見出し画像

ラプンツェルの三つ編み

2年前から伸ばし始めた襟足が少しずつ落ちて、肩を通り過ぎ、乳房の半分を隠している。2年で随分伸びたと思う。ここまで伸びたのはいつぶりだろう、10年以上遡らないと、この姿は私の歴史には見つけられないかもしれない。伸びた髪に手ぐしを通し、散りばめた茶色を探しながら会社のトイレの鏡でじっと、私は私の髪を見つめる。




ショートカットに紺色のワンピースを着せられて、居心地悪そうに夏の朝のグラウンドに立っていた少女の、足元に落ちた視線の重さをまだ覚えている。髪型と服の矛盾が棒のように細い体をふたつに、両手を引っ張って、肩が外れて、首元に罅が入る、私は、ふたつに。


生まれてから10年の間、私は私を「女の子」だと思うことができなかった。幼稚園ですれ違い、遊び、通り過ぎていく「女の子」たちに、私は私の中に同じものを見いだすことはできなかった。「女の子」として一括りにされても、私は「女の子」の出来損ないだと思っていた。「女の子」という概念は常に私と手を繋ぎ、それでいて正体を現さない見えない友達だった。ぎゅっと私の手を握り、友達だから私になってくれるでしょう? と、私に同化を求める見えない友達。幼い私は戸惑うばかりで、どうしたら「あなた」になれるのか、考えても考えてもわからない。

髪にこだわるようになる。長い髪を持てばせめて見た目は「女の子」だと思った。長い髪が欲しかった。豊かで、ポニーテールにも三つ編みにもなれる長い髪、友達がみんな持っているその長い髪。それが「女の子」になる第一歩で、この、何でもない、アメーバのように実体が固まらない私を引き止めて、「女の子」の席に連れて行ってくれる。そこに私を嵌め込んでくれる。安心できる場所に行ける。私は「女の子」になりたかった。長い髪こそは、私を「女の子」の場所に連れて行ってくれる唯一の梯子で、私はそうして、ラプンツェルの三つ編みを登ろうとする。

対して母さんは、私のショートカット姿を好いた。私が祈るように肩まで髪を伸ばしても、美容院に連れて行かれれば私の髪は無残に落ちた。また首回りに何もなくなって、前髪は綺麗に切りそろえられて、すっきりしたね、可愛くなったねと仕事を終えた美容師の満足げな声がする。
私は、いつも、涙を堪えていた。本当は切ってほしくなかったと声に出して伝えられるだけの能力を持たない、私はいつも黙りこむままで。黙りこんで、ひとつだけ、頷くだけで。足元に散らばった私の髪が手際よく片付けられていく光景を、ただ見ているばかりで。

髪の短くなった私を見て母さんは満足げな顔をする。自分は豊かに長い髪を持っておいて、どうして私には同じ髪を許してくれないのか、私には、まるでわからなかったよ、母さん。

ラプンツェルの三つ編みは私が手をかけることでいつも千切れてしまう。登っても、登っても、塔の上から大きなハサミが刃先を見せる。



「女の子」になれないまま、「女の子」になりたくない少女になった。
生まれてから10年を過ぎた私は、女らしさを嫌悪していた。スカートなんて大嫌い。毎日ウィンドブレーカーとジーンズがあればそれで十分。あえて汚い言葉を使って毎日を過ごした。男の子になりたかった。男女としてではなく、男と男のように男の子と過ごしたかった。男の子と毎日のように取っ組み合いの喧嘩をすることで、私の中から「女の子」を遠ざけていた。私は、「女の子」から逃げ回っていた。それでもあの日々の私の髪は、肩につくくらいには長かった。切って伸びてを繰り返し、私の髪は結局のところ、肩のあたりで落ち着いていた。肩を越えることのないその髪は、私の「女の子」そのものだった。「女の子」になりたくない、それでも「女の子」としてぎりぎり、指先が届くくらいの場所にいたい。わかってる、男の子になれないことなんて本当はしっかりとわかっている。だから指先だけ届くくらい、「女の子」にはそばにいてほしかった。アメーバのように実体が固まらないままの自分でいられるほど、私は幼すぎる年齢を通り過ぎてきたのだから。

ラプンツェルの三つ編みは切れては落ちを繰り返し、だけど私はもう何も思わない。塔のてっぺんにたどり着いたところで私の欲しいものはそこにはない。



中学生になり、襟足だけを伸ばす髪型が流行った。そのときようやく、私のための髪型が来てくれたと思った。
顔まわりは短くまとめられて、それでも襟足だけでも伸ばすだけで髪は長く見える。それは完全な「女の子」にはどうしてもなり切れなかった、それでも「女の子」でいさせてほしいと願う私にぴったりの髪型だと思った。流行りに敏感なスクールカースト上位の女の子たちに混じって、この髪型に飛びついた。


そうするうち、髪型が私のアイデンティティを左右することもなくなっていった。男の子よりも短いベリーショートも経験して、その髪型に制服のスカートが揺れる姿は不思議に誇らしいものがあった。私は幼いころほどにショートカットを嫌悪することはなくなった。暑いからという理由だけで前下がりボブも切り落とした。髪型はあくまで髪型であるというだけで、私の何をも侵食しないことをゆっくり、時間ばかりをかけて、私は学んでいった。ショートカットでもワンピースを着てもいいのだと、それでもあなたはきっと可愛かったのだと今なら言ってあげられるだろう。


それでも気づけば髪を伸ばしている。襟足が肩につき、やがて肩を越え、胸へと近づくにつれて安心する。私は「女性」だと、結局のところ髪型がいちばんはっきりと教えてくれる。女の子になれなかった、男の子になりたかった、それでも私は女の子でいたかった。周囲の女の子のことが理解できなくても、違う生き物であることを実感しても、自分には絶対になれないものだとわかっていても、それでも私は女の子になりたかった。私は今でも実体のないアメーバで、髪の長さだけが私を女性に引き止めている。


ラプンツェルの三つ編みに巻かれて生きている。ぐるぐると巻かれて、その温かい髪の中で生きている。私の髪はショートカットを維持したまま、襟足だけが着実に伸びていく。女の子になれなかった私、それでもできれば女の子として存在したい私のための髪型。私のためだけの髪型。ラプンツェルの三つ編みは体を食い込み縛り上げ、私の髪が伸びることを喜んでいる。私はこの三つ編みをもう登らない。



読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。