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映画の中で生きる私と、そろそろ自分という軸で生きてみたい私

私は映画が好きだ。たった約2時間でその人たちの人生を知ることが出来るから。小説も漫画もきっとそうだし、小説じゃない書物も絵画も音楽もなんらかの作品もそのもの自体とそこに至るまでのストーリーがあるし、どれもが何とも言えない贅沢品だ。

私みたいな庶民でも研究者や専門家、作家、芸術家の人生の一部を知れるなんて、何て素敵な事なんだろうと思う。と同時に、自分はそれらを消費するだけであって、何かやれているのだろうか、と思うこともある。

私はメンタルクリニックに通院していて、出来事を話した時、「ドラマのような人生ですね」と主治医から言われたことがある。こんなドラマ誰も観たくないよ、と思いながら、私は映画に自分の人生を探す。そこにはもしかしたら、私の人生のロールモデルがあるのではないかと、若干の期待をして。

話は変わるが私は、極度の寂しがりで愛の渇望者なんじゃないかなと思うくらい、恋愛ネタをたくさん持っている。もしくはくじ運がコンテンツ向きに寄り過ぎているのかもしれない。プライバシーの侵害だと訴えられないんだったら全部を話してやりたいくらい、自分でもどうしてこうなったかというくらい得体のしれない人たちと関わってきた。

その中でも私の中では、すごく大切に想っている人が2人いる。1人は私に自己肯定感というもの、正しい愛というものを教えてくれたけれども、過労と私からの無意識のプレッシャーでうつ状態(連絡取れていないので詳細不明)になった人で、もう1人はクリスマス当日に別れ話をしてきて私がODで自殺未遂を図った相手だ。

もう連絡を取っていない(取れない、各所ブロックされている、意地汚い方法で連絡は取れるかもしれないがそんなことをしても余計に嫌われるだけ)の人は、私と出会う前、元カノと別れても定期的に会っていて何とも言えない距離感でいたが、『ラ・ラ・ランド』を観に行き、「はい、解散」となった話を出会った日にしてくれた。それまでも、監督(頭がいい)の「映画好きはこういうの好きでしょ?」とデータ化された物の総集編みたいな、上から目線の馬鹿にした感じが透けて見えていて、自称映画好きとしてやっていた私は、それを素直に「良い映画だ」と受け止めきれず、なんかいい気分じゃなかったが、その話を聞いて「そうであったかもしれない未来ではなく、現実の別れた方が正解だったというアンサーに、この2人は納得したんだ」という意味で更に見返したくない映画になっていった。

一方でクリスマス男とは、同じコミュニティ内なので、定期的に顔を合わせていた。それでも二人きりで「あの頃は若くて未熟だったね…しみじみ…」となるには7年程の歳月が必要だった。しかしお互いのことを長い時間、近くでも遠くでも見ていたので、その後はそんなに頻度は高くないが、色んな場所に食事をしに行き、いわゆるホモソーシャルの中では言えなかった弱音や愚痴を聴いたりして、いい距離感を保っていた。(といいつつ毎日LINEをしていたので、いい距離ではなかったんだと思う。)

保っていたのに、私が愚かなせいで、10年前に別れた人間をまた好きになってしまったのである。これは本当にはたから見たら、そこまでの労力を使って向き合う必要があるのか?と思うくらい、時間をかけて、これでもかという程時間をかけてお互いを説得し合う時間を作った。つまり、彼は「確かに魅力的だし、大切だし大事にしなきゃいけないって思う存在だけど、お前を幸せに出来ないから付き合うのは無理だ」という説得と、私は「君となら不幸でもいいし幸福になる自信はあるから付き合え」という説得(資料まで作った)、地獄のような時間をかれこれ1ヶ月くらいした。

その後、他にいい人いるから探しなさいという無理くりな後押しで、マッチングアプリで他の人に出会ったり、なんなり、あああああああ(詳細を書くと本当に訴えてきそうな感じの人なので何も触れない)だったが、それでもこっそり2人で会ったり、たまに連絡を取っていた。

彼は自分のことを「親戚のおじさん」だと思って接して欲しい、悩みがあったら聞くし、味方になるよとずっと言ってきた。全然全然全然理解できなかったけれど、(なんだよ親戚のおじさんって、親戚のおじさんに悩みなんか言わないだろ)ハリポタが好きな私はピンと来てしまった。私はハリーで、彼はシリウス・ブラックだと。(知らない人は映画見るなり原作読むなりネットで調べるなりしてこの愛の深さを知って欲しい。"誰しも心の中に光と陰の面を持っている。大事なのはどちらの道を選ぶかだ。人間はそこで決まる"という彼の名言がある。大事なありがたいお言葉です。)ハリポタの事を良く知らない彼は何も知らずに「俺ゲイリー・オールドマンなの?かっこいい!やったー!」と言い、私は、そうか彼は私の名付け親……と少し浮かれていた。元々ルーナ・ラブグッドの次の次くらいに好きだったので、彼の意とした事とはズレたが、なんだか納得できていた。

だからシリウスには、しんどい時とか、何か環境が変った時とか、ちょくちょく連絡をしていた。私とその付き合う付き合わない論争をするまでは、長い間恋愛はしたくないと言っていたのに、彼女がいたらこんな連絡頻繁な女迷惑だろうから「今まだ彼女と続いてる?」と探りで聞くと違う彼女になっていて、なんなんだこいつは、、と怒っているのだが、それでもまぁたまには求愛をしてしまうという本当に馬鹿丸出しの30過ぎた女をしていた。(略奪する気は全くないので、ー略奪?その話やめてもらっていいですか?ー違う世界線でのあり得ない話を一方的にしていた。)

そして昨夜、彼が出てくる夢を見た。私が求愛してしまうのは、夢の中ではとてもいい距離感だったりする時が多く、夢と現実の境が曖昧になっているからなのだが、今回は違った。私が付き合っていた時にずっと感じていた、寂しさがあった。彼は本当に誰にでも優しかったし平等で、私を彼女だからと言って普段の人間関係において特別扱いしないので、それが当時の私はすごく不安で不満だった。ふとまた彼のことを考えた時、あぁ、きっとこれが平気な人じゃないと彼の良さを潰してしまうし、私はきっとまた寂しい思いをするんだろうな、と思った。「私を幸せにできない」の理由が分かった気がした。そして、私に必要なのは、『ラ・ラ・ランド』のラストシーンのセバスチャンの頷きだった。私はミアで、笑顔でライブハウスを去っていかないといけないんだ、なぜかそう思えた。

私は早速それを彼に共有した。そうしたら「ラ・ラ・ランドはバッドエンドって言う人いるけど、俺は最高のハッピーエンドだと思う。かつて見せたかったけど見せらせなかった理想の自分になって再会するなんて最高じゃないか。」とベストアンサーをくれた。お互いがそれぞれ幸せに生きて、そして納得して去っていく。泣ける。

またこうやって、ハリーとシリウスから、ミアとセバスチャンへと変化した訳だが、そうなると私は、全然理想の自分になっていないし、まだ会えない、会いたくない、と思った。

でも、私はミアではないし、彼はセバスチャンでもない。そんなかっこいい関係でもなんでもない。ただただ10年前と変わらず彼の優しさに依存しているだけ。そしてそれに対して誰にでも優しい彼はケアをしてくれているだけ。全然かっこよくないね、ダサいな。いい加減、自分を軸に人生を進めたいし、今の最低な暮らしから抜け出さないといけない。なんでこんな馬鹿で未熟な訳の分からん恋の話を書いたかと言うと、ここに残しておかないと、また気が緩んでハリーに戻ってしまうから。ハリーでもなく、ミアでもなく、ただの最高でかっこいい私になるために、たまには前向きになったって良いと思うので、そう決心したのでした。

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