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【55】夏、祭らない #睡沢週報

猛暑と口にするのも憚られる、何かおぞましさすら感じるような暑さだ。今のところ長時間の外出以外はずっとエアコンを回しているが、それすら時折効きが悪い。

元々一番好きな季節だったはずの夏。しかし、ほどよい暑さと日差しに風情を感じられる時代はもう過去になったように思う。少なくとも私は今年の夏に自転車を漕ぐ気になれない。

賑わいなき夏祭り

地元にもいくつか祭りがあって、昔はかなり栄えていた。学校では祭りの当日に担任から「人が多いから大金を持ち歩かないように、酒やタバコに手を出さないように」と口を酸っぱくして言われたものだ。

ところが、10年ほど前からだろうか。すっかり賑わいを失ってしまった。理由は暴力団排除条例にある。神社の参道から境内までを華やかに彩っていたテキ屋が一掃されてしまったのだ。

もちろん、その全てが暴力団員によって営まれていたわけではない。しかし、事実として大半が消えた。一軒一軒背後関係を洗うよりは全廃してしまったほうが手っ取り早かったのだろうと噂されている。

その結果、自治体か神社かはわからないが公が認可した小さな屋台がわずかに並ぶだけとなってしまった。当然祭りに行く人は減り、そのままコロナ禍で休止に追い込まれた。

幸いにして今年は大々的に復活したらしく、露店は500を超えたという。どうしたって賑やかな祭りには露店が必要だ。盆踊りの櫓だけ組めばいいというものではないのだ。

近日に催される近所の祭りは騒音防止のため日中のみの開催とし、盆踊りは行わないらしい。住宅街での開催とはいえ、祭りの賑わいを指して「騒音」と苦情を言い立てるのは不寛容な気がしてならない。

ハイコンテクストな継承

祭りの賑わいを騒音と思わない理由は、おそらく「祭りは晴れの日だから」に集約される。人々の楽しみ、日常からの解放であり、それを邪魔するべきではないという感覚だ。

そう、これは感覚だ。いくら言葉を尽くしても伝わらないときは伝わらない。かつては地域や家庭によって継承されていたものだったように思う。

先んじて言っておくと、私はラディカルな個人自由主義を否定するつもりはない。生き方が自由な時代にそこをつつくのは私自身を息苦しくさせる。

ただ、本来は地域や家庭によって持続的に経験が発生していたものが失われたことで、継承が途絶えた「感覚」は確かに存在する。

たとえば、回転寿司で醤油差しを舐めたあの事件。私は「醤油差しを舐めてはいけない」という教育を受けた記憶はない。ではなぜ舐めないのか。

漠然とした「人が使うものを汚してはいけない」「唾液は汚い」という日常的には言語化されない命題。それを倫理観としていつ獲得したか詳らかに説明できる人はいないだろう。

唾液、舌という明確に汚いものでなくともこの感覚的倫理観は働く。「醤油差しの口を指先で触らない」というのは当たり前のことだ。しかし、私は普段から自分の手がどうしようもなく汚れているとは考えていない。

この「非言語的倫理観」とでも呼ぶべき感覚の継承は、今のところ人から人によってしかなされていないと思う。どんな媒体よりもインタラクティブな人間とのやり取りのほうが効果的だ。

そして、その継承が生じうるやり取りは今まで地域や家庭が担保していた。その時代が終わりつつある今、何か代替手段を見つけないと我々は致命的な感覚の喪失に直面するのではないかと不安になる。

感覚を創出する

いっそ感覚の原点を生み出してしまうのも面白いかもしれない。

最大の問題は「共感しえない感覚を継承できるか」という点にあると思っていて、夏の風情を味わうというのはもう風土資料館の体験コーナーに任せる時代になってしまった可能性がある。

では夏祭りの役目は終わったかというとそういうわけでもなく、納涼祭がある。暑さをしのぐ祭りだ。水辺で開催され、多くは盆踊りや露店など夏祭りと同じ形態を取る。

納涼祭をより積極的に開催して、その意義を継承していく。立地はより限定的になってしまうが、夕方から夜にかけてちょっと涼むついでに遊びに行く場所があるのは嬉しい。

そして何より、「お一人様が入りやすい祭り」の構築だ。これが難しいかもしれない。カップルや家族連れがひしめく祭りに独り身はどうにも入りづらい。これは私怨ではない。念のため。

そうして初めて、様々な層に開かれた祭りが成立し、祭りという感覚の継承がなされるのかもしれない。社会学や人類学の方面で誰か提言してくれないものか……。

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