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スロウ ライク ハニー

 私はお腹が大きかった時期の早苗ちゃんに何度か会ったことがある。
 早苗ちゃんは確かに精神病院に入ってはいたけれど、陸を身ごもって、退院してからは、私が覚えている限りの以前と全く何も変わらないくらい、いやそれ以上に元気で、綺麗になった。会うたびに私がびっくりするくらいに。
 あの頃の早苗ちゃんは、本当に幸せそうに見えた。
 最後に私が彼女とちゃんと話す時間を持てたのは、陸が生まれるほんの1ヶ月ほど前の、2月の終わりもしくは3月のはじめだったと思う。
 亘と早苗ちゃんはご両親を不幸な事故で亡くしていて、親戚や有也くん、明貴くんを頼りながらもずっとふたりきりで生きてきた兄妹だった。そんなふたりだけの世界にぽんと私が飛び込む形になったのだけど、そこからは高校生になった早苗ちゃんが悲しいことに精神病院への入院を余儀なくされてしまったり、そうかと思えば今度はこともあろうに明貴くんの子を身ごもって帰ってきたり、いつまで経っても私たちの世界は安定しなかった。たぶん、亘と早苗ちゃんはそれこそすごく長い時間をかけて、ご両親が失われた分をふたりで埋めて、ようやくできた猫の額ほどの小さな足場に、身を寄せ合って立っていたのだろうと思う。きっと私はそれを崩してしまったのだ。
 早苗ちゃんの妊娠が発覚して、奈津美が明貴くんと離婚して、だけどそのあと彼女の妊娠も発覚してしまって(もちろん明貴くんの子だ)、それから少し間をあけて私も亘の子を妊娠した。
 亘は、さぞ辛かっただろうなと思う。悲しかっただろうなと思う。あの時期に私が身ごもった智尋は今では高校生になってしまったけれど、今でも彼の半分はそのときの亘の悲しみや怒りでできているような気がしてならないのだ。
 話を戻さなくては。
 そんなわけで、早苗ちゃんは妊娠してからは奈津美の手前、隣町にいる亘の母方の親戚のもとへ預けられていた。そこに私は何度か遊びに行った。亘に彼女の話し相手になってやってくれと頼まれたからもあるけれど、何より私は純粋に、早苗ちゃんのことが好きだったのだ。
 そして、そう、2月の終わりもしくは3月のはじめのあの日。
 寒い日だったと思う。私と早苗ちゃんはふたりして毛布を膝にかけて、何をするでもなくただそこにいた。「寒いね」と私が言えば早苗ちゃんがただ「そうだね」と返すような、そんな午後。
 だけどその日に限って私は沈黙がいやに不気味に思えてずっとそわそわしていた。早苗ちゃんにいつもと変わったところは何もなかったけれど、あの日何故か私は早苗ちゃんの大きくなったお腹も、私自身の大きくなったお腹も全てが怖かった。
「陽子ちゃん、今日はどうしたの。変な感じだね」
 しばらくして早苗ちゃんが困ったように笑いながら私に声をかけた。
「なんでもないよ、なんでもないんだけど」私は必死に取り繕った。「でも、よかったよね。早苗ちゃん、無事にここまで来れて」
 早苗ちゃんが首をかしげる。私も自分で何を言っているのかわからなかった。
「いや、だからね、流産とかしないでよかったなってこと。来月生まれるんだよね」
 ますます慌てふためいて、本当にそう思っていたかどうか怪しいようなことをまるで言い訳のように答えてしまった私に早苗ちゃんは「ああ」と小さく頷いた。そしてゆっくり自分のお腹をその白くて細い指で撫でた。
 その動作はとっても綺麗だった。思わず見惚れてしまうくらい。
「そうだね、うん。やっと生まれるね」
 早苗ちゃんはお腹に目を落としたまま静かに言った。それは私にじゃなくて、多分お腹の中にいた陸に語りかけたのだと思う。このとき早苗ちゃんはまだ17歳だったけれど、その優しい声も視線も表情も、私なんかよりずっと母親らしかった。
「男の子かな、女の子かな」
 私はもう何度も口にしてきたことをここでも言った。
「男の子だよ、絶対」
 そして早苗ちゃんは代わり映えなく同じように答えるのだった。
「ねえ、前から聞こうと思ってたんだけど、どうしてそんなに男の子だって確信持てるの?」
 私は言った。
「だって、女だと可哀想じゃん」
「どうして可哀想なの?」
「女だと、あたしみたいになっちゃうでしょ。そんな子あたし、嫌だし」
 そして早苗ちゃんは「それに、なんとなくわかるんだ。ああこいつ男の子だなって」と言った。それは多分、早苗ちゃんにしかわからないことだっただろうと思う。私が智尋に対して、私にしかわからないことがあるように。
 私は、彼女がそんな風に言うのは寂しかったけれど、明貴くんと早苗ちゃんの子だったら、たとえ男の子だろうが女の子だろうがきっとすばらしく綺麗な子になるんだろうなとも思っていた。それをそのまま正直に伝えると、早苗ちゃんは小さく笑っていた。
「その子もさ、陽子ちゃんと亘の子供だったら、きっといい奴になるよ」
 それから早苗ちゃんはお返しのように私のお腹を指差して言った。私は不意に彼女の大きくて真っ黒な目に見つめられてどきっとしてしまって、ぎこちなく「そうかな」と答えただけだった。だけど私はそう言われて、改めてこのお腹の中にいる子のことを想像した。どんな子になるんだろう、何に興味を持って、どんな友達を持つんだろう。思い浮かべるのはとても素敵なことだった。
 そうして私がしばらく頭の中で遊んでいると、不意に早苗ちゃんが「あたしね、絶対流産すると思ってたんだ」と、ぽつりと、だけどとても安らかな声で言った。
 私が「え?」と顔を上げると、彼女はぼんやり天井の方を見上げていて、薄く微笑みながらお腹をゆっくりゆっくり撫でていたのだった。まるで懐かしむような、でも別れを惜しむような、不思議な微笑みだった。何かたくさんのことが詰まっていたように見えた。
 早苗ちゃんは、ゆっくりと語りだす。
「アキとはたくさんやったよ。でもね、アキがあたしの中に出したのは1回だけだったの。それがこの子だったの。あたしそのとき、終わったあとしばらくずうっと足閉じてた。だって流れて行きそうだったの、ね、陽子ちゃんも亘とやってその子できたんならわかるでしょ? あたしは子供が欲しかったわけじゃなかったけど、でもね、なんかすごく勿体ないなって、ああせっかくアキが出してくれたのに、これ流れてっちゃうのかなあと思うとさ。結局それで妊娠したけど、でもしばらくずっと怖かった。なんかふつうに歩いてるときとかに、いきなりどろーってさ、出てきちゃうような気がしてさ。ていうか、絶対そのうち流れちゃうような気がしたの、ほんとに。どろーって、この子が。でもなかなかそうはならなくって、どんどんお腹大きくなって、そのうち蹴ったりするのわかるようになるとさ、うわっ人間だ! って、ほんとに人間になりやがったこいつ! みたいな。不思議だね、女って不思議。それに、こいつも不思議。よりにもよってあたしの腹の中に入っちゃったのにさ、途中で逃げなかったんだもん、ほんと不思議。きっと変な奴だよ、こいつ。ぜったい」
 私はそのとき、早苗ちゃんが明貴くんのことについて話すのをはじめて聞いた。というより、彼女が妊娠して帰ってきてから、早苗ちゃんが自分のことをここまでたくさん話したのははじめてだったかもしれない。いつもわたしが何か話しかけて、早苗ちゃんはそれに言葉少なに返事をするばかりだったから、そのとき私は少しびっくりしたのだ。
 そして、やっとそのとき、早苗ちゃんはずっと寂しかったんだって気づいた。
「たのしみだね」と、気づけば私はそう声をかけていた。
 早苗ちゃんは私を見た。じっと私を見ていた。それは私にとって、永遠にも近いくらい長く長く感じられた時間だった。
「たのしみだね」と、早苗ちゃんはそっくりそのまま返して、笑った。
「あたしのこの子も、陽子ちゃんの子も、奈津美の子も、みんな同い年になるんだね」
「そうだね」
「みんな、途中で流れなかったね。どろーって。人間って、強いんだねえ」
「うん」
「強いんだね、人間って」
 早苗ちゃんは繰り返した。泣いているのかなと思ったけれど、ふうっと一度小さく息をついて顔を上げた彼女の目元に変化はなくて、むしろ少し晴れ晴れとした顔をしていた。きっと、ずっと明貴くんのこと、誰かに聞いてほしかったんだろうと思う。早苗ちゃんと明貴くんのやったことは世間的に決して許されることではなかったし、現に奈津美はたくさん傷ついてしまったけれど、だけど確かに、それでもふたりは愛し合ってしまったんだと思う。きっと早苗ちゃんにとって、明貴くんとのその1回は、本当に夢のような時間だったんだろうと思う。
「名前はもう決めてるの?」
 私は早苗ちゃんも、そのお腹の中の子もみんなまとめて愛おしくなって、すごく優しい気持ちでそう尋ねた。
 早苗ちゃんはそれに少しはにかんで、「まだ決まらないんだ」とだけ答えて、またゆっくりお腹を撫でた。臨月に差し掛かった彼女のお腹の中で、彼は、陸はどんな気持ちでいただろう。
 結局それが、私と早苗ちゃんが言葉を交わした最後の時間になった。
 あのとき私が沈黙に耐えられなかったのは、妊娠によって研ぎすまされた母親としての、人間としての私の本能が、早苗ちゃんの死をどこか深いところで悟ってしまったからなのだと思う。それでも命の輝きに照らされた空気に溺れ切っていた私は、結局彼女を引き止めることができなかったのだ。そして最後に早苗ちゃんが私に聞かせてくれた彼女だけの思い出は、今生の別れとなる私への餞別代わりだったのかもしれない。今となっては、そう思うほかない。

 早苗ちゃんが逝ってしまったとき、私は誰よりも泣いた。亘ですら驚くくらいに、私はいつまでもわんわんと泣いた。お腹の子のためにもしっかりしなさいと何度も母に叱られたけれど、それでも私はずっとふさぎ込んでいた。結果だけ見れば、智尋はその2ヶ月後に無事に生まれてきてくれたけど、彼をはじめてこの手に抱いたとき、感動よりも先に、その2ヶ月前に亘が早苗ちゃんの手から助け出してきた陸を抱いたときのことを思い出して、私はまた泣いた。周りには感動の涙と誤解されていたけれど、そのとき私は本当にだめな親だったと思う。
 あのとき、大きなお腹で陸をはじめて抱いたとき、亘から「陸」という名前を聞いたとき、私は心の底から溢れ出してくる涙とはどういうものかを知った。陸の小さな顔が私の涙でどんどん濡れていくのも構わずに、ただ、いい名前だね、いい名前だよ早苗ちゃん、とずっと心の中で繰り返していた。私は早苗ちゃんから、亘も、この子さえも奪い取ってしまったのだ。きっとこの子は名前どおり、早苗ちゃんにとっての大地そのものだったのだと思った。ごめんね早苗ちゃん、ごめんね。私はずっとずっと繰り返していた。
 早苗ちゃんには不思議な引力があった。きっと彼女は、生まれたときからその力で人を引き寄せ、くるくると回していたのだろうと思う。私も、奈津美も、有也くんも、明貴くんも、きっと亘でさえ、彼女を囲んで、まるで惑星のように回っていたのだ。そしてずっと早苗ちゃんはひとり輝き続けていた。その大きすぎる熱量が彼女の友達を、奈津美を、明貴くんを、そして亘を傷つけつづけたのだ。だけどそんな早苗ちゃんは、私のように何も持たずに生まれてきた人間にはとてもとても綺麗に見えた。早苗ちゃんは私の太陽だった。私は早苗ちゃんが大好きだった。

スロウ ライク ハニー / 20120828

#小説 #短編

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