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冬、指先から染み込んで穴を開ける朝

Snow can wait, I forgot my mittens
Wipe my nose, get my new boots on


故郷の冬に手袋は要らない。
純白に一滴の黒を落としたような濁った雲がスノウ・ドームのように世界を半球体にする。すべてはこの雲の下でやりとりされて、水も空気も循環し閉じ込められたままどこにも行けない。
自分は雨か、雪か、地上に落ちるまでアイデンティティを決められなかったみぞれや、大掃除をすると家具と家具の間から出てくる巨大な埃みたいな牡丹雪、けたたましく地面を鳴らすあられ、そして、雨。スノウ・ドームの空は毎日水を降らせて世界を水浸しにする。
空気が循環する。溶けた雪はその水分を空気に差し出す。空気はそれを受け取って、抱えきれない分を空へと譲る。空気は常に水分とともにあり、人間の肌を乾燥させることがない。


まだ夜が帷を上げようともしない冬の午前六時、彼女はひとりホームに立ち、真っ暗な世界と相対しながら始発電車を待っている。
彼女の裸の左手は傘を握り、彼女の呼吸の大半はマフラーの中に沈み込む。
時折顔を上げて、ふっ、と息を吹いてみる。口の周りがあっという間に白くなり、数メートルほどをわずかに飛行し、消える。冬は自分の呼吸の行方が目に見える。
息が白くなるのも、この世界が水浸しである証拠。

ベルが鳴り、雪の隙間から大きなライトがふたつ近づいてくるのが見える。
ホームに入り込んできた電車の中は煌々と明るく、冬の憂鬱にあってはあまりにも眩しく、彼女は夜なのか朝なのかわからない、それでも体は眠くて仕方がない、だからまだ夜か、夜のうちから学校に行こうとしている自分のことを、それでも眠くて頭はまだ動かない、夜のうちから学校に行こうとしている自分のことを、彼女はいつも思い至らぬまま電車に足を乗せる。
暖房の効いた車内のいつもの席に腰掛けると、向かいには朝練に行くのであろう野球部の学生が大きな部活用鞄を床に置いて座っている。
始発電車のこの車両に乗る人は皆がきっと顔見知り。彼女は単語帳を開くこともないまま、すぐに眠りに落ちてしまう。



2001年1月15日 月曜日 記録的な大雪


朝起きると玄関も車も道も何もかもが雪に沈んでいる。人間は毎日雪と戦う。それでも明日になればまた何もかもは雪に沈む。それはまるで雪を降らすスクリーンセーバーを一晩放置するようなもの。

落ち着きなく家中を歩き回り、学校に行かなくてはならない身支度もできず、彼女は何度もトイレに向かう。下着を下ろすと、さっき押し当てておいたはずのトイレットペーパーがもう赤茶色になっている。彼女は色のついたトイレットペーパーを捨て、さっきよりもさらに分厚くトイレットペーパーを折りたたんで、下着に押し当てる。
(記録的な大雪、記録的な大雪、記録的な大雪、記録的な大雪、……)
彼女は次に二階に行ってみる。自分の部屋に行ってカーテンを開けてみる。見下ろすとまだ両親は車を掘り出すのに必死で、彼女が見ていることにも気づかない。
こん。彼女は窓を叩く。こん。もう一度。こん。こん。
雪はすべての音を吸い込み、無かったことにしてしまう。彼女のノックは雪が飲み込んで永遠に帰ってこない。そして彼女には、窓の向こうの音が何も聞こえない。
降って、降って、振り続ける雪は両親の姿も消してしまう。


(kirokuteki na oyuki ooyuki, asu madeno yosou sekisetsuryo ha…)


たったひとりの彼女は脱力し、床にうずくまる。
体に無視され、置き去りにされたのは、10年と少しを生きて初めてだと、それだけで彼女はこれからどうしていいのかわからない。


I hear a voice, "You must learn to stand up
For yourself 'cause I can't always be around" 


彼女が家を出る頃、ふと雪が止む。
大雪は世界の道幅を一様に狭めた。何度も除雪車が往復し、泥と混じって汚らしく固められた雪に足を置くと、彼女の両側には除雪車に押しのけられた雪たちが彼女の背丈ほども積み上がり、それはいくらか、美しい白の集合体だった。
いつもの通学路は完全に雪に塞がれ、彼女は壁となった雪にぴったりとくっつきながら大きな国道を歩く。車が彼女を避けていく。
ざくざくと雪を鳴らしながら、彼女は我が身に起きたことを努めて理解しようとしていた。
しかしそれは、考えても考えても、「体に穴が開いてしまった」ということに他ならないのだった。

なだらかな下り坂に足を踏み出すと、すでに凍りの兆しを見せていた雪が彼女の足を滑らせた。そのまま彼女は声を上げる一瞬の猶予もなく尻餅をついた。雪は硬かった。除雪車、近所の人、すでにこの道を歩いていった小学生たちが次々に踏み固めていった雪は、もう優しくもなんともない。
彼女はため息をついて空を仰ぐ。曇天が覆ったスノウ・ドームの天井が見える。あるいは、雪を降らすスクリーンセーバーの片隅に建つ家の住人。朝が来るたびに雪面へ泳ぎ、顔を出してようやく息をするまるで魚のような生き物だ、こんな世界の人間。
体から離れてしまったランドセルが背後に転がっていた。
毎日背負って歩いていた赤色。


When you gonna make up your mind?


彼女は横たわる。誰ひとり歩かない、誰ひとり生きてはいない、凍りついた通学路にひとり横たわる。顔の上を自分の白い息が覆って、どこかへ消えていく。誘われるかのように雪が天井からまた落ちてくる。雪の粒は彼女の赤い頰に触れて、焼けるように死ぬ。


When you gonna love you as mush as I do?


彼女を横たえていた雪が突如として、踏み固められる前の柔らかさを取りもどす。流砂のように彼女を包み込んでいく。雪の中を暖かく思う。流れ出していく潜血の広がりもまた温かい。下着を真っ赤に、ズボンを真っ赤に、身体中の血が流れ出していくことを思う。そのとき彼女の頰から赤みは消え、安らかに目を閉じることだろう。流砂の中に消えた彼女のことを、血にまみれた彼女のことを、もう誰も思い出さない。


(yosou saidai sekisetsuryo ha oyoso…)


彼女は目を覚ます。裸の手を伸ばして雪をかき分け、息をする。それから雪を払って立ち上がる。振り返るとランドセルはどろどろと、形を崩し溶けつつあった。しゃがみこんで、触れてみるとそれは温かく、手にはべったりとした赤色。
彼女の体から切り離されたランドセルは形を保っていられない。


When you gonna make up your mind?


彼女は立ち上がり、ランドセルを踏みつける。ぐしゃり。靴の裏を覗く。赤色。もう一度踏みつける。ぐしゃり。靴の裏を覗く。赤色。ぐしゃり。赤色。ぐしゃり。赤色。
どうして言わなかったのと母は言った。お父さんがいたから。このまま学校に行ってたなら大変なことになっていたよと母は言った。大変なことってなに。
ランドセルは完全に溶けてしまった。真っ赤な血が雪上にぶちまけられている。彼女の真っ赤な靴の跡がその周りを埋め尽くす。大変なことってなに。大変なことってなに。


世界はこんなに真っ白で、凍りついて、雪に埋められていく。
そんな日に、彼女の体には穴が開いた。


'Cause things are gonna change so fast


彼女はランドセルを拾い上げ、背負い直す。
小学校までの、あと半分ほどの道のりを、ひとり、歩いていく。
彼女のランドセルを目印に、雪がその背後を追いかけていく。彼女の尻餅の跡も、外股ぎみの足跡も、数分後には、消えて無くなる。


(kono ooyuki ha asu ikou mo tuzuki… asu ni ha …., ……)




アナウンスが聞こえて、彼女は目を覚ます。
裸の左手で傘を掴んで電車を降りる。世界はようやく夜明け前まで時間が進み、朝と呼んでも差し支えないほどには明るさが、光がある。
一日の始まりに最初に浮かび上がるのは、夜明け前の青色。世界が一日の最初に手に持つのは、青色。
世界は人間が落としていく赤色のことなど知らなくてもいい。


自分は雨か、雪か、地上に落ちるまでアイデンティティを決められなかったみぞれや、大掃除をすると家具と家具の間から出てくる巨大な埃みたいな牡丹雪、けたたましく地面を鳴らすあられ、そして、雨。スノウ・ドームの空は毎日水を降らせて世界を水浸しにする。
空気が循環する。溶けた雪はその水分を空気に差し出す。空気はそれを受け取って、抱えきれない分を空へと譲る。空気は常に水分とともにあり、人間の肌を乾燥させることがない。
空気は循環する。彼女の落とした血の一滴はやがて彼女の指先へと還ってくる。
故郷の冬に手袋は要らない。

All the white horses have gone ahead
I tell you that I'll always want you near
You say that things change, my dear

Never change

Winter / Tori Amos

読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。