見出し画像

good bye on the rail

 中学1年生のとき、クラスでひとりハブにされた女の子がいた。同じ部だった。ハブというのも多分私の部内から始まったんだろうと思う。彼女に対する不満は漏れ出したガスのように空中を漂って、だんだん息苦しくなって、個人単位でごまかしようにも無視できない濃度になっていくのを私はなんとなく感じながら、だけど私自身はどうやらそんなガスへの耐性は人一倍強かったようで、私だけはそんな彼女と普通に話したりしていた。ガスが充満する教室、そして部活。ああもう無理よ誰か誰かもう火を点けて楽にさせて爆発させて息ができないの苦しいのねえ誰か! ついにマッチを擦ってしまったのはまあ予想通り、私の部にいた別の女の子だった。まあいいでしょう、あんたがやらなくてもそのうち誰かがやってたでしょう、しかし私を震撼させたのはその彼女、こんな発言。
「いじめっていうのは、いじめられる方に原因があるんだよ」
 私はキレた。完全にキレた。その厚かましさ、その卑しさ、その開き直り、その正当化、その態度、そしてそれに同調して声を上げだす周りの女子のそれにも増した汚さ! 死ね。お前こそ死ね、お前が言ったその理屈であたしがお前を潰してやる。その子は小学校も同じでずっと仲が良かった子でもあった、だけどそんなことは関係なかった。だって、いじめられる方に原因があるんですよね? アナタがそう言ったんですよね? 私はその瞬間から彼女を完全にシカトすることにした。彼女があの子をハブにするように、私はその子を私の中だけでハブにした。死ね性格ブス。2ヶ月、私は一言も口を聞かなかった。効果絶大、年が明ける直前に彼女が折れた。授業中に回ってきた手紙。『何かしたんだったらごめんね』そらみたことかブス。
 それから私と彼女はなんとなく仲直りし、だけど多分2年の頃だったと思うけど、『人をバカにした目で見るのもいい加減にしたら?』と今度は彼女の方から引導を渡され結局その子との友達という関係は終わってしまった。

 私が高校生になった年、亘は陽子ちゃんと結婚した。親が死んでからずっとふたりきりだった私たちの家に陽子ちゃんがやってきた。陽子ちゃんはいつもどこかぼんやりしている人で、私とは全く正反対な女性だった。私のことを早苗ちゃんと呼んだ。私とよく話してくれた。だけど、ずっとふたりきりで生きてきて、私にとって亘はたったひとりの大切な兄だったのに、その亘が連れてきたのが私と全く違うタイプの人間だったなんて。私は少し裏切られたような気がした。私に疲れたからそんな子と結婚したの? ねえ亘。言えなかったけど。陽子ちゃんは笑うととても可愛かった。春に草原で揺れている小さくて可憐なお花のようだった。
 だけどそれはまだ問題じゃない。そんなことよりも、そんなことよりも私にとってさらにショックだったのは、なんとアキが奈津美と結婚したということだ。まさか、まさかまさかアキ、ねえ、どうしてそんな奈津美なんかと。どうして、なんでそんなヒステリー持ちのブスと。人生この時点でぶっ壊したも同然よ、ねえアキ、目を覚まして早く別れてそんな女捨ててよ奈津美なんてゴミよ早く捨ててよねえアキったら! 絶対、私の方が、いいのに。私の方が、アキとうまくやれるような気がしてたのに。亘の友達として出会ってから、ずっと、ずっと仲良くしてくれてたじゃない。亘だって、お前ら仲いいよなって、言ってたじゃない。ねえ、アキ。
 優しかったアキ、怒ると少し怖かったアキ、頭の良かったアキ。
 ねえ。

「でもさあ、そうやって人を嫌うのって勝手だよ」
「勝手、かあ。うん、だよね。やっぱりそうだよね」
「……あんたさあ、何か勘違いしてない?」
「え?」
「あたしは、誰が誰を嫌いになろうがその人の勝手だって言ったんだよ」
 いつのことだったかなあ。たしか高校1年生のとき、こんなことを言った。そのとき多分いちばん仲が良かった、だけど今はもう顔を思い出したくもないあの子に言った。そいつが中学時代からの友達からどうやら最近嫌われてるみたいって私に相談してきたから、私は思ったままをそのまま言った。悪気とか茶化しとかそういう要素は私の中には塵ひとつほどもなくて、ただ純粋にそう思ったから、そう言った。言葉に詰まって不機嫌そうに顔を伏せたあの顔、一瞬走り抜けたあの空気、彼女の敵意、不満、二度と思い出したくもないのに未だにこの目にはっきりカラーで映り込んでくるとても迷惑で邪魔なワンシーン。
 なんで? あんたも16年人間として生きてきたんだからその人生の中でひとりやふたり嫌ったことだってあったでしょ? そのたび、どうせ向こうに因縁つけて正当化してきたんじゃないの? 私が中1のときに出会ってしまった彼女のように。それを自分が嫌われる立場に回っただけでそれはおかしいだの理不尽だと言われても知りませんわよ。今まで自分がハブにしてきたかもしれない誰か、気に食わないと言って嫌ってきた誰かの気持ちがわかるようになってよかったじゃない。
 ああどうして。どうしてみんなそうやって自分の都合のいいことばかり考えるの。
 その彼女、案の定今度は別の友達に「勉強できるからってさ、もっと大事なことあるよね」などと私がいないところで嘯くようになるお決まりの顛末。ブスめ。受け止められない弱っちいブスめ。そういうことは自分も勉強ちゃんとできるようになってから言えよ気持ち悪い卑怯者! 女はなんて汚く弱い醜い愚かな生き物。
 だけど私は少しだけ悲しかった。だって、いちばん仲が良かった子だったから。
 それから1ヶ月だか2ヶ月後、彼女は友達を連れて放課後にあった成績上位者のための特別授業のさなかに私を呼び出して、なんだかよくわからない私へのとりとめのない不満、怒りを淡々と述べた。彼女が連れてきた友達というのも私が特に仲が良かった子のひとりだった。
 まあ、2対1という卑怯な構図ではあったけど、私に直接、呼び出しまでかけて真っ向からやってきたのはいいでしょう。そうやって私にちゃんと向かってきたのはあなたが初めてだったよ。
 私は悲しかった。やっと私に、私と同じやり方で向かってきてくれた彼女たちを見てはじめて、他人の言葉というものが深く刺さったような気がした。

 太陽も随分弱ってしまった秋の夕暮れ、鞄を抱えて、制服姿で私は線路の上に立つ。
 学校からの帰り道にひとつだけある小さな小さな踏切を越えて私は海に向かい家へと帰る。なかなか鳴らない、閉じもしない小さな踏切。一時間に一本程度の電車しか通らないまるで仕事の少ない可哀想な踏切。私はその踏切をくぐり、線路のど真ん中に立つ。
 高い建物もなければ、家だってひしめき合うほど建っているわけでもない。ほとんど田んぼ。線路はまっすぐまっすぐ向こうに伸びて、綺麗に地平線と重なっていく。昼間は透き通るように見通せるけれど、日が落ちていけば空と線路の果ては曖昧に溶けて、この線路がまるでどこか違う世界に吸い込まれて行くような、ここをまっすぐ歩けばいつか見たこともない不思議な場所に行けるような気にさせられる。それならこの線路を走る電車も見慣れたみすぼらしいあの三両編成ではなくて、もっと目を引くような、綺麗でレトロな列車がいい。
 連れていってくれないかなあ、私は線路の上に立ち続ける。
 空は燃えるように赤く、空でも火事を起こすんだなと思った。

 最近、あのガスがまた私の周りを漂いはじめている。でも、あの中1の頃の教室に漂っていたような発火性のものではなくて、彼女たちは私に直接ガスボンベを渡していった。私にだけ効くように。私以外の誰も死なないように。
 私は、多分受け取ったんだと思う。鞄を教室に置いても、誰と話しても、どの教科書を見ても、自習室に行っても、トイレに行っても、常に肩が重いのは、多分それを背負っているからだと思う。背負って、マスクをはめて、きっと24時間ずっと吸い続けているんだと思う。私が生きる上で必要な酸素、大気はいつの間にか背中から出るこのガスに取って代わられてしまった。
 だけど、吸い続けなきゃいけないような気がした。私はこのガスで生きなきゃいけないんだと思った。このガスの中身はそのまま、私が今までいたるところで振りまいてきた他人への軽蔑、怒り、嫌悪がカタチを変えただけのもので、彼女たちはきっとひとつひとつ拾い上げて、私に返してくれただけなのだ。自分で落としてきたものは受け取らないと筋が通らない。だから多分、受け取ったんだと思う。この手に。

 だけど私は恐れている。彼女たちがもしかしたら実はもうひとつ、散布用のガスを隠し持っているんじゃないかって。私が気づかないうちに蓋を開けて、みんなを巻き込むんじゃないかって。今は彼女たちが私の存在を消しただけで、当事者である私たちだけの問題で済んでいることで、だから今私たち以外はまだ私たちの関係が変わりない仲よし具合だと思っているはずなのだ。だけど本当は彼女たちの指一本でいつでも崩せるほどの限りなくぎりぎりなバランスなのだ。私の存在は、私の学校での居場所の存亡は、今や彼女たちの指一本にかかっている。今まで私がこの視線ひとつで、この手ひとつで潰してきた子たちの居場所のように。

 家に帰れば陽子ちゃんがいる。私の分まで夕飯を作って、私が玄関に立てば「おかえり」って、あの可憐なやわらかい笑顔で迎えてくれる。私が絶対に作れないあの笑顔。きっと陽子ちゃんの視線は絶対に突き刺さらない。陽子ちゃんの言葉は絶対に抉らない。好意と優しさの塊。どうして。私はそんなもの持たせてもらえなかった。どうして。陽子ちゃんの優しさは人に分け与えてもまだ余るくらいなのに、どうして私にはもらえないの。
 亘は、陽子ちゃんが好きなのだ。陽子ちゃんの笑顔に癒されているのだ。私の全てに傷ついて疲れ果てて、ぼろぼろになってしまったから、陽子ちゃんに助けてもらうしかなかったんだ。亘は陽子ちゃんがいなかったらどうなっていただろう。私とずっとふたりきりで、逃げ場をなくして死んでいたのかもしれない。
 アキは、奈津美が好きなのだ。きっと奈津美のあの頭の悪さがアキにとっては心地良かったのだ。私は賢すぎた、器用すぎた、わかりすぎた。アキはきっと私の前では気を張っていたに違いない。アキ自身のプライドのために、私の存在に耐えていたに違いない。私はアキを追いつめてしまったのだ。好きだったのに、私はアキのことが大好きだったのに。

 死にたくない。私自身は死なんてまるで望んでいない。だって、全てから逃げるような気がして格好悪いったらありゃしない。全然筋が通らない。周りを傷つけるだけ傷つけておいていざやり返されたら全てに怯えてじゃあ死にますなんて、もしもこれが私の周りにいた他人の話だったら私自身がぶん殴っていたところだろう。だから死にたくなんてない。逃げたくなんてない。
 だけど話は多分そういうことじゃない。私が生きるか死ぬかは多分私の意思ではもう決められない。だって、私が今ここに生きているだけで傷つく人がたくさんいる。迷惑に思う人がたくさんいる。私が死んで楽になる人がたくさんいる。私が死んで悲しむ人よりも、私が死んで喜ぶ人の方がきっと多いのだ。今ならわかる、私は生きているべきじゃない。私はもうここにいることを誰にも許してもらえない。みんないなくなってしまった、全て全て私のせいで。
 こんなとき私だったら何て言うの? 明らかにいなくなってしまった方が世界に平和をもたらすような人間に対して私だったら何て言うの?
 死ねブス、お前の吸ってる酸素がムダだよ。
 正解、大正解。最後までご立派、それでこそ私。それでいいのよ、変わるわけにはいかないの。

 踏切がなかなか鳴ってくれない。空の火事は鎮火して、随分暗くなってしまった。
 今頃陽子ちゃんは何しているだろう、今日の夕飯は何かなあ。あんなに台所が似合う女の子もそういない。だって私はこんなに似合わない。亘はとてもいい子に巡り会えたんだと思う。きっといつか陽子ちゃんは子供を生むだろう。男だろうが女だろうが、優しくて友達思いのいい子になるだろう。そんな子と私は仲良くできる気がしない。というか、その子のために私と仲良くするべきじゃない。
 今頃奈津美は何しているだろう。もうアキと一緒に暮らしているんだろうか。だけどアキは医者になるし、たくさん勉強しなくちゃならないから、きっと奈津美に構っている暇などないに違いない。ざまあみろ奈津美。不釣り合いな結婚だったことを思い知れ。だけどそんな奈津美もいずれアキの子供を生むのだ。信じられない。究極のバカか秀才かのふたつにひとつだ。ああ100%奈津美の遺伝子だったらいいのに、奈津美にアキの遺伝子なんてもったいなさ過ぎるのに。

 みんな好きだと思っていた。本当はみんな好きだった。嫌いな奴ももちろんいたけど、だけど私は本当は好きな子たちの方が多かった。中1で潰したあの子、私にやり返したあの子、寝返ったあの子、陽子ちゃん、アキ、そして亘。みんな好きだったはずだった。だけど最近、もしかしたらそれは間違っていたのかもしれないと思えてきたのだ。好きだったふりをして、本当は私は、常に誰かを見下していたかっただけなのかもしれないのだ。陽子ちゃんもアキも亘も、私はどこかでバカにして、蔑んでいたのだ。ブスのくせに、勉強できないくせに、そんな理由で。だけど本当にバカにされるべきだったのはそんな理由でしか他人を見下せない私の方だったのだ。なんてつまらない、なんて薄っぺらい。こんなブス生きつづけるべきじゃない。
 ごめんねお父さん、お母さん、亘。私、死ななきゃいけなかったのね。やっとわかったわ。

 今日も踏切は鳴ってくれなかった。すっかりかじかんでしまった両手両足をぎこちなく動かして、私はとぼとぼと線路を越えた。随分歩いたところで、もう遠くなってしまった踏切がカンカンと鳴った。立ち止まって振り返ると、すっかり暗い世界の中にいつものみすぼらしい三両編成が綺麗な直線の光とともに走り抜けて行くのが見えた。
 帰ったら、陽子ちゃんがおかえりと言うまえにただいまと言おう。

 泣かないわ、涙は傷つけられた方の特権だもの。あたしが使えるものじゃない。

 good bye on the rail / 20120910

#小説 #短編

読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。