見出し画像

映画『夜明けのすべて』と味のない炭酸水

前提
こんなことを書くと言い訳がましくなってしまうが、ぼくがnoteでやりたいのは「考察」ではなく「批評」だ。この「考察」と「批評」は似てる非なるものである。作品の空白地帯や謎については、ある答えがありその答えを導き出すのが考察である。対して、答えを出すのではなく、作品をこえてもっともっと向こうまで、想像力により引き伸ばすものをぼくは仮で批評と呼んでいる。

ぼくは、映画や文学に対して造詣が深いわけではないので専門的に語れるわけがない。ぼく自身が感じたところを基点にして、自由にあっちにもこっちにも行けるような作品の語り方をしたい。今のところそこまでの技量はないので、ぼくの感覚を手がかりにゆっくり掘り進めるしかない。

なので「本当か、それ!?」みたいな書き方をしているが、ある程度大目に見てほしいところはある笑
ぼく自身の内面を語っているようでもあるし、ぼくの外部、社会や世界を語っているようでもある。ぼくが憧れるのはそんな鵺のような、奇妙な文章である。

映画『夜明けのすべて』を観た。劇場で観たかったけどいつの間に終わってしまったので、配信直後にサブスクで観ることにした。

どういう内容か簡単に説明すると、月に一度PMS(月経前症候群)でイライラが抑えられなくなる藤沢と、仕事の同僚であるパニック障害を患っている山添のゆるやかな関係性の話だ。物語もなにか突拍子もないことが起こったりすることはなく、カタルシスもなく緩やかに進んでいく。ドラマ性よりドキュメンタリー風な作りになっている。

『夜明けのすべて』は妻と共に観たかった映画だった。
ぼくも精神障がいを患っているが、妻はぼくより重い精神障がいを患っている。だから、何か感じることがある映画ではないかなと思っていた。実際、2人で観て、妻は心療内科や産婦人科でのやりとりに共感する部分があったり(ぼくもあった)、PMSが発症したときのだるい感じとか、分かる部分があったらしい。

この映画を観てぼくがまず注目したのは、パニック障害を患っている山添が大量に味のない炭酸水を飲んでいる所だった。あとパニック障害の症状の一つである不整脈を緩和させるようガムをよく噛んでいた。

ぼくはパニック障害ではないが、このシーンはなんとなく感じるところがある。
ぼくは普段ほとんどジュースやコーヒーは飲まないが、なぜ水は何かに取り憑かれたように大量に飲んでしまう。ちょっと前に、1日で2Lペットボトルを2本飲んだあと、水中毒のような症状になってしまった事がある。昔から水ばかり飲んでいた訳ではないが、今はなぜかそうなってしまった。

ぼくは、この味のない飲み物が今の日本社会を象徴していると考えている。日本は「失われた30年」を超えて40年、50年になりそうであるが、もう今の時代は(下手したら10年前ぐらいから)失われていることが当たり前になっている。ぼくらは何を失われているのか、それは未来だ。日本が落ち込んでいくと未来に従来的な希望が持てなくなってしまう。その結果、自身の欲を無意識内にしまい込んでいる気がしてならないのだ。
この失われていることが、味のない飲み物として現れてくる。

山添と藤沢は最後まで恋愛に発展することはない。山添はPMSを理解したあと、「藤沢さんのことを3回に1回ぐらいは助けられる」という。「3回に1回」という数値が山添と藤沢の距離感のリアリティーを表している。同僚であり相手の病気を理解した上で、全く助けないということはない。しかし、必ず助けるというと、相手にベッドすることになり、お互い病気の立場としてどちらかが崩壊してしまうのだろう。また、相手にベッドすると恋愛関係に発展するかもしれない。しかし、そこには発展せずゆるやかな関係を続けていくのだ。

これは病気の人の話だけではない。味のない飲み物のような現実で生きている人たちの物語である。日常と非日常があるわけではなく、日常の延長線上にちょっとした幸せを見つける物語である。

ただこの現実で生きる人たちのロマン主義的なものはどこへ行ってしまったのだろう。

よろしければ、サポートいただけると助かります!