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立花さんの親心 /緑慎也

 立花さんはしばしば人前で涙ぐんだ。

 筆者がはじめて見たのは、NHK教育で1996年9月9日に放送された「NHK人間大学 立花隆 知の現在 第11回」の中だ。同番組で立花さんは講義形式で、角栄研究、宇宙、サル学、脳死、臨死体験などそれまでの仕事を紹介したが、第11回では長期のインタビューで深い仲にあった現代音楽家、武満徹さんを取りあげた。

 立花さんが突如、沈黙したのは無名時代の武満さんについて説明している途中だった。数十秒後、目に涙を溜めながら、声を絞り出すように再び話しはじめた。それは、病弱な武満さんが死ぬまでに1曲でいいから自分の曲を残したいと語っていたというエピソードだった。

 その後まもなく筆者は、文藝春秋の編集者で、立花さんの担当を長く務めた平尾隆弘さん(2009年から14年まで同社社長)から「あの人はしょっちゅう泣くんだよ」と聞いた。「へー」と意外に思ったものだ。その硬派な著作や記事から、立花さんに物事を理詰めで考えるジャーナリストという印象を持っていたからだ。

 しかしそれから20数年の付き合いの中で、筆者も立花さんが泣く場面に何度か遭遇した。

 2009年、どこか地方での講演会の後、夕飯を食べ、ホテルの立花さんの部屋に移り、2人でコンビニの安ワインを紙コップで飲んでいた時である。その前年にがんで急逝した物理学者、戸塚洋二さんの思い出を語りながら、立花さんは泣いた。「戸塚さんは俺が何を聞いても答えてくれた。しかも、その答えが明晰なんだよ。あんな人はいなかった」と。立花さんは取材対象者にとことん入れ込む人だった。緻密な論理の土台には感情があった。

 よく泣く人であることを知っていたから、今年3月初めにかかってきた電話で、立花さんが声を詰まらせた時もあまり動揺しなかった。2月下旬に刊行された『サピエンスの未来 伝説の東大講義』(講談社現代新書)を読み終わったばかりらしく、「これはなかなかいい本だね」と自分の本を褒め、「一言、お礼が言いたくて。出してくれてありがとう」と涙声で言った。

 驚いたのは立花さんから電話があったこと自体である。最後に対面したのは2020年1月。その後、同年2月に電話で話したきり、立花さんから一切連絡がなかった。こちらから電話しても繋がらなかった。年末から上記の本の監修作業を始めた時も立花さんと連絡を取る機会はなかった。よほど体調を悪くしているのだろうと想像していたが、コロナ禍で見舞いに行くことは憚られた。

 最後の電話で、筆者は「シュレディンガーの猫」を思い出した。放射性物質の崩壊をきっかけに毒を発生させる仕掛けを持つ箱の中に猫がいるとすると、量子力学に従えば、猫の生死は箱を開けるまで確定できず、「生きている状態」と「死んでいる状態」の重ね合わせである。放射性物質がいつ崩壊するかは確率的にしか決められないが、それを猫の生死というマクロな現象に結び付ける思考実験で、量子力学の創始者の一人、エドウィン・シュレディンガーが1935年に発表した。

 あの電話の後、筆者の頭に浮かんだのが、「生」と「死」の重ね合わせ状態にあった立花さんの「生」が確定したというイメージだった。

 シュレディンガーの猫なる奇妙な思考実験についてはじめて知ったのも、立花さんの講義からだったはずだ。1996年4月にスタートした東京大学教養学部の講義「応用倫理学 人間の現在」の講師として、立花さんは、哲学、文学、科学、政治など多岐にわたるテーマで話をした。筆者はその講義を聴いた学生の一人で、それ以来、取材の同伴者として、本の編集者として、あるいは講演のサポート役として、立花さんとつかず離れずの関係を続けた。特に、2011年から17年まで7年に及んだ月刊「文藝春秋」の巻頭随筆の連載では、立花さんの個人スタッフとして、通称ネコビルと呼ばれる事務所に通い、下調べや立花さんの原稿の入力などの作業を行った。毎日のように連絡を取り合った。その後もコロナ禍の前までは月に1度くらいのペースで会っていた。

 筆者は我ながら、立花さんに長年尽くしたと思う。だが、立花さんのおかげで得られた成果は山ほどある。先に触れた戸塚さんのブログをまとめ、『がんと闘った科学者の記録』(文藝春秋)、『戸塚教授の「科学入門」』(講談社)として刊行にこぎ着けることができたのは、立花さんと戸塚さんの関係があったからだ。

 筆者と山中伸弥さんとの共著『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』(講談社)も、立花さんに同行して、山中さんを複数回取材した経験が下敷きになっている。2012年10月に山中さんのノーベル医学生理学賞受賞が決まったわずか3日後の刊行だったが、このとき、立花さんは電話で、次のように言った。

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「人生で、こういう幸運が巡ってくることはあるけど、滅多にない。これを当たり前と思わないように。でも、これで出産費用は何とかなるんじゃないの?」

 当時、筆者の妻は妊娠中で、いわゆる妊娠中毒症で入院していた。筆者と同じく立花ゼミの出身者である妻の体調を立花さんは気遣っていた。

 いったん電話を切って、10分くらいして再度、立花さんから電話があった。「本当にこんなタイミングは滅多にありませんから、恥も外聞も気にせず、使える伝手はすべて使って、セールスプロモーションに精を出すべきです」

 講談社の編集者によると、立花さんはこの頃、その編集者に電話をかけ、「この本は絶対売れるから、早く増刷したほうがいいよ」と言っていたという。筆者には、こんな幸運は二度とないと釘を刺し、積極的に宣伝せよと発破をかける一方で、版元には増刷を働きかけていたわけだ。その編集者は「立花さんにも親心があるんだと思った」と言っていた。

 同書の重版がくり返されたのは、もちろんノーベル賞フィーバーの要素が最も大きい。しかし、その10分の1くらいは、立花さんの「圧力」のおかげだ。無事に産まれた娘は今年8歳になった。

 6月23日に立花さんの死が報じられるほんの少し前に、筆者は立花さんが4月30日に亡くなっていたことを知った。筆者にとって生と死の重ね合わせ状態だったネコビルの主の死が確定した瞬間だった。

 3月の最後の電話で、立花さんの涙声に筆者は動揺しなかったが、今は動揺している。

 ありがとうって、こっちのセリフでしょう。

緑慎也
科学ライター。1976年、大阪府生まれ。出版社勤務後、月刊誌記者を経てフリーに。科学技術を中心に取材・執筆活動を続けている。著書に『消えた伝説のサル ベンツ』(ポプラ社)、共著に『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』(講談社)、『ウイルス大感染時代』(KADOKAWA)、翻訳に『「数」はいかに世界を変えたか』『「代数」から「微積分」への旅』(共に創元社)など。新刊『認知症の新しい常識』(新潮新書)。

 6月23日、ジャーナリストの立花隆さんが亡くなったことが報じられました。
 現在、SlowNewsで「13歳からのサイエンス」を連載中のライター・緑慎也さんは、東大で立花さんに学んで以来、アシスタントとして20年以上を立花さんと共に過ごしてきました。間近で接した「知の巨人」の知られざる素顔。緑さんに追悼文を特別に寄稿していただきました。