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渋谷スナップ・さよなら東急本店(RICOH GRII)

渋谷・東急本店が営業終了

東急百貨店の渋谷・本店が2023年1月31日(火)をもって営業を終了した。その翌々日に立ち寄る機会があって、スナップしてきた。
当日以降の状況が知りたい人もいるかもしれないから、ノートにシェアしておく。

スナップ写真(9枚)はこちら

道玄坂下からもよく見える
文化村通りのどん突きのランドマークだ
地上9階・地下3階(+塔屋2F) 高さ40.65mのビルは1967年築

ニュースによれば2027年に地上36階地下4階、高さ164.8mの複合施設に生まれ変わるとのことだ。低層階から順にBunkamuraと共鳴するアート&カルチャーな施設、ラグジュアリーホテル、高級賃貸レジデンスを抱えることになる。LVMHグループの不動産関連会社と共同開発するという華やかさは、いかにも東急らしい。

ただし、そこに百貨店がそこに入るかは未定となっている。

取引先の多くは「入るとしても別業態」と見立てているそうだから、いずれは、このイベントも一連の鉄道系百貨店の撤退と再開発の文脈の中で語られることになるのだろう。

平日の午後、人通りは少ない
開業から55年、当時20歳の人が今は75歳だ
前を歩く人達が思い出を語っていた
外から見えるエレベーター1台に灯りが点いていた
55年の間にどれだけ多くの人(の思いを)運んだのだろう
もう シャッターは閉じたまま
さよなら東急本店
早く街の活気が戻りますように


あとがき

先に言っておきますが、長い上に駄文なのでお暇な方だけ読んだらいいと思いますよ。

僕と東急本店<本音を言えば>

渋谷のランドマークに敬意を払い、別れを惜しみつつも、実は僕自身は東急本店の営業終了に言うほどの感傷はなかったりする。

なぜなら、それは僕が単純に地方出身だからだ。東急本店に纏わる記憶が少ないのだ。

幼少期を振り返っても、亡くなった祖父母に手を引かれて東急本店に行った思い出もないし、家族でお歳暮を買いに行った経験もない。
親の用事でひたすらに待たされたお詫びがてらにレストランフロアで美味しいものを食べに連れて行ってもらったことはないのだ。(親が子供にお詫びをする必要なんてないけど、こどもにとって訳の分からない大人の用事に付き合う1~2時間は科学的に見ても、ほぼ永遠と同義だそうな)

学生時代に遡れば、親の都合等で小中高大と4つの中枢中核都市を経験したけれど、やはり首都圏には縁がなかった。だから、まずはセンター街に集まってみたが、行き場もなくて、寒さしのぎに東急の中をぶらぶらしてみたり、挙句は階段に座り込んで100円+αの硬貨で買ったドリンクを片手に語り合ったりしたことなんてないのだ。

僕のそういうのは別の街に置いてある。(そして、全国の多くの百貨店同様に老朽化して建て替えや撤退の可能性に晒されている)

そういうわけで、東急百貨店との関わりは東京で勤務するようになってからということになる。何回も一人で本を探しに行ったり、小学生の娘を連れて文房具を買いそろえたりした程度に過ぎない。つまりは7階にあった渋谷最大の書店として売り場面積1100坪を誇った「丸善・ジュンク堂」に偏っている。

渋谷駅は帰宅経路にあるターミナル駅だし、あそこは店内の一番奥にある写真コーナーがとても充実していたのだ。不便ったらない。通勤経路の有楽町にも大型書店があると聞くけど380坪。それに都会人が気取って歩いているあの街は(ビックカメラを除いて)いけ好かないのだ。これからどうしたものか。

写真の役割<記憶と記録>

冗長になってしまったが、前述のような理由から、僕の感傷の殆どは「みんなの大事な場所がなくなる」という他人の思いに寄り添うところから来ている。そして、話を戻せば、このような性質の物事を<記録・記憶>することこそ写真の役割のひとつだ。

たしか、「人に見られない写真に意味はない。自己満足だ」という発言をされたのは荒木経惟さんだったかと思う。(本当はもっと露骨な言葉だったけど、ここでは丁寧な表現にしておく)

皆さんがノートの記事を見るときを思い返して欲しいのだけれど、多くの場合は興味関心のためであったり、娯楽や時間つぶしであることが多いのではないだろうか。荒木さんの観点に立てば、これの対象となれることは「人に見られる写真」という点で意味を持つことになる。(見てくれてる方、ありがとうございます)

加えて、心の根元のところに響いたらどうだろうか。例えば、気軽に渋谷に行けないけれど、ふと東急本店のことを思い出して、インターネット検索した人達の<記憶>や思い出に関われたなら「人に見られる写真」としてより意味深さを持つはずだ。大袈裟かもしれないけど、僕は前者が「肉眼」だとすれば後者は「心眼」によるより深いもののように思う。

Twitter中毒者でもある僕は「(他人が撮ったけれども)これは自身にとって特別な写真だ」と感じることがある。具体的に言えば、気軽に行けない地域のストリートフォトを撮っている人をフォローして、写真を拝見しては思い出にふけり、街の変化を知り、感慨を抱くということが多い。

簡単にはいけない思い出の場所のことをリアルタイムに知ることができる。それに対して、いちいち「ありがとう」と言うことはなく、代わりに「いいね」するだけなのだけど、本人がどう思ってアップしているかはさておき、これって本当に地元から離れた場所にいる人間にとっては、本当にありがたいことなのだ。

結論として

要は、この記事は何とはなく撮っているスナップを荒木さんの言う「意味のある写真」に昇華できるかもしれないと、誰かのプラスになれるチャンスかもしれないと、そういう思いで昨日の撮り立ての写真を早々にアップした次第ということなのでした。

写真なんて本質的には常に私写真なんだけど、たまにそこの枠からはみ出ることがあって。どうせネットにアップするなら、そういう写真も増やしていけたらとは思うんですよね。

結論としては「楽しんで撮った写真が誰かのお役に立てたら一挙両得」というだけのお話なんだけども。長いな文章。その割に大したこと言ってねえ。うん。何だかおそまつさまでした。だからお暇な人だけどうぞって冒頭で言ったんですよ。ちゃんと言いましたかんね。

こんなんですけど、よろしければ、また。



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