不思議な裁判官人事 最終回 透けて見える“冷遇”
取材・執筆:木野龍逸・フロントラインプレス
国に不利な判決を出した裁判官は、その後の人事で不利な扱いを受けるのではないか――。そんな“都市伝説”を検証するため、フロントラインプレスは記者2人の取材チームをつくって膨大な数の判決を読み込み、複雑に入り組んだ人事異動との関係を調べてきた。その結果、退官直前に“去り際の一発”と言えるような判決を出す裁判官が実際に存在することや、明らかな左遷と言えそうなケースがあることもわかってきた。取材に応じた元裁判官の中には「人事の冷遇はある」と断言する人もいた。
連載の最終回では、刑事訴訟を専門とする裁判官としてエリートコースを歩み、自身の目で裁判官人事の一端の見た元裁判官、木谷明のインタビューを中心に裁判官人事の実態を見ていく。すると、やはりと言うべきか、冤罪や再審開始と人事の関係も浮かび上がってきた。
無罪判決を30件も出した裁判官
裁判官人事に関する調査取材を続けていた今年5月の連休明け、元裁判官で明治大学法科大学院教授の瀬木比呂志(せぎ・ひろし)から連絡があった。元裁判官の木谷明(きたに・あきら)が人事で意地悪をされた自身の経験をインタビューで語っている、最近それをインターネット上で読んだというのである。
この連絡をくれる前、瀬木はこんな話をしていた。
「最後は高等裁判所の裁判長をされた、ある高名な裁判官がいます。その人については、経歴を見ただけでは人事面における差別はなかったのだろうと私も思っていました。ところが実際にその人と話をした際に、『差別はあったと思う』とおっしゃったのです。それでその方と同じようなコースをたどっていた他の裁判官たちの経歴と詳細に比較してみると、確かにそういう(差別的な)ことがあったとわかったのです」
ネット記事を読んだ後の瀬木とZoomで話すと、以前の話に出した「ある高名な裁判官」とは木谷であると明かし、こう言った。
「これまでに話したことを補足する意味で述べると、例えば、将来を嘱望されていた刑事系の高裁裁判長が『永山事件』の判決後人事で冷遇されたように見えた、という例があります。また、因果関係はわからないとしても、重大な行政訴訟で市民寄りの判決を出した高裁裁判長が早期に退官された、あるいは自殺されたという例などもあります」
「いずれにせよ、差別や精神的な圧迫・負担などの微妙な事柄については、それを経験した裁判官自身が述べなければわからないという部分が非常に大きい。でも、殊に人事で差別されたというのは裁判官にとっては触れたくない事柄なので、それが語られることは極めて少ない。だから、陰に陽に差別があっても表には出にくい。その意味で、木谷さんが自らこれを語られたことの意味は大きいと思います」
この話を聞いてすぐ、今は東京で弁護士をしている木谷に連絡を取った。国に不利な判決を出した裁判官はその後の人事で不利な扱いを受けるのではないかという“都市伝説”を取材していると電話で告げると、木谷は「また妙なところに目をつけましたね」と少し笑い、二つ返事で了承してくれた。
木谷の名前を有名にしたのは、何と言っても裁判官時代に約30件もの無罪判決を出したことだ。しかも、検察官に控訴されたものは1件しかない。それも高裁で棄却された。つまり、言い渡した無罪判決のすべてが確定したのである。
木谷は司法修習15期で1963年に裁判官に任官した。初任地は東京で、3年後には現場を離れて最高裁刑事局付に就く。以後は、判事補や特例判事補によくある異動と変わらず、札幌や名古屋と東京を往来。1979年から1984年までの5年間は、最高裁調査官として最高裁判所の判事をサポートした。これまで何度か書いた通り、最高裁の「局付」や「調査官」は、エリート裁判官の出世ルートのひとつだ。
1984年4月から4年間は大阪高裁判事として過ごし、1988年に浦和地家裁で初めて部総括に就いた。その後は東京高裁判事、東京家裁部総括を経由して、水戸家裁、水戸地裁で所長になる。そして1999年に東京高裁部総括になって1年3か月後に依願退官して公証人になった。
以上が裁判官としての木谷の略歴だ。
最後のポストだった「東京高裁の部総括」は、裁判所人事を出世双六になぞらえれば、一般の裁判官にとって「上がり」の役職である。だからこそ、部外者がさらっと見るだけでは、どこに人事上の問題があるのかよくわからない。
当の木谷は、現役時代から多少の違和感を感じていたようだ。自身のオーラルヒストリー『「無罪」を見抜く』(岩波現代文庫)の中で、最高裁調査官から大阪高裁判事に転出したときのことを次のように語っている。
「実は、その時は大阪に行くと思っていませんでした。大体、調査官をやると、その後の人事では、地方から入った人は東京地裁か高裁、東京から来た人は外へ出ることもある、と言うように聞いていました。私は名古屋から行きましたから、おそらく東京に行けるんだろう、と思っていました」
その次の人事、大阪高裁から浦和地家裁への異動も驚きだったらしい。
「調査官室から出る時は、まさか大阪へ行くとは思わなかったけど、今度は一カ所回り道した訳だから当然、東京に戻る、と思うじゃないですか。3年で東京に戻った人もいるのに、私は大阪に4年もいました。しかも単身赴任で行っている。(中略)挙句の果てに言ってきたのが浦和でした」
これらの人事について、木谷は「(理由は)わかりません」と記している。
本当はもっと奥深い事情を当人もわかっているのではないか。そう思いながら、5月のある暑い日、木谷が所属している東京・渋谷の弁護士事務所に向かった。
「最高裁に意地悪されたのではないか」
2000年5月に裁判官を依願退官した木谷は、公証人を4年間務めた後、2004年から法政大学法科大学院の教授になった。2012年に定年で大学を退職し、弁護士に登録。今は冤罪事件や再審制度の改革運動などに積極的に取り組んでいる。1937年12月生まれなので83歳になる。
坂の多い渋谷の中でも、より急な坂に囲まれた桜丘町の一画。雑居ビルの中にある事務所のこじんまりした部屋で、木谷と顔を合わせた。笑顔で部屋に入ってきた木谷。よく笑い、べらんめえ調のくだけた調子で話をする人だった。
単刀直入に聞いてみた。
裁判官の人事は判決や事案の処理に影響されることがあると思いますか、と。
「それは明らかですよ。ぼくはそう思いますね」
即答だった。
では『「無罪」を見抜く』で語っていた、自分自身の人事についてはどう感じていたのだろうか。
――木谷さんは著書の中で、最高裁の調査官(1979〜1984年)から転出した後の人事、大阪高裁や浦和地家に行った人事ついて違和感があると話しています。そのへんのことを詳しく教えてください。
「大阪に行く時と帰る時は、ちょっと意地悪されたんじゃないかという感じがしました。僕は名古屋地裁から最高裁の調査官になったんです。地方から調査官になった人は、出るときは東京の地裁か高裁に行くのが慣例だったんです。でも僕は、名古屋から(最高裁に)行ったのに(東京ではなく)また地方の大阪だった。一方で同じ調査官をしていた他の人は東京に残るわけですから、『なんで、おれだけが地方に?』という感じはしましたね。その頃は子どもが大学に入る時期だったから、一人で行くしかなくて、4年間、単身赴任でした」
――大阪高裁から出るときにも疑問を持ったようですが。
「今度は東京に戻してもらえると思っていたら、浦和でしょ。自宅は東京の三鷹(といっても京王線沿線)で、当時は埼京線もないですから、電車で1時間45分くらいかかるんです。たいへんでした。まだ若かったから何とか通ったけど、異動先を聞いたときには『ほんとに通えるのかな、また単身赴任になるのかな』って。だからすぐには承諾できなくて、一晩考えて、家族とも相談してからって答えたんです。それで翌日、承諾するって回答しました。大阪高裁の長官は、私が承諾したことでほっとされたようです」
――もし異動を受けなかったら、もっと悪い人事になることもあるのでしょうか?
「良くなることは普通ないですよね。前例を見ていると、そう。いっぱいありますよ。東京にいたエリート裁判官が沖縄を断ったら翌年に鳥取とかね。沖縄は必ずしも悪い話ではないんですよ(筆者注:沖縄はエリートが行く部署のひとつ)。でもその裁判官は、家庭の関係もあって断ったんです。そうしたら翌年、山陰地方の鳥取と言ってくるのですからね。同じように沖縄を断って大阪に行った人もいるから、ヘンだなと思う。でも断った翌年にいい話がくるというのは、普通は考えられないです。そうしないと、みんなに断られて最高裁もお手上げになるでしょうから」
――木谷さんが浦和地家裁に行くと聞かされた時、原因は何かを考えましたか。
「当時は考えなかったね。大阪では裁判長とも仲良くやっていたから、悪い評価をされる要素があるとは思えなかったんです」
『「無罪」を見抜く』には大阪高裁からの転出時について、大阪高裁長官はぜひ東京に戻してくれという意見を出していたほか、東京地裁でも受け入れを了承していたと聞いていた、という木谷の言葉がある。気になるのは、この話に続いて記述されていた次の言葉だ。
「私は、間に立った最高裁に意地悪されたのではないかと思っています」
最高裁による意地悪とは、どういう意味なのか。
調査官時代に遭遇した「柏の少女殺し事件」
最高裁の調査官。一般には馴染みの薄いこのポストは、裁判所全体の中で相当の重みがある。エリート裁判官しか就けないポストでもある。
調査官は、最高裁に下級審から上がってきた事件を調査し、どのように考えたらいいのかという方向性を示した報告書を作成し、最高裁の判事に提出する。そして、合議がまとまれば判決・決定の原案も起草する。『原発に挑んだ裁判官』(朝日文庫)の中で、元最高裁判事の園部逸夫(そのべ・いつお)は次のように語っている。
「調査官がいないと、最高裁判決は出てこない。判決をどっちに持っていくかは調査官しだいというくらいです」
木谷が調査官時代に手掛けた案件のうち、25件が判例になった。当時の調査官が手がける判例は少ないと数件、多くても十数件とされており、この時代ではぶっちぎりのトップだったらしい。木谷はさらに『「無罪」を見抜く』で次のように話している。
「私は、当時から、刑事裁判で一番大切なものは『無辜(むこ)の不処罰』であると考えていましたから、冤罪の疑いのある事件にぶつかると、黙っていられなくなります」
その信念に従って木谷は、基本的には事実認定に踏み込まないとされる最高裁の調査官としても、無罪あるいは被告人の利益になる方向で原判決を破棄すべきだとする報告書を9件も出した。そのうち6件は、下級審における事実認定の問題が絡んでいる。それだけではない。木谷が下地を作った判例の中には、その後の法律の枠組みの変化につながるような重大な事案も含まれていた。
そのひとつが、「柏の少女殺し事件」への対応だ。
事件は次のような経緯だった。
1981年6月14日の昼間、千葉県柏市の小学校校庭内で当時11歳だった少女が刺殺された。警察は、小学校に来ていた知的障害のある中学2年生の少年を逮捕。凶器の果物ナイフから少年の指紋は出ていなかったが、少年が近くのスーパーで凶器と同型の刃物を買ったことがわかったことや、少年が刺した事実を認めたことなどから、検察は殺人容疑で家庭裁判所に送致した。少年は少年審判でも殺害を認めたため保護処分が確定し、初等少年院に送られた。
ところが、少年院に入った後、付添人が接見すると、少年は自分が刺したのではない、自分が買ったナイフは自宅にあると話し、犯行を否認したのだ。驚いた付添人が少年宅の押し入れを確認すると、話の通りに布団包みの中から刃物が出てきたのである。このため付添人は家裁に少年の保護処分取消を請求したが、一審はそれを認めず、東京高裁に抗告するも退けられた。
そうして事件は最高裁第三小法廷に回ってきた。担当の調査官は木谷である。
「柏の事件は、従来の少年法の枠組みでやったら、再抗告を棄却するしかない事件でした。それを、なんとか理屈を付けて救済しようという意見を出したんです。そうしたら上席調査官にものすごく意地悪をされたんです。木谷調査官の意見はまるで間違ってるって」
刑事訴訟法は411条に再審の規定がある。
少年法にはそれに相当する条文がなかった。
しかし、少年法27条の2には「保護処分の継続中、本人に対して審判権がなかったことを認め得る明らかな証拠を新たに発見したときは、保護処分をした家庭裁判所は、決定をもって、その保護処分を取り消さなければならない」という条文があり、それを再審的に運用することで、申し立てができるようにしていた。
ただし、それは一審限り。上級審に対する抗告や再抗告はできないというのが当時の解釈だった。もとより、法に「抗告ができる」という条文がないのである。だから「柏の少女殺し事件」の上級審だった東京高裁は、この抗告を認めなかった。理由は極めてシンプルで、文字数は600字ほどしかない。法律がないから少年側の抗告には法的な根拠がありません、という内容だ。
こうした法理からすると、最高裁になされた「再抗告」も退けるしかない。木谷はそれを、変えようとした。もちろん、簡単ではなかった。木谷の試みは立法行為だという反対意見も最高裁の内部にはあったらしい。
複雑な案件に直面すると、調査官は集まって議論し、意見集約をすることになっていた。木谷が語るのは、その場でのやりとりだ。
「調査官の研究会では、圧倒的多数が私の報告に反対でした。だけど小法廷の評議では、『一審、二審の結論はやっぱりおかしいから、法律解釈をなんとかして高裁に差し戻したい』ということになったんです。この時は第三小法廷だったのですが、小法廷限りでは問題が大きすぎるから、第一と第二から、刑事を専門とする裁判官、例えば團藤重光(だんどう・しげみつ)さんとか谷口正孝(たにぐち・まさたか)さんらも交えた小委員会で議論をした。そこでもあまり積極的な賛成意見は出なかったのですが、團藤さんからは『重大問題だから、もしやるなら大法廷を開いたくらいの意気込みでやってほしい』とエールが送られました。その結果、第三小法廷の裁判官は『これ(木谷の意見)でやる』ということで、(高裁の判断の)取り消しという結論になったんです」
上司の強硬な反対で事実認定に踏み込めず
「柏の少女殺し事件」について結論を出すには、最高裁として、もうひとつ問題があると木谷は考えていた。
少年の自宅からナイフが出てきたということは、警察が凶器だとしたナイフを買ったのは少年ではない可能性が出てくる。そうした事実認定の問題をどう扱うのか。最高裁が扱う争いは、憲法違反か判例違反が問われるケースしかない。例外的に、刑訴法411条の「重大な事実の誤認」があるという上告の場合は、同条の規定を幅広に解釈し、最高裁でも事実認定に踏み込めるとしていた。
けれども、前述したように少年法にはそもそも刑訴法411条に当たる規定がない。
「少年法には法令違反、判例違反の規定がないから上告は不適法だということで、ポンポン蹴飛ばしていました。最高裁では判断ができないようになっていたんですね」
木谷はこの壁も越えようとした。少年事件の抗告でも、最高裁で事実認定ができるようにしようとしたのだ。ところが……。
「首席調査官と上席調査官が『法律解釈で(保護処分の不取消決定を)取り消すのはやむを得ないけど、事実認定には一切触れるな』って言うんですよ。僕は、そこはなんとか解釈で広げるべきだと考えて、散々苦労して報告書を書き上げて出したら、小法廷がそれに乗ってきたんですよね。そうしたら上席と首席があわてたようです。まさかと思ったんでしょうね」
そう言って木谷は楽しそうに笑った。だがその話し方とは裏腹に、当時の現場の深刻さや異様な空気感が言葉の端々から伝わってきた。
木谷によれば、調査官の仕事とは個人の請負いのようなもので、普段は作成した報告書について他から意見を言われることはない。先述のように、複雑な問題の時には勉強会を開いて議論する程度である。ところが「柏の少女殺し事件」の際は、勉強会での議論とは別に、上司である首席調査官と上席調査官から「総がかりで反対された」そうだ。
「木谷が変なことをするから小法廷が間違えるんだ、ということも言われました。僕は、事実認定もおかしいということも決定に書くつもりで原案も用意していたんです。だけど、首席と上席が『事実認定には一切触れるな』っておっしゃるから、法律論だけの起案をして小法廷に提出しました。せめて補足意見くらいは付けてもらおうとも思っていたのですが、それもできなかった」
首席と上席という上司2人が総がかりで異を唱えてきた結果、事実認定に関しては引っ込めざるを得なかったと木谷は言う。調査官は司法官僚、つまり行政官だ。裁判官のようにジャッジや身分の独立性が確保されているわけではなく、上司の意向に沿わざるを得ない場合があるからだ。
最終的に最高裁第三小法廷は、1983年9月に「原決定を取り消す。本件を東京高等裁判所に差し戻す」という決定を出した。そして、事件の進展は木谷が懸念通りに展開していく。
「案の定、差し戻し審で高裁は少年を有罪にしてしまったのです。本当におかしいんです。少年の言う通り、買ったナイフはちゃんと押し入れから出てきたんですから。それについて高裁が何を言ったかというと、もう一本買っていたかもしれない、と。そういうことを言いだしたら、刑事裁判はやれないですよ。なにしろ、現場遺留のナイフには少年の指紋は出ていないし、少年が腕に巻いていた包帯に血もついていないんですから」
それでも、木谷が関わったこの最高裁決定によって、少年事件の再審制度は事実上、確立された。日本弁護士連合会(日弁連)は最高裁決定の後、次のようなコメントを出している。
「(最高裁の決定により)少年の保護処分に関しても、いわゆる『再審』が、抗告をも含めて、現行法上できることが、最高裁判所によって確認され、無実の少年を救済する途が一層大きく開かれた。少年の人権保障のうえで、今回の決定のもつ意義は大きく、高く評価するものである」
「よど号事件」を担当、そこでも上司の横やり
木谷には、「柏の少女殺し事件」の他にもう一件、上司から猛反発をされた事件があった。日本社会を震撼させた「よど号ハイジャック事件」である。
事件は1970年3月31日に起きた。
日本航空の羽田発福岡行が、武装した9人の赤軍派にハイジャックされた。このときの航空機が通称『よど号』だ。赤軍派の指示に従い、『よど号』は韓国・ソウルの金浦空港を経由して朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に着陸した。これに関連し、赤軍派絡みの別の事件に関与したとして、ハイジャック発生時にはすでに身柄を拘束されていた男が、ハイジャック計画の謀議に加わったとして共謀共同正犯の罪に問われ、一審の東京地裁、二審の東京高裁で有罪判決を受けていた。
問題は、一審と二審で謀議が行われたと認定された日時が違っていることだった。一審で検察側が最終的に主張し、裁判所が認定した日にちについて、被告人は二審で証人を集めるなどして反論。これが奏功して東京高裁は一審で認定された謀議の日のアリバイを認めた。ところが、東京高裁は判決で、検察官も最終的には主張していない別の日に謀議が行われた可能性もあるとして、被告人の控訴を棄却してしまったのである。
この判決に対して被告側は、東京高裁の訴訟手続きに不意打ちなどの違法があるなどと主張して最高裁に上告した。その担当調査官が木谷である。
「報告書では、不意打ちの認定は許されないという趣旨の意見を書いていました。小法廷ではその意見が通って、弁論を開くことも決まったんです。一般のみなさんが知っているかどうかわかりませんが、最高裁で弁論を開くときには判決ができているんですよ。判決の『てにをは』まで確認して、そこまでできあがってから弁論を開く。つまり、原判決を破棄することが前提になります。この時もそうして弁論期日が決まったのですが、その後で横やりが入った。それで小法廷が、破棄を維持できないってなって、結論が変わってしまったんです」
弁論期日が決まった後、上席調査官が「木谷の報告書はおかしい」というメモを小法廷の裁判官に出すなどして強硬に反対し、同時並行で木谷への説得を試みたのだという。
結局、横やりは通った。1983年12月に最高裁が出した判決は、上告の棄却だった。木谷によると、死刑事件以外では、最高裁で弁論まで開いて棄却したのは、後にも先にもこの事件だけのようだ。
また木谷はこの最高裁判決について、「前半と後半が木に竹を接いだようになっている」とも話している。
実際に判決文を読むと、前半と後半の趣旨が噛み合っていないことは素人の筆者でも読み取れる。
前半では、検察官が主張した謀議の日のアリバイが立証された後に、突然日時を変更して謀議は別の日にあったと認定するのは「被告人に対し不意打ちを与え、その防禦権を不当に侵害するものであって違法であるといわなければならない」と結論づけている。それなら原判決は破棄だと普通は思う。改行して続く次段はそうなっていない。「しかしながら」で始まり、高裁判決が認めた日に謀議があったかどうか、あるいはその謀議に被告人が出席していたかどうかに関わりなく、その前後の事情から「被告人の謀議への関与を肯定することができるから、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するとまでは認められない」としている。
「違法だが、著しく正義に反しない」状態とはどういう意味なのか。もし私がそんな原稿をデスクに出したら、その場で突き返されて書き直しになること間違いなしである。
疑問があれば意見を言うのが調査官の仕事
「柏の少女殺し事件」と「よど号事件」の2件は、木谷の仕事の一部に過ぎない。前述したように、最高裁の調査官時代には25件の判例を導いた人物だ。ひょっとすると、これ以外にも頻繁に上司との衝突があったのではないかと推察された。
そう思って、そのまま聞いてみた。
もしかして、調査官時代は上司に煙たがられていたのではないのか、と。
「そうかもしれません。だけど、そうやって意見を言うのが調査官の仕事だと思うんです。検察の主張を『そうですか、そうですか』って受け入れて上告を棄却していたら、最高裁の意味がないじゃないですか。なんのための調査官ですか。問題があれば、『ある』と言うのが調査官ですよ。だから、何も悪いことしているつもりはない。いいことをしてると思ってるから、それで弾き飛ばされるなんて思ってもないですよ」
木谷は続けた。
「調査官の研究会をやると、だいたい僕は少数意見でしたから。支持してくれる人が1人か2人ということもありました。それでも小法廷に持っていくと、裁判官が僕の意見を通してくれることが結構ありました。だから、大変だったけどやりがいはありました。それがやり過ぎと見られたのかもしれませんが……わかりませんね。そういうことには、疎いと言えば疎いんですよねえ」
最高裁の組織は大きく、大法廷と小法廷を擁する裁判部門と、人事や経理などを司る事務総局を含む司法行政部門に分かれる。最高裁の「調査官」は裁判部門に所属し、最高裁判決に大きな影響を与える役目を担っている。それにもかかわらず、自分の思う通りに意見を言えば上司からにらまれるとなると、最高裁を頂点とする裁判所も普通の役所と変わらない官僚組織ということになる。もし、ただの官僚的な組織だとしたら、上司に楯突いていた官僚を異動で弾くことも十分にあり得る話だ。そして、木谷の異動には、木谷自身が首をひねる経緯があった。
それにしても、木谷のような裁判官が人事で冷遇されていたとすると、多くの裁判官は萎縮するのではないだろうか。
「だから賢い人はみんな、気をつけますよ。僕みたいに無頓着な裁判官が、一所懸命やるんです」
所長になって初めて人事考課票を見る
人事には疎いと話す木谷も、自ら直接、裁判官人事の一端を担ったことがある。1996年から約1年間の水戸家裁所長と、1997年から2000年の水戸地裁所長の時だった。
「裁判官の人事考課票があるんです。この裁判官はどういう人で、どういう考えなのかを記入して、所長の名前で上級庁に出す。最終的にそこに高裁の長官が意見を付けて、最高裁に提出するわけです。それを、僕は所長になって初めて見ました。水戸家裁所長になった時です。支部も含めて水戸家裁全体のものを見たんです」
しかし、着任して間もない時期や任期が短い場合、所長が所属する裁判官全体の人事評価をできるとは思えない。実際はどうするのか。それを尋ねると、木谷はこう話した。
「家裁は人数が少ないので所長でも概ね把握できます。でもその後に就いた地裁の所長は裁判官と一緒に裁判をするわけではないので、(各裁判官の仕事ぶりは)わからないじゃないですか。だから、部総括の意見を聞いて所長が考課票を書くんです。人事評価は毎年あるので、一人ひとりについて、毎年一定の時期に最高裁から管内裁判官全員分の考課票が回ってきます。所長はそれを見ることができるんです」
年輪のように積み重なった裁判官の考課票。その内容は、前任の上長が各裁判官をどのように見ていたかを示す証拠である。
ところで木谷は水戸家裁所長の時、考課票に書かれた評価を見て驚いたことがあると言う。
「評価のところに『狷介(けんかい)な性格』って書いてあったんです。書いたのは高裁の長官なのですが、その裁判官が異動した先の考課票にも同じことが書いてあるんですよ。1人が書くと、後の人がみんな同じことを書くことがあるわけですね。高裁の長官はよその地域から来て、任期も短い。だから余計に、なぜ、『狷介』と書いたのかわからない。私が接した限りでは、その裁判官は仕事もできるし性格的に問題があるとも思われなかったから、ちょっとびっくりしましたね」
高裁長官の任期は総じて短い。1年にも満たないことがある上、初めての土地に行くことも多い。それなのに「狷介」と評し、それがずっと積み重なっていく。国語辞典の『スーパー大辞林』によると、「狷介」の意味は「心が狭く、自分の考えに固執し、人の考えを素直に聞こうとしない・こと(さま)」である。
裁判官生活も終盤に近づいた頃、木谷は裁判官の同期会に参加した。その際に考課票について仲間と話をしたと言う。
「『いやー、あんなふうになってるんだな』って話したんです。そうしたら、『おまえはうかつだなあ、そんなことも知らなかったのか』って、バカにされました(笑)。どうやら知っているのが常識だったらしくて。もし知っていたとしても、僕はひるまなかったと思いますけど……やっぱりそんなふうに評価されるのはイヤじゃないですか?」
上に楯突いていると人事に影響するかもしれないという感覚は、多くの裁判官が共有していたようである。調査官時代の木谷は上司との衝突による影響よりも、調査官の本分を考え、自分の意見を率直に報告していた。そのことに触れながら、木谷は言った。
「調査官時代も平気で反対意見を言ってましたからね。でも、いろいろな意見を言い過ぎるから飛ばしてしまうというのは、どう考えてもおかしいですよね。誰も飛ばされたくはないですから」
無罪判決を書くことの意味
調査官時代の仕事とは別に、木谷は在職中、約30件もの無罪判決を出した。そのため、人事で冷遇されたのではないかとの見方がある。
刑事裁判で無罪判決を出すか、有罪判決を出すか。それは、裁判官人生にとってどのような影響があるのだろうか。木谷の場合は、無罪とした判決はすべて無罪で確定しているが、検察が控訴した場合の有罪率は7割とも言われている。このことは裁判官にとってどのような意味を持つのだろうか。
一問一答で木谷の取材を再現しよう。
――検察に控訴されたり、控訴で判決が覆ったりした場合、その裁判官にはどんな影響があるものでしょうか。
「いい影響はないですね。制度上は、地裁より高裁の方が正しいとされているから、高裁で判決が変わったりしたら、間違った裁判をしていると見られてしまうことがあります。(裁判官の間でも)『検事控訴が多い人』という陰口のようなことを言われることもあります。幸か不幸か、僕はそんなにひどい評判にはなりませんでしたが。調査官時代は別にして(笑)」
――上級審で破棄されると、その裁判官によくない噂が出るとすると、裁判官としては無罪判決を避けたくなるのではないでしょうか。それが要因となって、無罪判決のハードルが高くなっているということですか。
「心理的には、あるでしょうね。僕はそうは思っていなかったし、(そういう現実が存在することを)知ったのは裁判官生活の最後の段階ですからね。でも今は裁判員裁判もあるから、ハードルは下がったと思います。裁判官だけの責任ではないので、『無罪判決は仕方なかったんだ』って言えるじゃないですか。あれは大きいです」
――そうは言っても、木谷さんにも無罪判決を出す際には緊張感があったのでは?
「それは神経を使いますよ。控訴されないようにすることや、控訴されても破られないような判決を書くのは、有罪判決を書くより何十倍も大変です。有罪判決は、型通りに書いていれば控訴されてもまず破られません。でも、無罪の場合は違う。検察に控訴されたら7割は覆って有罪になる。僕は『検察は揚げ足取りの名人』って言っているんです。些細なことを針小棒大に突いてくる。高裁の判事が控訴趣意書だけを読むと、『なんだ、この一審判決は』と思い込んでしまうような書き方です。検察は、そのへんはうまいものです。全庁を挙げてやってきますから」
――全庁とは、どういう意味ですか。
「ある検事に言われたことがあるんです。『検事の言うことと違う判決は出さないほうがいいですよ』って。『あなた方裁判官は一人か、せいぜい3人じゃないか。でも俺たちは全庁を挙げて検討するし、場合によっては高検、最高検まで巻き込んで総力戦でやっていくから、勝てっこないよ』と。その人は、事件では全く関係ない人だったので、本当に善意からのアドバイスだったんです」
――善意だとすると、余計に迫力があります。でも、検察はなぜ「全庁挙げて」になるのでしょう。
「検察官は、起訴するまでは被疑者に有利な事情も考えて起訴すべきかどうかを慎重に、そして客観的に判断します。だから、その段階では検察官は『準司法官』です。しかし、起訴した途端、検察官は『準司法官』の顔をかなぐり捨てて『当事者』に変身します。俺たちが全証拠を慎重に判断してした起訴は絶対に正しい。だから、公判段階でそれが崩されるのは何としても防がなければならない。無罪判決のような『誤った』判断は、何が何でも上訴審で是正させなければならない、という意気込みです。だから、その段階では、単なる事件担当の検察官だけでなく、全庁の検察官総がかりで検討し、場合によっては上級庁をも巻き込んで議論することになるのです」
――刑事裁判は、検察や警察が描いた、つまり国家権力の主張を検証することになります。つまり、刑事裁判はそれ自体、国家権力に対する監視ではないかと思うのですが。
「それはそうです。それが裁判所の役割だと思っています。でも、以前は被告側が『まだ最高裁がある』として上告をしていましたが、今は検察が『まだ最高裁がある』と言っているそうです」
検察官は、法務省に属する行政官でありつつ、司法権の一端を担う面もあるため「準司法官」と位置付けられている。
これに関連し、木谷は、検察は行政官庁なので決裁があるとも言う。行政官庁にとって決裁は、組織としての考え方を示すものになる。だとすると、一度決裁した事件については組織の面子を賭けて「当事者」として取り組んでくるのも自然だろう。その点でも、無罪判決を出すことは、裁判官にとって大きなプレッシャーのかかる作業だとわかる。
では、無罪判決が多いことが即、人事に影響を与えると言えるのだろうか。その証明はなかなかできないが(何度か言ったように証明できたら大ニュースである)、少なくとも木谷のケースでは、無罪判決よりも最高裁の調査官としての仕事が影響した可能性がありそうだ。単発の判決と異なり、調査官の判断は法制度の枠組みそのものを変える可能性がある。だから、変化を嫌う官僚的な上司がいたら、調査官への評価が厳しくなっても不思議はない。
木谷とのインタビューの最後、裁判官という仕事をどう感じていたかを聞いた。
予想を裏切らない回答に、少しうれしくなった。
「裁判官の仕事は、おもしろいですよ。こんなにおもしろい仕事はそうたくさんはないと思います。僕は弁護士をやっても成功しなさそうだし、検事でもだめそうだし、会社員になってもうだつが上がらなかったかと思います。裁判官だから、僕程度の能力でもこの程度の仕事をすることができたんじゃないかと思うんです」
取材チームで「木谷人事」を評価
ここからは木谷を対象にして、この連載で恒例となった裁判官の経歴評価をしてみたい。取材チームの勝手な解釈なので、失礼は先にお詫びするしかない。
取材チームはこれまでと同様、裁判官人事に詳しい明治大学の西川伸一(にしかわ・しんいち)教授に評価を依頼した。評価は、木谷個人と同期の裁判官のうちエリートコースをたどった裁判官のそれぞれの異動経緯を比較して実施した。この連載では、裁判官について「エリート度」と「冷遇度」の2つを評価尺度としてきた。下の内容を見てほしい。「エリート度」は4段階、「冷遇度」は5段階。それぞれ、数字が大きいほどレベルが高くなる。
【エリート度】
4:当該判決の影響が顕著に推測される者
3:当該判決の影響がかなり推測される者
2:当該判決の影響がある程度推測される者
1:当該判決の影響が推測できるか微妙な者
0:当該判決の影響がまったくみられない者
【冷遇度】
4:当該判決の影響が顕著に推測される者
3:当該判決の影響がかなり推測される者
2:当該判決の影響がある程度推測される者
1:当該判決の影響が推測できるか微妙な者
0:当該判決の影響がまったくみられない者
まず、木谷の経歴について西川教授はこう評価した。
エリート度「4」
冷遇度「3」
「まず、エリート度についてです。木谷さんは最高裁事務総局の局付と調査官を経験しているので、『4』としました。冷遇度を『3』としたのは、まず、水戸家裁所長に最高裁事務総局の勤務経験者が就いたケースが、木谷さん以降、一人もいないからです。ただ、木谷さんの著書『「無罪」を見抜く』では水戸家裁所長就任や、その前職の東京家裁部総括勤務については言及がないので、本の中でも語られているように健康上の理由が考慮されたのかもしれません」
「一方、大阪高裁から浦和地家裁への異動については、著書の中で意外感を述べておられます。さらに、調査官から大阪高裁への人事についても、同じ本で『一か所回り道した』と言及されています。これらを含めて『3』としました」
全国の裁判所は、東京、大阪、名古屋、広島、福岡、仙台、札幌、高松の8つの高等裁判所の管轄に分かれている。これらの高裁は東京を頂点とし大阪を次位とする明確な格付けがある。西川教授の著書『増補改訂版 裁判官幹部人事の研究』(五月書房新社)では、それぞれの高裁長官から最高裁判事に昇進した人数を調べ、東京と大阪が圧倒的に多いことなどから格付けの存在を明示している。
同じように、各高裁管内の地方裁判所にも格付けがある。東京高裁管内であれば、もちろん東京地裁がトップだ。したがって、木谷の場合も、大阪高裁を出るときは東京への異動が予想されたが、実際はそうならなかった。そうした点を含めての、西川教授の評価だった。
木谷の人事を司法修習同期と比べたら、何が見えてくるだろうか。
修習第15期は、泉徳治(いずみ・とくじ)と上田豊三(うえだ・とよぞう)の2人の最高裁判事を出しているが、2人ともほとんどの期間を司法官僚として過ごしているので比較対象にはしにくい。
他方、最高裁事務総局を経験した同期と比べると、木谷は地裁の部総括になった時期が遅い。また、木谷は浦和地家裁で初めて部総括に就いたのに対し、同期は格上の東京地裁か大阪地裁で部総括に就いている。
こうしたことから、西川教授は次のように評価した。
「木谷さんの部総括(浦和地裁)就任が1988年4月であるのに対して、同期で一番早く部総括に就いた古口満(こぐち・みつる)は1975年4月です(盛岡地裁)。とはいえ、古口さんのエリート度は『2』。このランクでは定年まで務めても所長になれるかどうかですので、あまり参考になりません。エリート度『4』で適切な比較対象を探すと、いずれも最高裁判事になる泉徳治、上田豊三が出てきます。2人とも1982年10月に東京地裁で部総括になりました。これは木谷さんの調査官時代に当たります。同じ時期に大阪地裁部総括になった者も3人。石井健吾(いしい・けんご)、佐々木條吉(ささき・じょうきち)、西田元彦(にしだ・もとひこ)です。木谷さんは最高裁調査官の後、大阪高裁に回されたので、『当然、次は東京地裁の部総括に』と期待したのも当然だったと考えます。実際はそうならず、浦和になったわけですが」
「名張毒ぶどう酒事件」再審決定の裁判官は…
取材チームはもう一件、刑事裁判に関わる裁判官人事の評価を試みた。
「名張毒ぶどう酒事件」の再審請求で、一度だけ再審の開始決定が下されたことがある。それを手掛けた主任判事が、その後の人事で冷遇されたのではないか、という指摘を木谷から受けたのがきっかけだった。
名張毒ぶどう酒事件は、1961年3月に三重県名張市で発生した殺人・殺人未遂事件だ。地元の懇親会で毒物を混入したぶどう酒を飲んで5人が死亡、12人が入院するという大量殺人事件である。地元の男性を被告とする刑事裁判では、1964年に第一審の津地裁で無罪判決が出たものの、名古屋高裁の控訴審では逆転して死刑判決に。最高裁は上告を棄却し、男性の死刑判決が確定した。男性は無実を訴え、その後、10回にわたって再審請求するも、ことごとく棄却されてきた。
ところが、一度だけ、再審開始の決定が出たことがある。第7次再審請求に対する、2005年4月の名古屋高裁の判断だ。この時に主任として決定をまとめた伊藤納(いとう・おさむ)の異動に違和感があると、木谷は指摘するのである。
伊藤は司法修習31期で、1979年に裁判官に任官した。経歴はまさにエリートコース一直線であり、最高裁刑事局付、刑事局2課長、司法研修所教官などを歴任している。木谷によれば、1~3課まである最高裁刑事局の中でも2課長は花形ポストだという。
伊藤は司法研修所教官を務めた後、2004年4月に名古屋高裁判事に就き、ここで「名張毒ぶどう酒事件」の再審開始決定に携わった(再審開始は後に別の裁判官によって取り消された)。伊藤はその後、名古屋地裁の部総括を8年間もの長きにわたって務めた後、鹿児島、岐阜で地家裁所長になる。そして2015年に名古屋地裁所長に就き、3年後に定年を迎えた。
西川教授に評価を依頼したところ、エリート度は『4』で、冷遇度は『1』という結果だった。名古屋地裁所長は東京や大阪の高裁部総括と同レベルのポストで、ここの経験者は直接、高裁長官になることもある。伊藤の場合、そのポストに就くまで名古屋高裁管内から動いていないため、冷遇度はそれほど高くないと判断した。
ただし、気になるのは、「再審開始決定」後に就いた名古屋地裁部総括が8年と異常に長いことである。通常は4~5年で異動になる地裁部総括のポストに8年。いかにも不自然だ。また、最終的に名古屋地裁所長という高い格付けのポストに就任してはいるが、そこに至る経緯は花形の刑事局2課長経験者にしては考えにくいルートだ。これが、裁判官経験者が言う「一見するとわからないが、よく見ると差別されている」というケースなのかもしれないが。
再審請求と裁判官人事の関係は
「名張毒ぶどう酒事件」に限らず、他の再審請求事件を手掛けた裁判官の人事はどうだっただろうか。再審請求の中には、それこそ、「検察が総力を挙げて潰しにかかっている」と思われる著名事件も含まれている。
再審請求自体は膨大にある。したがって、著名な事件を中心に再審開始決定を出した裁判官の人事を分析しくことにした。すると、興味深いことが見えてきた。
裁判の抽出には、これまでと同じく『TKCローライブラリー』の判例検索を使用し、刑事訴訟に絞って「再審開始」をキーワードにして検索した。ヒットは197件。ここから1つずつ判決や決定の内容を確認していく。裁判官の経歴の確認に利用している『新日本法規』の裁判官検索なども使用し、長い時間を要する作業が続いた。そうした結果、戦後に再審開始決定が確定した事件のうち、人事経歴を確認できた裁判長は11人に絞られた。
その評価を西川教授に依頼した結果が次の表だ。事件の「古い→新しい」の順で上から下に並べてある。
この表を見る限り、再審開始決定が人事に影響しているようには見えない。むしろ、ここに上げた再審開始決定をした裁判長は、総じてエリート度が高く、人事異動も通常のエリートコースを歩んでいる。とくに「東電OL殺人事件」より後の再審開始決定では、エリート度『4』の裁判官がたくさん顔を並べている。再審開始決定が人事に影響するというよりも、エリート度の高い裁判官の決定が確定するケースが多いということだろうか。
ここでもうひとつの疑問が浮かんだ。
再審開始決定が出た後に、上級審で判断が覆った事件はどうなっているのだろうか、と。取材チームが確認できた範囲では、以下のようになった。やはり、事件の「古い→新しい」順に並べてある。
この表を見るとわかる通り、すべての裁判長のエリート度は「2」か「1」である。一目瞭然と言ってよい。先ほどの、再審開始決定が確定した事件との違いは明らかだ。
なぜ、このような傾向になるのか。再審請求に対して開始決定が避けられないという情勢になれば、その事件にエリート裁判官を充てるのか。
再審請求がされている著名な事件は資料も膨大で、判断も半年や1年でなかなかまとまるものではないはずだ。しかし「名張毒ぶどう酒事件」の再審開始決定は、主任の伊藤が名古屋高裁に着任して1年でまとめている。木谷は「内容的にも極めて説得力ある決定で、1年間でここまで仕上げたという事実は彼の能力を証明していると思う」と感心する。
再審開始は、裁判所にとっては原審の誤りを認めるものであり、組織という側面から言えば先輩の間違いを正すものなので、ハードルが低いわけがない。例えば、「東電OL殺人事件」の再審開始決定は、裁判長だけでなく、右陪席も左陪席も、エリート度『4』の裁判官が並んでいた。全員が最高裁の調査官経験者であり、裁判長に至っては最高裁刑事局長を務めたこともある超エリートだった。エリート度『4』の裁判官が3人そろう人事は極めてまれという他はない。偶然にそうした並びなったとは考えにくく、「東電OL殺人事件」だったからこそ、こうした布陣を敷いたのかもしれない。
ところで、「東電OL殺人事件」の合議体3人の経歴を評価したところ、1人だけ冷遇度が『3』になった裁判官があったので、ここで取り上げておきたい。司法修習31期の川口政明(かわぐち・まさあき)。最高裁刑事局付や調査官を歴任したエリートだ。
最高裁事務総局を出た後、川口は2010年に着任した東京高裁で、「東電OL殺人事件」の再審開始決定と、その後の控訴審を担当し、無罪判決に携わっている。また東京高裁では同じ合議体で民主党・小沢一郎が絡んだ「陸山会事件」の控訴審を担当し、一審の無罪判決を維持した。その他にも、東京地裁では部総括として「日歯連ヤミ献金事件」で起訴された自民党の村岡兼造元官房長官に無罪判決、平成研究会事件で無罪判決など、約10件の無罪判決に携わった。有罪率99.9%の日本で、10件の無罪判決に関わるのは、比類なき多さと言っていい。
しかし、川口は東京高裁判事のあと、福岡高裁の部総括になり、東京に戻らず福島家裁の所長に異動して、定年を迎えている。
このことから、西川教授は「福岡に飛ばされて、東京を素通りして福島家裁所長に就いている。福島家裁所長は箔を付けるためのポスト」なので、そこで定年を迎えたというのは冷遇人事と評価した。
この異動の原因はわからないが、この、「わからない」ことこそが問題なのである。
「裁判官人事はわからない」が裁判官を萎縮させる
裁判官人事は長らく、「ブラックボックスだ」と批判されていた。いつ、誰が、どのように評価をして人事を決めているのか、全く見えなかったからだ。
その問題を解決しようと、2004年の司法制度改革では「裁判官の人事評価に関する規則」を定め、評価の仕組みを明確化した。新たな制度では、裁判官は自分の職務状況や希望を記載した書面を提出した上で、地裁なら所属裁判所の所長、高裁なら長官と面談することが必須になった。また、自分の評価書を開示請求できることになったほか、不服申立制度もできた。それらの施策によって透明性や客観性を確保しようとした。
一連の制度改革については、一定の好評価がある一方、評価権者が明確になることでその目を気にする裁判官が出てくるのではないかという懸念の声もある。
北陸電力志賀原発2号機の差し止め判決を出した元裁判官の井戸謙一は、取材に対し、次のように話していた。
「司法制度改革以前は、裁判官の人事評価はまったくのブラックボックスでした。だけど、実力者に認めてもらうと出世コースに乗るというのはありました。例えば、最高裁長官を務めた矢口洪一(やぐち・こういち)さんが東京高裁長官になった頃だと思いますが、その一時期、矢口さんが浦和地裁の所長時代に判事補だった人が続々と最高裁の事務総局に入ったんです。当時は有名な話でした」
「司法制度改革では、『評価の仕組みをはっきりさせないといけない』ということで、評価権者が所長になり、部総括が判事や判事補の情報を集約し、所長がそれを評価するというシステムになったんです。それ以前も、部総括の評価の影響が大きいだろうなというのは感覚的にわかっていました。それが形の上でもはっきりしたということです。でも、そうなると、陪席は部総括の目を気にしますよね。そうすると、対等に合議するのが本来の形だったのに、徐々に、部統括は教える、指導する立場になり、陪席は教えられる側というのが色濃くなってくる。部総括は所長から若手の指導について厳しく言われるし、陪席は所長から『部総括に教えてもらえ』と言われる。こうなると、自由に意見を言える雰囲気がだんだんなくなってきますね」
新たな人事評価制度を裁判所法との関係で疑問視する指摘もある。
行政機構の研究者、新藤宗幸(しんどう・むねゆき)は著書『司法官僚』(岩波新書)で、裁判所法では司法行政事務は、最高裁・高裁・地裁などの各級裁判官全員による裁判官会議の合議によると定めていることから、「所属裁判官の人事評価といった司法行政事務の『中枢』といってよい権限は、各級裁判所の裁判官会議にあるのであって、長官・所長にあるのではないというべきだ」と指摘している。つまり、裁判官の人事評価はもともと、合議で決めるべきものだというわけだ。だからこそ、司法制度改革による新たな人事評価制度は「事務総局による裁判官『支配』を強化したといわざるをえないのではないか」と新藤は批判する。
本稿で紹介した木谷の人事は、司法制度改革の前だった。それでさえ、最高裁の横やりによって影響が出た可能性があることを考えると、司法制度改革によって所長や高裁長官の人事権が明確になったということは、上を気にする「ヒラメ裁判官」が増殖しかねない。
「裏評価書の存在は公然の秘密ですね」
人事の不透明さという点では、最高裁事務総局の経験もある瀬木が自著『檻の中の裁判官』(角川新書)で指摘している「裏評価書」の存在も気になる。裁判官の評価書は表と裏の二重帳簿システムになっていて、「事務総局人事局には絶対極秘の個人別事項があり、そこには、その裁判官に関する生々しい評価、ことに当局の観点からの問題事項が詳細に記されている」のだという。この点で言えば、木谷が所長時代に扱った考課票は「オモテ」の評価ということになる。
瀬木はこの「裏評価書」について、取材で次のように話した。
「(裏評価書の存在は)公然の秘密ですね。さすがに自分がその評価書面を扱ったという人には会っていないのですが、『存在する』という話は元人事局の職員から聞いたことがありますし、高位裁判官の経験者にも『ある』という人はいました。また、人事に関する上との会話、雑談の中で、その記載内容を前提とした話をされたという裁判官もいます。以上のような裁判官たちや職員たちの話を総合すると、『ある』という答えしかないのです。実際にその書面を取り扱うのは、人事局長や任用課長に限られるのかもしれません。でも、それに基づく情報の一部については、事務総局の幹部、また裁判官の管理者でもある高裁長官や所長は、共有する場合があると思いますね」
裏評価書については、匿名で取材に応じた裁判官や元裁判官の井戸も、その存在を感じ取っている。井戸は以前、自分の評価書を開示したところ、事件処理についても、部のとりまとめについても無難なことしか書いていなかったと言った。そして、「これでは人事配置はできない。本当に必要な情報は裏に隠れたんだと思います」と話した。
そして井戸は、所長人事を例にしてこう語った。
「地裁の所長人事を発令するのは、最終的には最高裁の人事局ですけど、誰が適切であるかの情報が高裁から最高裁に行っているのは間違いありません。だけど高裁長官は、通常はよそから来ているから、その地の裁判官のことはわかりません。高裁事務局トップの事務局長は裁判官ですが、キャリアは地裁部総括になる前後くらいなので、地裁所長クラスの先輩のことはわからない。高裁長官の次のポストは高裁の部総括のトップにあたる長官代行ですが、親しい長官代行経験者に聞いても、所長人事に関する相談は全然なかったそうです。そうすると、いったい誰が実質的に人事を決めているのかわからない。ほんとにブラックボックスなんですよ。これを変えないと、誰もが疑心暗鬼になって、それが仕事の内容にも影響せざるを得ないと思います」
ブラックボックスであるにもかかわらず、裁判官はみな、人事権者が誰かを薄々察知している。そんな中、自主、自立して自由に判決を書きながら目立った差別もない裁判官がいる一方で、「国破れて3部あり」と言われたスーパーエリート藤山雅行(ふじやま・まさゆき)が傍目にも明らかなほど人事で冷遇されたのを見れば、「気にするな」と言うほうが無理な相談かもしれない。
人事面での課題を解決するために、イギリスやアメリカなどが採用している「法曹一元化」の導入も日本で提案されている。法曹一元化とは、弁護士から裁判官や検察官を任用したり、逆に裁判官や検察官が弁護士に転じたりできる仕組みだ。もっとも、今の裁判所のキャリアシステムを根本から変えることになるため、導入は簡単ではない。司法制度改革の議論の時にも俎上に上がったが、結局、実現に至らず、構想は潰えた。
法曹一元化に準ずる制度として、弁護士から裁判官への任官制度が1992年から運用されている。ただし、日弁連の資料によれば、2016年までの24年間で裁判官に任官した者は116人しかいない。2004年以降は、毎年数人という低調ぶりだ。日弁連も任官者を増やそうとしているものの、変わる兆しがない。
ブラックボックスのふたを開けるのは、箱根のからくり箱より難しそうだ。それが現実の姿である。
この連載の所期の目的だった「国敗訴などの判決を出した裁判官は左遷される」という“都市伝説”の検証は、とにもかくにも、次のような結果を出せたように思う。
・事件の処理方法や判決が人事に影響する可能性はある
・国を敗訴させ続けると、冷遇される可能は高くなる
・必ず冷遇されるわけではなく、エリートコースを歩み続ける裁判官も少なくない
・国敗訴が人事に影響あるのかどうか、わからないことがわかった
事件の処理方法や判決が人事に影響する可能性はある。そして自由に判決を書いても必ず冷遇されるわけではないことも一面では確かだ。人事評価制度に関する課題が山積しているのもまた確かであり、ここが変わらない限り、“都市伝説”は簡単に消えないだろう。
この連載では、原発訴訟で画期的な判決を出したり、国家賠償請求訴訟で国を敗訴させたりする裁判官を数多く紹介してきた。窮屈な裁判官の人事制度の中で、真摯に事件に向き合っている裁判官たち。その姿勢には、心からのエールを送りたい。
★取材班から=この連載で「スーパーエリート」として紹介した元裁判官の藤山雅行氏には、何度か取材依頼を出したが、連載を閉じるまでに返事をいただけなかった。今後、取材が可能になった際は、別の形で紹介することをお約束する。
おわり
木野龍逸(フロントラインプレス所属)