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新約聖書 マタイ福音書 第20章 ぶどう畑の労働者 感想

最初ぱっと読んだときは正直納得いかない話だな、と思いましたが、読書会でみなさんとお話していくうちになんとなくこういうことかな?というのがわかっていきました。

一つの解釈として、子供の頃から神様を信じている人と、晩年、亡くなる寸前になにかのきっかけで神様を信じるようになった人は同じように天国で幸せになれる、という考え方です。天国は現代社会であるような成果報酬型とは違い、みんなが平等に幸せになれるよう、報酬を分け与えるような世界であるということ。祈れば祈るほどより幸せになれる、ということはないみたいです。

ここで重要なポイントは成果報酬型という考え方です。頑張ったら頑張った分だけリターンがある。逆になにか罪を犯せばそれと同等の罰が返ってくる、そんな世界観です。
現実はこの成果報酬型ではありません。頑張ったら頑張った分だけリターンがあるケースは実は少ないし、頑張っていない人に思わぬ幸運が訪れる場合もあります。世界は偶然性のもとで成り立っています。
しかし、人はこの偶然性の世界に耐えられることができません。なので何かしらの法則を見出したいと思い、成果報酬という考え方に行き着くのだと思います。

この、成果報酬という考えは資本主義下の交換という言葉でも言い換えることができます。例えば市場では以下の交換が成り立っています。

100円 ⇒ ノート

このときノートは100円の価値があると言えます。市場のものはすべて価値がありお金で取引されます。同じように以下の交換もあります。

犯罪A ⇒ 懲役X年

犯罪Aを犯したらX年という刑が処されるのもある意味、交換の機能を持っています。
他にも物理学で使用する「力」という概念も貨幣のようです。物体の間には様々な相互作用があるはずです。もしかしたら人間には把握できない作用もあるかもしれません。しかし、物理学ではすべて「力」という単位の交換によって物体が動いていると考えられています。
このように、世界は交換で成り立っているわけではありませんが、人の認識では、交換で成り立っているように見えます。

「ぶどう畑の労働者のたとえ」の納得のいかなさはここにあると思います。人はなぜか交換というシステムで様々なことを把握します。それが人の本来性なのか、社会的要因によりそう思わせれているのか原因はわかりませんが。
そして労働も貨幣との交換により把握されている。ほとんどの場合、経営者は雇われ人の労働時間を管理し、その時間を貨幣に換算しています。その認識だからこそ、納得がいかないんだと思います。

この例えは世界の偶然性を表しているような気がします。「先に来た者が後になり、後に来た者が先になる」そんな世界が天国です。

また、読書会で印象に残ったのは「残余」という言葉です。社会、法律や経済は生身の人間を情報化し、区別していきます。例えば、所得により課税額が違っていたり、障害の等級によって受けられる保証が違ったりするのは、一旦人間を情報へと分解し、データ化し、適切な分配が行われるようにしている。そして、それによって救われている人もいます。
しかし、情報化している時点で絶対に救いきれない部分があります。ぼくの認識ではこの部分が「残余」です。

ぶどう畑の労働者たとえは、言葉では「残余」の部分が表現できないということを表しているのかもしれません。神はこの「残余」もくみして報酬を払っている。しかし、人間には神の意志は完全には把握できないため、納得のいかない結末になっているという解釈です。

ぼくは「情報」ではなく「生きている言葉」を書きたいと思っています。この「残余」をどう言葉にのせるか、考えていきたいです。

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