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ALMA

 思えば私がリンゴを切り刻んでいたのは、この匂いを消すためだったのかもしれない。
 だん、だん、だん。木のまな板の上で切り刻まれていくリンゴたちは瑞々しく果汁をそこたらじゅうに飛び散らせて、私の手元を濡らし、乾いていく分から糖分だけがべたついて、甘くて快い空気の中、両手だけに不快がある。
 まな板の上のリンゴがもはや固体でもなくなってしまった今、私はようやく包丁の手を止めて振り返る。歩き出す。この台所を出ようと思う。

 ドアをひとつ開けるだけで部屋の匂いがまったく違う。だけど私は裸足のまま足を進め、ぺたぺたと張りつく足の裏の感覚も、別に怖くはない。だって、私の両手は守られている。リンゴの生命に、瑞々しさが乾いたあとに残るべたべたの甘さに。
 この部屋にも同じようにリンゴが散らばっている。真っ赤な、採れたてのリンゴたち。私がわざわざ木に登ってむしり取ってきた数々の、愛しいリンゴたち。この部屋にあるリンゴをひとつひとつ拾い、私は台所で切り刻んでいたのだった。
 赤い赤い、分厚い皮すらすり抜けてしまう匂いと、胸の奥をかきまぜられてひっくり返されるような不快感。
 音は何もない。
 西日が暴力的に差しこんで、この部屋そのものが果実のようだ。
 私は何も思わない、何も見ていないような目でぐるりと、部屋を見渡す。床じゅうに転がったリンゴの中に旅行鞄を見つける。私はしゃがみこみ、中を開けると首が出てきた。兄さん、ボールと間違えないでよ。こんなところに、入れないでよ。
 私は両手で頭を支えるように持ち上げる。赤が混じった茶色の髪は、私が立派に引き継ぎました。その直線的な眉の生え方も、口紅を引かずとも花のような色をした唇も。だけど睫毛は私の方が長いし、鼻も私の方がすっきりしてる。
 私はお母さんを床に置いた。べたべたの両手で触っているせいでばりばりと髪がくっついてくる。苛立って振り払うと、髪の毛が何本か抜けた。
 空になった旅行鞄に、詰め込んでいくリンゴ。これは、私の分。そしてこれは、ダフネの分。入り切らなかったリンゴたちはせめてこの部屋が永遠に寂しくないよう置いていくことにしようと思う。

 お母さんの服をろくに見ずに詰め込んで、私は二階へと上がる。
 兄さんは、床にぺたんと座り込んで自分の足元を見つめている。また涎ばかり垂らして、みっともない。私が足で軽く蹴ると、兄さんはくたっとそのまま倒れてしまった。まあいい、兄さんと私は似ていない。兄さんから持っていくものなんて何もない。
 ピアノ。
 私は早足で近づく。私のピアノ。急いで椅子を引いたら裸足の指にぶつけてしまった。痛かったし、血が出たかもしれない。でも大丈夫、ペダルは指で踏むものじゃないから。音を立てて座っても兄さんはぴくりともしない。そこで黙って聴いてなよ。
 お母さん、本当はわたしだった。兄さんじゃないの。兄さんは、弾けるふりをしていただけ。勝手に頭が狂って死んでいっただけ。
 ピアノの弾いている間じゅう、私は泣いていた。だけど曲が終わった途端、涙はぴたりと止まってしまって悲しみも別に何の尾も引いていない。

 旅行鞄を右手に持った。今度は靴を探さなくてはならない。私はお母さんをソファの端っこにそっと置き、口元にキスをした。さよなら、お母さん。
 玄関へと続く長い廊下をぺたぺたと歩いたけれど、その途中に私の靴はひとつも落ちていなかった。靴箱に入っているのはきっと私が子供だった頃のものばかり。結局、玄関に放り出したままの擦り減ったいつもの靴で出て行くしかないなんて、私は少しだけ、がっかりする。
 玄関にある大きな十字架。その前でお父さんが上から吊られて揺れている。
 私は十字架とお父さんの間に立ち、鞄を離さないままそっと見上げた。きい、きい。私がどこかに触ってしまったのか、お父さんがゆらゆらと揺れ始める。私は黙って、左へ右へ触れ続けるお父さんを見上げている。お父さんの顔を見ている。お母さんからもらえなかった分、睫毛の長さと、鼻の高さは、あなたがくれたのね、お父さん。
 少しだけ悲しかったのは、お父さんの頭が高いところにありすぎて、キスができなかったこと。
 お父さん。わたしのお父さん、わたしは遠く離れていくわ、だけど祈っていてね、たったひとりのあなたのアルマよ。
 私はちょうど私の顔の高さにあった手を取った。ここにキスをするのは男の人の役目ね。だから、その人差し指を選んで、そっと噛んだ。
 本当はその口にキスしたかったの。だけど届かない。ごめんねだからこれで許して。

 ママ、パパ、 、    。遠く離れても 、      ?

柔らかく手を噛んでから失踪す
小池正博

 ALMA / 20151025

BGM ▶︎小さな町 / Cocco

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