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6/9 「書く会」で書いていただいた作品

「書く会」で書いていただいた作品について希望の方のみ公開しています。
また、ぼくの感想も載せています。

匿名希望さんの作品

友だち

私は、君を友だちだと思っていた。
何度か互いに、悩みを相談したことがあって
飾らない気持ちに触れることがあったから。

とはいえ、同時に君の考えに靄がかかっているような。君が霧の向こうにいるような感覚がする時もあった。

今振り返ると
どちらも真実

君には他に、悩みを打ち明ける親しい人が出来ていた。君が集うそのグループに呼ばれたこともあったけれど、私には少し居心地がよくなく、モゾモゾした。

友だちってなんだろう。

その人が困っている時、手を貸したくなる存在。
こちらも、たまに心のうちを話したくなる存在。

アン・リンドバーグは著書、「海からの贈り物」でこういうふうなことを書いている。

〜愛し愛されたいと願うことは悪いことではない。ただその愛は、限りなく続くというものではないのだ。
友情や愛情は、その瞬間瞬間にそこにある軌跡だから。〜

これからもたぶん、君とは、知り合い以上友だち未満のようにあり続けるのかな、と想像する。

私は自分で勝手に開けた穴を最初は寂しいものか、と見ていた。
その寂しさを表にしたり裏返したりしつつ、
私ふうに、他にやってみたいことに時間を過ごしていった。

そうするうち、自然なままに、気持ちの変わるままに行動する気持ちよさと、身の軽さと、距離の取り方を考える私の引き出しに入った。

まだ寂しさは残ってるけれど。
こういう時もあるさ、と
引き出しから顔を出して動いてみようと思う。

主催者の感想

この作品を読んで、「人がわかるってどういうことだろう」と考えました。
人と互いにわかりあっている瞬間というのはどういう状態なのか、もし本当は人はわかり合うことができないとしたら、なぜぼくらはわかり合っていると思ってしまうのか、などです。

引用にもある通り、人と関わるときーー人だけではなくモノや事柄もそうですがーー「この人のことがわかる」や「あれ、この人のことがわからなくなってきた」というのは瞬間瞬間によって変わります。ある一瞬だけを切り取り、永続的に保持することはできない。しかし、そうと分かっていても、ぼくらはその素晴らしい一瞬を保持しようとして、保持したものと現実との齟齬に苛まれてしまうことがあります。友達でも恋人でも夫婦でも関係性は日々変化していきます。

「わかる」⇒「もしかしてわからないかも」に至るのはどの状態なのでしょうか。作品の中にある「君の考えに靄がかかっているような」という言葉がそれを象徴しています。もともと晴れていた状態だったのが、ふいに靄が相手を見えにくくすることがある。「靄」はその方がいるような気がするが、その方を形づくる枠がぼんやりとしていて、つかめないものとしてあります。
これは君の言葉が形式的なものか、本音かどちらかわからない状態だと思います。もし、最初から完全にわからない状態であれば「壁」というイメージになるような気がします。その方に至ることがないので。
ぼくたちは本音だけでは生きていけません。社会に属するには形式的な言葉を必要とします。その場合、言語は情報になります。しかし、しんどいときに必要な言葉は本音でなければ伝わりません。

ぼくは「生きている言葉」と「情報」であれば、「生きている言葉」を書きたい。改めてそう考えさせる作品でした。

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