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四冊目 『ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット 感想

笑いは人生を豊かにする。笑っている本人も、それを見ている他者も。
しかし反面、笑いは世界を無に返してしまう恐ろしい側面がある。この『ゴドーを待ちながら』は極限まで世界を無意味化する作品である。

終始、登場人物たちの会話が噛み合っていない。舞台にある一本の木に対して「喬木」か「灌木」か、渡した食べ物が人参か大根か蕪か、などなど殆どの部分で噛み合っていない。
普通の物語がある小説では、会話が成り立っているか、成り立っているようにみせている。登場人物同士の会話が伝わっていなければ物語が進みづらいからだ。

でも現実の会話なんて伝わっていない。相手の言葉の端々を捉え、独自の解釈して、返答する。SNSを見ればいかに会話が伝わっていないか客観的によくわかる。だから、現実は物語のようには発展していっていない。

世界はぼくらが認識するには曖昧なものの中にあるのだ。だから会話成り立たない。

また、登場人物たちの発言に一貫性がない。そのため、この人がどういう人なのか把握するのが難しい。登場人物たちが健忘症を患っているのもその象徴である。第二幕は第一幕の次の日という設定だが、前の日のことを完全に忘れている人物がいる。

以上を踏まえると、この作品では、ヘーゲルと弁証法運動的な歴史観は通用しない。まず、弁証法運動はあるテーゼとアンチテーゼの対話であるが、対話自体が成り立たない。そして健忘症を患っているということは、過去の蓄積がない。
だから、歴史は起伏があり発展をしていくが、この作品はずっとフラットなまま進んでいく。

歴史自体が「ない」というのはどういうことか。それは人や土地のアイデンティティがないということだ。舞台上では一本の木しかなく、土地の場所も名前もわからない。登場人物も、名前はあるが、どんな人生を歩んできたのかどんな人物なのかよくわからない。

この作品は「ない」ことによって、「ある」とは何かというのを読者へ問われている。歴史があるとはなにか?土地の固有性とはなにか?人間がいるとはなにか?

その問と同時に、本当はすべてが「ない」のではと思わせてくる。人間も土地も歴史も何もかもが存在しないのではないか。存在しないからこそ、エストラゴンもウラジーミルも唯一存在感のあるゴドーを待っている。

そうだ、ぼくだってゴドーが来るのを待っているのだ。夢なのか現実なのかわからない状況と、自分と他者の言葉が空虚で実感のなさの中でもがいていた。ここに実感をもたらしてくれるゴドーを待っている。

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