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「オッペンハイマー」を見ないで評論する

題名は忘れたが本を読まずになぜ書評を書けるのかという本を読んだことがある。その本は現在、我が部屋の、本の海に沈み込んで行方不明だ。いつか海ざらいをして再び読みたいと思っている。しかし、本を読まずに済むのだから、結局はしないかも知れない。そのほうが賢いはずだ。いつか紹介したい。

ある学者は自分の研究分野をまとめた本を書こうとしたところ、自分の人生を変えるかも知れない理想そのままの本を見つけた。当然面白そうなので読もうとしたが、結局は読むのをやめてしまった。彼はこう思ったのだ。読まなくてもわかるはずだ。まずは自分の本を書き上げよう、後で答え合わせをすればいいと。もちろん答えは合っていた。

禅問答で
「道で仏にあったらどうするか」
と問われた岡本太郎は
「私ならその仏を殺す」と答えたそうだ。
私はこう解釈する。
①そんなに都合よく簡単に道で仏に出会うはずはない。それは求めるがゆえの幻影だ。
②人生の目的は仏に会うことではなく、仏になることだ。甘えた気持ちは捨てて覚悟せよ。

そういうわけで、本ではないが映画を見ないで映画評論を書こうと思う。

今回見なかった映画は「オッペンハイマー」である。見る気がしなかった映画でもある。彼は理論物理学者で核兵器の生みの親である。おそらく人類で始めて神様に怒られた人間である。通常では人間は人間に怒られるが今回は別だ。

かつてはプロメテウスが火の秘密を人類に公開してかなりの罰を受けた。彼も覚悟するしかない。

彼は核の秘密を人類に公開した。

別の言い方をすれば、パンドラの箱を開けた。

核反応が連鎖的に起きても人類が制御できないように、核兵器の技術も世界に拡散する連鎖は止められない。

時代が進み科学的知識が一般に広まるとどうなるか?

①安易に科学を信仰する人間が出てくる。
②素人レベルの倫理観で実験を行う。
③起きる現象が大き過ぎて責任を負えない。

最近NETFLIXのドキュメンタリーで遺伝子組換え生物を素人研究者が科学キットで作っているのを見た。事実ならば科学の一般化はもう始まっている。

わかり易く例えるならば、

人混みの中でマシンガンをもたせたチンパンジーの頭を棒で叩く感じだろうか。
チンパンジーが小枝を持って暴れるのはまだ可愛げがある。棍棒を持ったゴリラが暴れると問題だ。しかしマシンガンを持ったチンパンジーはかなりやばい。

ではチンパンジーとの遺伝的類似性が約96%の人間が核兵器を持つとどうなるか?

オッペンハイマーはなぜチンパンジー族に核兵器をもたせたのか?
理由はなんとでも言える。戦争を止めるには仕方なかったとか。くだらない。
マシンガンを持ったチンパンジーは科学の一般化と共に増えていく。

こうなってしまった最大の理由は地球の舞台裏の装置を見てしまったからではないか?。科学大好き人間であれば必ずやることがある。それを分解し再び元に戻すことだ。

アダムとイブがエデンを追放されたのは、自分たちも善悪と知識を知る神のように賢くなって王国(社会とか世界)を作ろうと思っていたからだ。

神からすれば、私は止められない、君達は自由だからね、ただし大きな責任が伴うよとなる。その災を受ける覚悟はあるのかと。そして心配し悲しんでいる。そのアダムとイブの子孫がオッペンハイマーなのだ。彼もまた自由と責任からは逃れられない。

つまり人類は予言どおりに進んでいる。

予言は理解できない庶民にとっては怪しい予言に見えるが、深い洞察と冷徹な合理性から見れば予言とは正確な計算結果なのだ。人間が行ってきた罪の歴史を分析して統計的に見るとこうなるだろうという計算である。オッペンハイマーにも見えている。

オッペンハイマーが見た地獄は自分がしでかした間違いの連鎖だけではない。人類の行く末に気が付いているのだ。
時計の針が進むように、予言どおりに世界が進んでいく、自分の間違いもそのシナリオの一部だったことに気が付いた。もしかすると、その気付き自体がオッペンハイマーに与えた神の罰かも知れない。

そして監督はこう言いたいのだ。私だけがオッペンハイマーが見た地獄を理解できてると。そういう映画なのだ。監督も一人称視点のドキュメンタリーを通してオッペンハイマーと同じように見ている。

「オッペンハイマー」を見るには3時間。
暗い部屋でおしっこに耐えるのは初老の私にはきつい。いつか答え合わせはしてみたいけれど。

しかし監督の視点は原爆の被爆者には向いていない。彼は予言の中に取り込まれて震えてる。そして興奮している。相変わらずの狂気っぷりだ。被爆者の視点を入れるとオッペンハイマーの視点を失い、脳の同化を保てなくなるからだろう。

間違ってたら老人のたわごとだと思って下さい。

でも難解で有名なクリストファーノーランである。メメントからぶっ飛んでいた。今なお暴走中である。おそらく彼の映画をみんなで誤解しまくっているだろう。誤解が渦巻く世の中で、どうやって私の評論が間違っていると検証できるだろうか?

私の誤解が読者にとって腑に落ちればそれ以上のことはないのではないか?

でも見てないじゃないか!って?
いや、変な誤解をするなら見ないほうがいいかなって、、、。おしっこもあるし。あの狂気には付き合えない。

逆にクリストファーノーランは被爆者の目に降りてもう一つの映画を作るべきだ。今のままではオッペンハイマーの見ている地獄にとどまっていることになる。
地獄に落ちるとはそういうことになるが、、、。
多分降りて来れないだろう。
だから彼は狂気の監督なのだ。
彼は西欧人の罪を見て震えているしかないのだ。

奇しくもこの映画は人類全体に与える神の罰かも知れないのだ。奇才クリストファー・ノーランは意図せずともそれをやってのけた。
私からすればいい迷惑だ。だから見たくなかったのかも知れない。
お金を払ってまで人類の罰を受けに映画館に並んでいる光景は黙示録の一部かも知れない。

当然ながら私もそこから逃れることはできない。




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