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第三話『沈黙は破られた』


わたしは大学のOBである諸先輩に会いにいった。いわゆる飲み会。そこで何を話したかと言うとわたしが高校時代、総合人間化と言う科目のフィールドワークで神父さんに「あなたは神様を信じていますか」と問いかけた時のことだ。

そこでガイコクジンである彼は笑いながら答えてくれた。力が強い人、頭が良い人、その上澄みを拾っていけば神様になるとの趣旨の話だった。Eagle Brotherという曲もある。鷹の目もいわば神様の与えた神の一部なのだろう。


そこで諸先輩方に聞かれた。「君はデウスを信じるかい?」

「ヤハりウエのことでしょうか?」僕は冗談でその場を切り抜けたが、デウスとはやはり言葉のひびきから現代日本ではなく過去の日本。封建時代の日本が思い浮かぶ。

興味があったので飲み会の後、獺祭をして考えていた。

すると琴音がやってきたので質問をした「君はデウスを信じるかい?」

琴音はめんどくさそうに答える「デウスってあのデウス?踏み絵とかの?私だったら生きるために踏み絵なんて踏んじゃうよ。それってデウスを信じることになるの信じないことになるの?神様ってそんなことも許してくれないの?」

獺祭をしていたわたしは思った。琴音の人物の心理描写がキツい。(実際に踏み絵を踏まず死んでいった人もいるのだ)

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検索 踏み絵 何で踏まなかったの 

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やたら人物の心理描写がキツいと思ったら遠藤周作で「沈黙」と言う作品がある。琴音、さらには遠藤周作のキツい心理描写の中、引き返したくなるが人の業、「沈黙」するのだ。しかし、僕はさらに歩みを進める。

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『踏み絵を考えた人の物語』

と、いうお話を考えた。獺祭した意味がほとんどなくなってしまった、が。

轍 朔太郎(わだち さくたろう) が隠れキリシタン狩りを任命され踏み絵と言う選抜方法を考えるのに一苦労、踏み絵の絵を描いてもらうのに一苦労、さらに”踏み絵”なのに踏まない人たちに絶望を覚えると言うくだんの話だ。

何故、踏み絵が効力を発揮したのかわからない轍朔太郎。効果を発揮したが故に隠れキリシタンであることを疑われ踏み絵を踏まされた轍朔太郎。踏み絵を描いた絵師もわけもわからないまま同様に踏み絵を踏まされる。信仰が何処にあるのかを指し示した第一編。

遠藤周というペンネームで考えてみるか‥‥‥。

帯にはこう書く。「沈黙を破った遠藤周」「神は我らを欺いた」「現代のヴィトゲントシュタイン」でいいだろう。


カタコト「エッセイは今夜限り」より抜粋

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