官僚として過ごしている。エリート中のエリートしか歩まぬ経歴だ。

 その後、司法修習第30期のトップエリートたち8人は、「地裁部総括」を経て、いつ、どこへ異動したのだろうか。

 藤山と金井は1999年4月、司法修習第30期の中では最も早く、2人揃って東京地裁の部総括になった。三好は同じ時期に大阪地裁部総括に昇進した。2000年には菊池、2001年には北澤と山名がいずれも東京地裁部総括に昇進している。エリート度合いという意味では、ここまでほとんど差はない。

 順調に出世街道を走ってきた8人に差がつくのは、ここからである。

東京高裁や東京地裁、法務省、弁護士会館などが集まる東京・霞が関の地図。同エリアの街頭で(撮影:木野龍逸)

「地裁部総括」は、長くても4年程度で次の任地に異動することが多い。他方、4年程度よりも長くそのポストにとどまり、後輩が先に次のポストに行ってしまう場合もある。それを裁判官たちは「塩漬け」と呼ぶことがある。

部総括のポストに8年、常識の実に2倍

 東京地裁の部総括だった金井は2年後、最高裁人事局参事官に着任した。山名も2年後に出世コースの東京高裁事務局長へ。大阪地裁の部総括だった三好は、3年後に司法研修所教官。いずれも絵に描いたような順調な出世である。そのほか、菊池、北澤も4年以内に次の部署へ異動している。

 一方の藤山はどうか。

 彼は東京地裁の部総括のポストに8年もとどまった。「地裁の部総括は4年程度で次のポストに異動する」という常識の、実に2倍。8年後の人事でようやく東京高裁判事になった。

 その間、金井は東京高裁判事や司法研修所教官などを経験し、トップエリートとしてのポストをさらに積み重ねた。菊池も横浜地裁部総括、法務省司法法制部長、東京高裁判事などを経験。山名は東京高裁事務局長から裁判所職員総合研修所長に栄転していた。

 そして差はさらに広がった。

 司法修習第30期が裁判官になって36年目の2013年4月、藤山は三重県の津地家裁で初めて「地家裁所長」に就任した。地家裁所長は、「高裁の部総括という重職の一歩手前」という位置づけである。

 ところが、前年の11月、同期の三好は東京高裁部総括に就いていた。藤山が「地家裁所長」になった直後の2013年6月には、菊池も東京高裁の部総括に昇進した。

 地方の裁判所「所長」と東京の高裁「部総括」。

 この差は大きい。

 ほかの同期も見てみよう。

 藤山が「地家裁所長」になる前年の2012年、金井は最高裁首席調査官に栄進した。近年、このポストからは直接、高裁長官に進む人が多い。実際、金井は2014年に札幌高裁長官になった。

 山名は2013年の10月、司法研修所長に就任した。

 裁判官人事に詳しい明治大学・西川伸一教授の『増補改訂版 裁判官幹部人事の研究』(五月書房新社)によれば、司法研修所長のほとんどは、次の人事で高裁長官に栄進する。「最高裁首席調査官」と同様、エリートコースという意味では重要なポストだ。

 その例に漏れず、山名は司法研修所長を2年務めた後の2015年6月、名古屋高裁長官に就く。絵に描いたように、出世街道を直進した結果である。他方、藤山は同じ6月、津地家裁所長から名古屋高裁の部総括に転じた。名古屋高裁への着任日の差は、わずか20日。藤山が6月9日、山名は6月29日だ。つまり、藤山がようやく「高裁部総括」になった20日後に、上司の「長官」として同期の山名がやってきたのである。

 裁判官になった後、しばらくは同期のトップを走っていた藤山。

 それが、任官20年を過ぎるころから明らかに勢いをなくし、最終的には同期を「長官」とする高裁の下で働いた。

 これほどの差が付いた事情は何か。

 国敗訴の判決を連発したことが、どう影響したのだろうか。

「国破れて3部あり」と言われた藤山の姿勢が、本当に“国”の反感を買い、裁判官人事を握る最高裁事務総局による対応を生んだのだろうか。

法務省旧本館、通称「赤れんが棟」。その向こうに東京高裁・地裁の建物が見える
(撮影:木野龍逸)

“冷遇の形跡”が明確に見えた

 ここまでは、トップエリートと言われる経歴を持つグループの中で藤山の人事・経歴を見てきた。では、81人を数える司法修習第30期全体で比較すると、どうだろうか。

 裁判官人事の研究で日本の第一人者、西川教授に検証してもらった。

 すると、藤山に対する“冷遇の形跡”が確かに見えてきたのである。

 連載第1回で取り上げたが、ここで西川教授による裁判官人事の評価尺度を再確認しておこう。評価尺度は2つの指標から成り立っている。「エリート度」と「冷遇度」だ。下の内容を見てほしい。「エリート度」は4段階、「冷遇度」は5段階。それぞれ、数字が大きいほどレベルが高くなる。

【エリート度】
4:最高裁事務総局局付の勤務歴のある者、および法務省へ異動しての勤務歴が長い者
3:高裁所在地の地裁所長、東京家裁所長、横浜地裁所長、京都地裁所長、神戸地裁所長の勤務歴のある者
2:3と1の間にいると考えられる者
1:支部勤務、家裁勤務が長い者

【冷遇度】
4:当該判決の影響が顕著に推測される者
3:当該判決の影響がかなり推測される者
2:当該判決の影響がある程度推測される者
1:当該判決の影響が推測できるか微妙な者
0:当該判決の影響がまったくみられない者

 藤山と同期の裁判官を比較し、西川教授はこう指摘した。

「同期81人のうち、藤山さんは最も早く東京地裁部総括になっています。エリート度は最高ランクの『4』です。部総括に就任した時期だけを見ても、藤山さんより早く就いたのは3人しかいません。つまり、藤山さんは同期で第一選抜の昇進組だったと見てよいでしょう」

 一方、前述したように、藤山が初めて「地家裁所長」に就いたのは、三重県の津地家裁である。2013年4月のことだ。

 西川教授は、この人事を“冷遇”のわかりやすい目印だと考えている。

 では、藤山の同期はいったい、いつ、「地家裁所長」になったのか。

 下の表を見てほしい。同期81人中、表には9人しか掲げていないが、西川教授によると、全体の傾向をつかむには、これで十分だと思われる。また、「地家裁所長」になる前に、コースを大きく外れたり、裁判官を辞めたりした者も少なくない。

図1

 西川教授は言う。

「2010年7月には、長崎地家裁所長になった米山正明さんら、幾人もが地家裁所長になっています。それ以降も、藤山さんが所長に就く2013年までさらに多くの者が所長に就いているはず。これは明らかに藤山さんが冷遇された証拠だと思います」

 当初、間違いなく同期の中で先を歩んでいた藤山が、途中から追い越されていく。その様子が、分析から見えてくるのだ。ある時期から冷遇された藤山の人事。それが客観的にも明らかになったと言っていいのではないか。

 元裁判官の瀬木が指摘したように、長い目で見ないとわからないということ、裁判官の世界で差をつけるということは、こうした実態を指しているのだろう。

 さらに、である。

 取材と検証を進めるうち、藤山に対する冷遇の痕跡が、他の点でも浮かび上がってきた。司法修習の同期との比較だけではなく、藤山とほとんど同じ経歴をたどった後輩裁判官の経歴との比較によって、実態が見えてきたのである。

同じ経歴ルートの後輩とも明らかな差

 藤山は、東京地裁で行政訴訟を扱う民事第3部に所属していた。国敗訴の判決を次々と言い渡し、「国破れて3部あり」と称された時代である。

 東京地裁の場合、行政訴訟は専門の部署で取り扱う。そのため判例データベースで判決を検索すると、同じ裁判官の名前が何度も出てくる。

 では、違う時期に民事第3部を担当していた「部総括」裁判官の経歴を調べ、それと藤山の経歴を調べたら、何が見えてくるのだろうか。

 判例データベースで検索し、東京地裁での行政訴訟判決を見直していくと、藤山と司法修習の期が近い裁判官の中に、全く同じような経歴を持つ裁判官が見つかった。しかも2人である。

 司法修習34期の鶴岡俊彦(つるおか・としひこ)。
 司法修習37期の定塚誠(じょうづか・まこと)。

 いずれも、西川教授によるエリート度評価は最高の「4」である。エリート中のエリートにほかならない。この2人と藤山の経歴を裁判官になってからの年数で比較すると、経歴の違いが一目瞭然となったのだ。順に見ていこう。

 藤山、鶴岡、定塚の3人は、東京地裁判事補で裁判官生活をスタートさせた。

 藤山が1978年の任官。鶴岡は1982年、定塚は1985年だ。

 そして3人とも任官から10年間続く判事補の時代に、最高裁事務総局に入っている。藤山と定塚は民事局付、鶴岡は行政局付だ。何度も繰り返したように、判事補時代に最高裁の事務総局で働くのは、裁判官の中でも限られたエリートだけである。

 その後、藤山は任官から14年目で行政局参事官になった。16年目で行政局第2課長、18年目で行政局第1課長・第3課長・広報課付。この藤山の経歴をそのまま引き継いでいくのが、鶴岡と定塚だった。

 鶴岡は任官から12年目に、藤山と入れ替わりで行政局参事官になった。その後は藤山と全く同様に、2年ごとに行政局第2課長、行政局第1課長・第3課長・広報課付に就く。

 定塚は、任官から13年目に行政局参事官になり、その後は2年ごとに同じ経歴をたどった。

 つまり、最高裁行政局の第1課から第3課の課長は、3人がほぼ入れ替わる形でそのポストに就いていた時期があったのである。

 それからの3人はどうなったか。

 任官から最も短い22年目で東京地裁部総括になったのは、藤山である。鶴岡と定塚も23年目で東京地裁部総括に栄進した。ここまでは、ほぼ同じ栄達の道を歩んでいる。3人のコースに変わりはない。

 違いが出たのはここからだ。

 わかりやすいように、3人の異動を一覧表にしてみた。部署は違っていてもそれぞれのポストが同格であれば、緑色の濃さを同じとした。色が濃いほど、ポストは上位になると考えてよい。

図2

 上記3人の経歴を見比べてほしい。

 藤山の経歴は、明らかに他の2人と差があるように見える。

 藤山が名古屋高裁部総括になったのは2015年6月。鶴岡がこれと同レベルのポジションである知財高裁の部総括に就いたのはそれより4年前であり、定塚が同レベルの東京高裁の部総括に就任したのは5年前だ。

 藤山は東京地裁部総括のあとに千葉地裁の部総括に就く。さらにその後、津地家裁と名古屋家裁の2カ所で「所長」になった。鶴岡や定塚と比べると回り道をしているように見える。

 さらに差が激しいのが、藤山と定塚の経歴だ。

 この点について西川教授は次のようにコメントする。

「藤山さんは東京地裁の部総括を8年も続けたあと、千葉地裁に行っています。しかも任官から33年目で千葉地裁の部総括。同じ33年目で定塚さんは東京の高裁で部総括になった。その前にも情報政策課長として最高裁で働き、法務省の訟務局長も経験。司法官僚のエリートコースをたどっています。この違いは大きいですね。東京地裁の部総括時代、国敗訴の判決を出し続けた藤山さんの『国破れて3部あり』。あの一連の判決が影響しているとしか思えません」

西川伸一・明治大学教授(撮影:木野龍逸)

「枠を外れた」裁判官の場合

 判決文と異動を明確に関連付けるような文書があるわけではない。仮にそのような文書が存在していたら、そっちが“大事件”である。

 それに、スーパーエリートを貫いた鶴岡にしても定塚にしても、国を勝たせてばかりいたわけではない。

 鶴岡は2005年、裁判長として、日本人男性の内縁の妻との間の子について、非嫡出子に国籍取得させないのは憲法14条1項に違反するという違憲判決を出した。

 定塚は2013年、成年被後見人の選挙権を奪っている公職選挙法11条1項1号は違憲であり、無効だという判決を下している。

 それでも、藤山との間で、これだけ栄達に違いが出た。「国に不利な判決を書いた裁判官はいずれ、人事で不利益を受ける」との見方は、“都市伝説”とは言えないのではないか。

 この見方を別の方向から補強する証言もある。藤山の人事をリアルタイムで見ていた元裁判官、井戸謙一の話だ。

 井戸は2006年、北陸電力志賀原発(石川県)の差し止めを認める判決を出した人物だ。

 井戸自身は、大阪高裁管内での異動が多いため、東京の動向には疎いという。それでも、後に最高裁判所長官に上り詰めた竹﨑博允(たけさき・ひろのぶ)(司法修習21期)を例に出しつつ、次のように語った。

「恐らくね、裁判所をリードするエリートグループがあるんです。その中に入っていれば、何をしても許されるんです。例えば、竹﨑さんが最高裁総務局の課長から東京地裁の令状部に行ったとき、(過去の)運用を変えてぽんぽんと(被疑者を)保釈したんです。約1年間、好き放題にやっていた。裁判官の間で、『この人はすごい』って噂になっていました。でも、事件部の部長からは悪評紛々でした。『こんなに保釈されたら審理ができん』って。だから、竹﨑さんは『こんなことしてたらエリートコースから外れるんちゃうか』って噂されましたけど、その後もエリート街道をまっしぐらでした」

 藤山も間違いなくそうしたエリートグループに入っていたはずだ、と井戸は話す。

 井戸は裁判官時代、裁判官が集まって意見交換などをする「裁判官会同」で、あるシーンを目撃した。裁判官会同は、裁判官の意思統一を図る場だと言われることもある。

 井戸の回想を聞こう。

井戸謙一弁護士。元は裁判官だった(撮影:木野龍逸)

「(最高裁)行政局のランクは高いです。裁判官会同では、その時々に最高裁が出す課題について参加者がいろいろと意見を言います。最後に『では、行政局はどう考えますか』って促されて行政部の人が話をするんですが、その時に、参加してる裁判官がばーっと一斉にメモを取り始めるんです。それまではメモしてなくて、行政局の見解だけをメモして、自分の裁判所に戻ったときに報告するわけです」

「一時期、参加している裁判官の意見よりも、行政局の見解のほうがリベラルだった時期がありました。当時は行政局の課長がどんな人か知らなかったんですが、後から考えると『あ、藤山さんが課長だった時代だ』って。その後、藤山さんは行政局から東京地裁の行政部(民事第3部)に行ったので、その時は問題にはなってなかったんじゃないでしょうか」

 藤山は東京地裁民事第3部で部総括となり、行政事件を担当していた。

 TKCローライブラリーの判例データベースで検索すると、藤山はその1999年4月〜2004年6月に140件の行政訴訟で判決を出している。「圏央道あきるのインターチェンジの差し止め訴訟」など公共事業に影響を与える判決で国側を敗訴させたり、外国人の退去強制令を取り消す判決を多数出したりしていた。

 藤山はその後、東京地裁の中で医療集中部に異動したが、この異動から2015年6月に名古屋高裁部総括に就任するまでの11年間、「藤山雅行裁判長」による行政訴訟の判決は、1件もヒットしない。「国敗れて」どころか、行政事件を担当することすら叶わなかったことになる。

 そうした藤山の経歴を、井戸は次のように読んだ。

「どこかで法(のり)をこえたんでしょうね。それまでエリートとして育ててきた人を、(エリートが担う)行政事件から外したんですから……。『あれ?』と思いました。やり過ぎると、藤山さんでもこう言う目に遭わされるんだ、って。(裁判官では)誰もが思ったと思います」

相当に人事を気にする“裁判官村”

 人事で冷遇されたと言っても、藤山は最後、名古屋で「高裁の部総括」というポストに就いた。一般企業になぞらえると、かなりの高位だ。これを冷遇人事と言っていいのだろうか、と私のような凡人は思ってしまう。

 ところが、裁判官には裁判官独自の世界観があるようだ。

 先述した瀬木比呂志には、『檻の中の裁判官』など裁判所の内幕を描いた著書がいくつもある。この元裁判官は、私の取材に応じた際、裁判官の人事異動についてこう語った。

「おおむね同じような経歴をたどってきた人たちと比べてみると、明らかに冷遇されているとわかることがあります。裁判官の履歴を単独で見て、『これは』とわかるような例ももちろんありますが、それは相当に露骨な差別をされたケース。より多いのは、同じような経歴で来た人たちと比べてみるとわかるというパターンです。そういうのは、部内の人でないとなかなか気がつきません。より微妙な場合には、僕などが見ても、なお気がつかなったのが、その裁判官の周囲にいた人や年齢が近い人などから説明を聞いてようやく、『あっ、そうだったのか』とわかるということさえあります」

「他の人との比較で割合にわかりやすいのは、東京中心で異動してきて、最後には東京高裁の裁判長になるのが順当なはずの人が、大阪、より明確には大阪以外の地方の高裁裁判長で終わってしまうような例です。例えば、最後には東京高裁に来るべきはずの人が名古屋高裁で終わるのだって、その人にとっては露骨な差別であり得るんですよ。同期や近い期の同僚などとの比較もあるし、高齢での官舎暮らしも強いられる。ましてや、他の高裁ならさらに大きな差別になり得るでしょう。高裁の裁判長といっても、地裁所長と大きな差のない格付けをされているような地域もありますからね。でも、そういうことは、部外者にはとてもわかりにくい」

明治大学法科大学院法務研究科の瀬木比呂志教授(撮影:木野龍逸)

 実は瀬木の取材時には、藤山の異動歴の特異性に、私を含めた取材チームはまだ気がついていなかった。しかし、裁判所の内情に詳しい瀬木の言葉に従えば、藤山のケースは「かなりの差別」を受けた冷遇人事だったと言ってよい。

 同期との異動歴の違い。

 同じ経歴を持つ後輩裁判官との差。

 東京高裁管内からほとんど出なかったのに、名古屋の高裁部総括で定年を迎えたこと。

 いずれも、瀬木の指摘がそのまま当てはまりそうだ。

 多くの裁判官にとって、人事は重要な関心事のひとつだ。それもどうやら、私たちの想像をはるかに超えているらしい。今回の取材で話を聞いた複数の裁判官は、異口同音に「裁判官は人事で人より遅れるのを嫌がる」と語った。出世欲が強いわけではなく、遅れたくはない。そう考える人が多いのだという。

 匿名で取材に応じた現役のある裁判官は、こう語った。

「裁判官は、経歴を他の人と比べやすいこともあり、人事への興味は強い。裁判官は総計でも、せいぜい3000人程度です。自分の競争相手になる人はもっと少ないし、ポストも限られています。それと、これは推測ですが、裁判官の上位100人くらいまでは階層がかなり緻密にできているように思います。だから次にどう動くかが予想しやすいんです」

「裁判官は65歳の誕生日の前日に定年退官になります。(地家裁などの)所長が定年になれば、そのポストは必ず空くので、関心のある人は(他の裁判官の)生年月日まで見ています。自分の期から2つか3つ下くらいまでは自分にも利害関係があるので、誰がどこにいて、いつ頃異動するのかも見ていたりします。人事異動は期別のバランスもあるので範囲が絞られます。自分自身のこともそうですが、野次馬的に見ている人もいます」

裁判所のトップに君臨する最高裁(撮影:木野龍逸)

 この匿名裁判官はさらに、こうも言った。

「人と比べやすいから、人より遅れると、コンプレックスを持つ人もいるかもしれません。実際、(私が)官舎に住んでいた時には、そういう感覚を持つ人はいました。私の妻は『人付き合いが難しい』とも言っていました。夫の異動を見て一喜一憂して、『なんであなたは部長にならないの?』とか、『あの人は次にどこに異動になった』とか、そういう話が、裁判官の妻たちの間で出ていたようです」

 極道の妻たちは縄張りや跡目争いをする。裁判官の妻たちは人事異動をもとに身内の評価を競うことがあるようだ。

 裁判所が人口約3000人の村だと仮想すると、誰が、どこで、どうしているかは、意識しなくても耳に入ってきそうだ。自分の身近な人たちについては、嫌でも動きが目に入るだろう。3000人の村のさらに小さな地区なら、なおのこと、人との付き合いは深くなる。“裁判官村”とでも呼ぶべき、閉鎖社会だ。

 しかも“裁判官村”は、司法試験をパスした者しかいない。頭脳明晰。子どもの頃から勉学に秀でており、小中高から有名校・受験校に通った人も少なくない。その中で自分の人事が自分の予想と違っていたら、気になるのも当然かもしれない。

 そんな社会での生活とは、いったい、どんなものなのか。それを思い浮かべようにも、エリートとはほど遠い生活経験しかない私には、残念ながら想像しにくかった。

「分限裁判」で懲戒処分された裁判官

 憲法76条3項には、こう記されている。

「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」

 この憲法の通りに行動すると、裁判官人生が変わってしまうこともあるのだろう。実際、藤山の人事を検証していくと、判決が裁判官の人事に少なからず影響を与える可能性が高いことが見えてきた。出る杭は打たれる、ということか。

 ところで、裁判官の中には、過去、まさに出る杭として処分を受けた人が実際にいる。司法修習45期の寺西和史(てらにし・かずし)だ。

「処分」発端は1998年4月、仙台地裁の時代。

 そのころ、国会では組織的犯罪対策法(組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律)が審議され、「表現の自由を大幅に制限するものだ」などの批判を浴びていた。同法に反対する市民集会も開かれ、寺西は東京での集会に発言者側として招かれていた。

 ところが、集会開催を告げるチラシを見た泉山禎治(いずみやま・ていじ)仙台地裁所長は寺西を事前に呼び出す。そして、集会に出席して発言したら、裁判所法が禁じる「積極的な政治運動」に当たる恐れがあり、懲戒処分があり得ると告げたという。要するに警告である。

 裁判所法52条1項は、裁判官は「積極的な政治運動をすること」はできないと定めている。では、「積極的な政治運動」とは何か。

 寺西は自著『愉快な裁判官』の中で、最高裁事務総局が著した「裁判所法逐条解説」を引用した上で、自ら回答を示している。

「(裁判所法の言う積極的な政治運動とは)『みずから進んで政治活動をすること』であり、『単に特定の政党に加入して政党員になったり、一般国民としての立場において政府や政党の政策を批判することも、これにふくまれないと解すべきである』とされています」

 最高裁がそう示していたからこそ、寺西自身は、東京の集会で法案に関して何かを発言しても、裁判所法違反にはならないと考えていた。もっと言えば、そもそも寺西が予定していた発言は、法案そのものについてではなく、盗聴法と令状主義の実態の話だった。なおさら「積極的な政治運動」には当たらないと判断していた、と自著に書いている。

 その後、寺西は集会関係者に相談するなどした後、所長からの警告がどういう展開になるのかと「大真面目に面白がって」(愉快な裁判官)、集会に出席した。こういうことを考える裁判官は珍しいのではないか。はたから見ればドキドキしてしまうが、本人はワクワクしていたようだ。

 実際の集会では、地裁所長の警告があったために「パネリストとしての発言は辞退する」と説明し、裁判官の処分を行うための裁判官分限法の紹介などを行った。

「分限」とは、「公務員の身分に関する法律上の地位および資格」(広辞苑)である。裁判官の分限裁判とは、裁判官の懲戒処分をするための裁判を指す。裁判官は憲法78条で身分を保障されていて、行政機関は懲戒処分を行うことができない。したがって、裁判官を処分するには、裁判官分限法による「分限裁判」を開く必要がある。

 泉山所長は、集会への出席すらもだめだと言っていたので、少しでも発言をすれば分限裁判の申し立てを検討せざるをえないのではないか、と寺西は考えていた。実際、その後の展開は、事態を面白がった寺西の予想通りになった。

 1998年5月、仙台地裁は判事補だった寺西の分限裁判を仙台高裁に申し立てた。

 これに対して、寺西側には巨大な弁護団ができた。参加した弁護士は、実に総勢約1200人。裁判は非公開で行われ、仙台高裁は寺西の行動を「積極的な政治運動」と認定。寺西を「戒告」の懲戒処分に付した。これを不服とし、寺西側は最高裁に即時抗告した。

 最高裁大法廷は1998年12月1日、抗告棄却を決定した。ただし、最高裁の裁判官15人の全員一致ではなく、5人の反対意見がついた。

 最高裁判事は慣例で、4人は日本弁護士連合会が推薦する弁護士枠とされていた。反対意見を書いた5人のうち、大学教授だった園部逸夫(そのべ・いつお)以外の4人は、いずれも弁護士枠だった。つまり、裁判官や検察官、行政官などから最高裁の判事になっていた残り10人は全員、寺西の懲戒を妥当と判断したことになる。

 最高裁の判断が出た2日後、日本弁護士連合会は会長声明を出し、この分限裁判について次のように表明している。

「国民に身近な司法を求める声が高くなっている時期に、裁判官も政治的問題を含むさまざまな社会的現象に関心をもち、国民各層との間に交流を深め、国民に納得を得られる、より高い質の裁判を目指すことこそ必要である……裁判官の行動は自律と謙抑に待つべきで、徒らに懲戒によってこれに対応することは裁判官の積極的な意欲を失わせるおそれなしとしない」

仙台地裁の寺西和史判事補(当時)の戒告処分に対する日本弁護士連合会の会長声明=日弁連のホームページから

最初から「こいつは出世させない」という意図

 ここで寺西の経歴を追っておこう。

 寺西は1993年に任官し、札幌地裁判事補として裁判官生活をスタートさせた。1995年には自ら希望して旭川地家裁に異動し、1998年に分限裁判の舞台になった仙台地裁へ。判事補としての10年が終わると、2003年に判事に任官。札幌地裁、仙台高裁秋田支部、名古屋地裁、神戸地裁、大阪高裁を回って、2020年8月に高松高裁判事を最後に依願退官した。

 この異動経歴はどのように見ればいいのだろうか。

 西川教授の見立てによると、まず、エリート度は「2」だった。自著『増補改訂版 裁判官幹部人事の研究』で示している「A庁」という言葉も用いながら、こう解説してくれた。

「寺西さんは初任地が札幌で、判事補時代は札幌→旭川→仙台→札幌と北日本ばかりを回っています。東京、大阪の地家裁と高裁、横浜、京都、神戸、名古屋、広島、福岡の各地家裁の、いわゆるA庁を一度も経験していません。当初から最高裁人事局の中で『こいつは出世させない』との意図があったのではないかと推察します」

「A庁」とは、裁判所を大中小に3分類した時の、「大」に相当する場所だ。西川教授の前掲著書によれば、裁判所の人事においては、司法行政ポストを一部のエリート裁判官が独占することを阻んだり、任官後の遅くない時期に多様な経験を積ませて視野狭窄になるのを防いだりするため、裁判所をA~Cに分類していたという。いずれのランクの裁判所も経験させる狙いからだ。もっとも、現在では、この分類が裁判所の序列化につながっているとの見方もできる。

 ただ、寺西自身は北の任地が多かったことについて、自分の希望もあったと自著に書いており、本人は「希望通りに事が進んだ」と考えているかもしれない。

 西川教授はさらに、次のように評価した。

「寺西さんの『愉快な裁判官』の92~96頁に、任官に際しての面接が、他の任官希望者が8分程度だったのに対して35分もかかったと記されています。また、修習生時代に朝日新聞の声欄に投書していたことについて、面接官が『やたらとしつこく聞いてきた』とあります。とはいえ、任官拒否はできない。そのため、出世させないことが人事当局内部で暗黙の了解になっていたのではないでしょうか」

 司法修習生は、「判事補」に任官する際、最高裁で人事関係の司法官僚から面接を受ける。寺西の自著によると、その面接では過去の新聞投書をめぐって面接官と意見が合わず、議論になり、時間が長引いたという。

 西川教授は「そういう『札付き』を、とまれ大阪高裁判事、高松高裁判事にした」ことをわずかだけプラスにとらえ、寺西の冷遇度については最低よりはましな「3」と評価した。

「同期と比較してみると、寺西さんが高松高裁判事を最後に依願退官する2020年までに、少なくない同期が東京地裁、大阪地裁などのA庁で部総括になっています。高裁判事といえば聞こえはいいですが、寺西さんは高松です。A庁の部総括のほうが、よほど出世したことになります」

 では、寺西は実際にどう思っているのか。

 寺西の依願退職は2020年8月だから、すでに半年以上が過ぎている。そろそろ身辺も落ち着いている頃だろう。彼は現在、京都に在住だ。普段はパソコンもネットもほとんど使っていない。

 この5月。新幹線で京都に向かった。

令状請求の却下を続けたら担当を外された

 寺西とは京都市内の喫茶店で待ち合わせた。

 時間ちょうどに現れた寺西は、想像と違った。裁判所と正面から渡り合うような尖った雰囲気はなく、おとなしい、落ち着いた雰囲気の人だった。

元裁判官の寺西和史(撮影:木野龍逸)

 早速、分限裁判の影響を聞いてみると、「それよりも」と微笑みながら別の話をしてくれた。裁判所人事の全体はよくわからないが、わざわざ東京から取材に来てくれるのだから、何か話すことはないかと考えてくれたらしい。サービス心満点である。

「初任は札幌なんですが、初任の裁判官って令状当番が多いんです」

 捜査当局が容疑者の身柄拘束を行うには、逮捕令状(逮捕状)が必要だ。家宅捜索などを行う場合も同様だ。任意ではなく、強制捜査には必ず、裁判所発付の令状が要る。警察などが令状請求に来ると、裁判所は担当裁判官が対応する。この担当が、たいてい、当番制なのだ。

「私は札幌地裁の民事部にいました。令状当番も結構あって、他の人に比べると請求を却下することが多かったんです。それで札幌に2年間いて、旭川に移った。その時に聞いた話ですが……」

 そんな前振りで、寺西の話は始まった。

「裁判所では毎年4月に定期の異動があります。その異動の前に、4月からのメンバーの担当をどう振り分けるか、例えば、誰を民事に入れるかなどを決めるんです。旭川は小さいので、地裁と家裁が一緒なんですね。その時、誰が旭川に来るかがわからない時点では、次の新任あけの裁判官には少年の身柄事件、鑑別所に入るような比較的非行が進んでいる少年の事件を担当させよう、と。そういう話になっていたそうなんです」

「ところが、新しく来る裁判官が私だとわかった途端、担当者を他の人に代えたらしい。いや、まあ、本当かどうかはわからないんですけど。(少年事件であっても被疑者を逮捕する)身柄事件は(成人の)刑事事件に近いものがありますが、(自分は)捜査側に厳しい人だから『外そう』って思ったのかもしれないですね」

 それが最初の話題だった。もうひとつ、話はあった。

「仙台でのことです。旭川の次、任官から6年目で仙台地家裁に行きました。配属されたのは、不動産執行や仮差し押さえなどの保全、破産などを扱う民事4部でした。ここは『決定』をするだけで、判決がないんです。だから、はっきり言って4部は他の民事部の裁判官より仕事は楽なんです」

「裁判官は、訴訟で判決を書くのが一番大変。判決を書く人は5時を過ぎても残業したり、家に持ち帰って書いたりしてます。民事4部は、そういう持ち帰りの仕事もなかった。当時は事件数や執行件数が多い時代だったんですが、それでも判決を書く通常部より負担は軽かったですね」

 寺西の話はここで、またしても「令状当番」に及んでいく。

「仙台では本務が民事部でも、ヒラの裁判官はほぼ全員、夜間の令状当番があったんです。私にも月に1、2回、令状当番が回ってきて、普通の裁判官なら認めそうな請求を却下していたところ、そのせいなのかどうかはわからないですが、何カ月かしたら、『民事4部は執行が増えて負担が大きいから』という理由で令状当番が免除になったんです」

「私を狙い撃ちにしたのだと思います。私一人を外したら問題だと考えたのか、4部全員が免除になりました。でもね、執行部の裁判官が通常部より忙しいなんてあり得ないですよ。しかも、私が仙台から異動した後、入れ替わりで仙台地裁に入った同期に話を聞いたら、民事4部はまた令状当番をやってるよ、って言うんです。ビックリでしたね」

 寺西はそう言って大きく笑った。

 確かにビックリである。

 寺西は、逮捕令状や捜索令状の請求を機械的に却下していたわけではない。むしろ、逆である。裁判官による令状審査が形骸化し、機械的に発付されているとの指摘は、かねてから根強く存在する。寺西は、その令状審査を厳格に行い、それゆえに却下が多かったと評する法曹関係者は少なくない。

 寺西の名古屋地裁での経験を聞くと、令状審査に厳しい姿勢で臨んでいたことがわかる。

 名古屋時代、寺西は交通事件を扱う民事部に所属していたが、やはり夜間の令状当番があった。寺西によれば、夜間は急ぎの緊急逮捕に伴う逮捕令状や捜索差押え令状の請求がよくあるという。一方、昼間は、被疑者の拘束を延長させる勾留請求が多い。

 そこでも寺西は、緊急逮捕に伴う逮捕状の請求をどんどん却下したと明かす。

「普通は認めるんです。却下はめったにないと思います。通常の逮捕は、令状が出てから逮捕しますが、緊急逮捕は先に捕まえて、後から『逮捕を認めてください』として令状を請求するものです。逮捕の時点では令状に基づいていないので、(令状によらなければ何人も逮捕されないという)憲法33条に触れるかどうかという疑いがあり、事後の令状発付は対象を少し絞らないといけない、という学説が多いと思います。だから私は『こんなのは緊急と言えない』として、請求をボンボン却下したんです。ある時期には、十何件か続けて却下しました。だって、緊急逮捕と言うと、殺人とか、今すぐに捕まえないとどうしようもなくなる事件をイメージするじゃないですか。違うんですよ。万引きとかで捕まえ、被疑者の住所もわかっているのに緊急逮捕するんです」

 ところが、寺西が請求の却下を続けていると、請求自体が少なくなったという。「もともと、権力にストップをかけるような仕事をしたかった」という寺西にとって、令状当番はある意味、最も本領が発揮できる仕事だった。だからこそ、仙台地裁では担当を恣意的に「外された」との思いは募った。

 寺西が初めて、緊急逮捕の逮捕状請求を却下したのは、初任地の札幌地裁のときだ。

 翌日、刑事部の部総括に呼ばれた。

「緊急逮捕は違憲という意見ですか、と聞かれたんです。『別に違憲ということではないですが』と答えましたが、その時の却下理由には警察も納得していたという話だった。それなのに、なぜ部総括に呼ばれたんだろう、と。つまり、『今回はこれでいいが、これから全部却下するのはどうなのか』という牽制球を投げたんだと思います」

 裁判官の決定に誰かが口を挟むと、司法権の独立、裁判官の独立に関わる大問題に発展しかねない。それもあって、却下が多いことについて「他に人から何かを言われたことはない」と寺西は言う。それは、自身の分限裁判に関しても同じだった。

「仙台地裁にいたときに分限裁判を受けましたが、私がいた部の部総括は、こういうことはあったけど気にせずに仕事してください、という感じでした。雰囲気が悪くなるとか、全然ない。民間企業だったら、とんでもないことになりそうですが。その後の異動先でも、攻撃的な意味で話題にする人はいなかった」

「軽い話として、著書(愉快な裁判官)を持つ裁判官という話題の仕方はありましたけど。大阪高裁では、陪席の先輩裁判官が外国に行った経験もあって著書もあったんです。そうしたら部総括から『陪席はみんな本を出してるんだね』って言われて(笑)。一般企業に勤めたことはないですが、裁判所は絶対に良い職場だと思います。給料もそう。部総括になると、『判事3号』となって少し違いが出ますが、それまでの『判事4号』までは、上がり方もだいたい平等なんです。私でも4号になれた。民間企業は、そこまで平等ではないですよね?」

寺西和史(撮影:木野龍逸)

 分限裁判を受けて「戒告」の懲戒処分を受け、令状審査の当番を外された。「最初から、出世はしないだろう」とも思っていた。それでも笑いながら「良い職場だった」と言い切る。人事異動で差をつけたところで、こういう人は深刻に受け止めず、裁判に対する姿勢にも影響は出そうにない。そして、寺西のように「忖度をしない裁判官」が少なからずいるのもまた、現在の裁判所の姿でもあると感じる。

 それでも、人事に関する深い疑問は残った。

「国敗れて3部あり」と言われた裁判官・藤山雅行の人事異動、寺西に対する担当外しなどは、当人の書いた判決や案件処理への姿勢と無関係ではなさそうだ。

 しかし、それを誰がどのように評価しているのかは、昔も今もブラックボックスだ。藤山の評価や異動先のポストを誰が決めたのか、寺西を令状担当から外すという判断はどこで決まったのか。

 このことは、裁判所の中でもかなり上のポストに就かないと、直接知ることができない。

 筆者らの取材班は、その一端を経験した裁判官に話を聞くことができた。最高裁調査官を務めるなどエリートコースを進みながら、刑事裁判で30件近くの無罪判決に携った木谷明だ。

 次回は木谷のインタビューを中心にしつつ、いよいよ裁判官人事の核心に迫る。

(文中、一部で敬称を省略させていただきました)

つづく