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インターネットと偶然性について

今日はどんなことを書くか何も考えていない。でも、書くことで何かが見えるかもしれないからとりあえず書いてみる。

今のインターネットと偶然性について考える。
Googleでも何でもそうだが検索機能が発達しすぎており、すぐにほしい答えや繋がりたい人に出会えてしまう。無論、利点はある。同じ問題を抱えている人同士で繋がれたりするのは、この社会で生きていくときの糧になるからだ。
が、今のインターネットの様式だと、偶然性が発生しづらくなってしまっているのではないか。自分が想像する範囲で答えは見つかるし、同じ趣味の人と繋がれるが、想像もしなかった問や全く違う人間と出会うのは少しむずかしいかもしれない。

ピーター・ティールが「空飛ぶクルマを望んでいたのに、手にしていたのは140文字だ」と言っていたが、この皮肉に少し同意するところがある。ぼくらはテクノロジーによって今を変え、もっとドキドキする自由な未来を想像していたのに、今のテクノロジーは人と繋がることに特化しすぎている。

例えば、ぼくとインターネットでつながっている人の多くは本好き、文学好きである。あと社会運動をしている人。サウナに命をかけている人とはつながっていないし、マッチョとのつながりはない。同じ本好きと話しているときは楽しいが、本以外にも世界は広いし色んな経験をしている人がいる。
全くぼくが想像もしなかった人とも話してみたい。その人の目にはどんな世界が写っているのだろうか。

ぼくが次に読む本はだいたい想像がつく。文学系か哲学系、もしくは自然科学系の本である。ビジネス本とかは読まないだろうなぁ〜とか思ってしまう。でも、自分が知らないだけで面白いビジネス本もある。でも読まない。人生は有限であり、よみたい本はたくさんあるからだ。だから、確実にぼくが満足する本を選んでしまっている。でもそれでいいのか。

ぼくが想像もしなかった人と出会うことで、もしかしたらビジネス本を読みまくる人になるかもしれない。急にマッチョになるかもしれない。そっちの人生も楽しいのかもしれない。人生は先が全く見えないのも怖いし、先がすべて読めてしまうと面白くない。偶然性と必然性のいい感じのポイントに居るのが、満足を得られると思う。

やっぱりインターネットより実空間のほうが偶然性に関しては開かれている。

今妻と子供が実家に帰っていて、一人で家にいる。もっと外に開かれていこうと思った、金曜日の20:30分頃である。

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