コロナ禍とアーティスト 第5回

第5回 妻木律子さん(ダンサー・コレオグラファ)

今回登場していただいたのは、宇都宮市を拠点にして活躍している現代舞踊のダンサーでありコレオグラファである、妻木律子さん。「栃木県では<現代>とつくアートは人気がないのよ」と笑う妻木さんだが、その活躍は多岐にわたり、ダンスファンだけでなく多くの人から注目されている。今回はコロナ禍だけでなく活動全般についてお話しいただいた。
いささか長いインタビューで、本当であれば前後編に分けるのだが、noteという媒体はそれをやると分かりにくくなる気がしたので、あえて長いまま公開した。大変ですが、おつきあいください。

「be off」と「ダンスセンターセレニテ」

宇都宮市産出される建築材に、大谷石があります。大正時代にロイドが旧帝国ホテルに使ったことで有名です。宇都宮市内には、大谷石でできた石蔵や塀などがいくつもあります。私の活動拠点である「be off」は、この大谷石蔵を活用して作ったスタジオの名前です。
「be off」には3つの機能があります。一つはダンススクールの場としての機能。それからレンタルスペースとしての機能。そして私のプロデュースした企画を行う場の機能。もちろん、私が個人的にダンサーとして踊る場でもあります。

「ダンスセンターセレニテ」は、私のスクールの名前です。現在、50人ほどの生徒が通って来ます。その他に保育園など外部でも教えているので、生徒数は70人くらい。いちばん小さい子は3歳で、最年長は80代。幅広いですね。男性の生徒もいます。月に一回、男性だけの「ボーイズクラス」を設けています。
もともと「be off」は、練習と同時に発表できるスタジオを目的に作った場所です。だから土日はスクールを入れずにイベントや公演のために使っています。ただ、コロナ禍でそういった使用が全部無くなってしまったので、今(6月26日現在)は土日もスクールを入れています。

私がセレニテの運営で重視しているのは「生徒や保護者とのコミュニケーションをいかにとるか」ということ。私が発信者となり、ダンス教師という立場を越えて、ダンスを介して関わる方々と〈セレニテ〉という緩やかなネットワークを創りたいと思っています。
今回のコロナ禍での運営についても同じです。栃木県の緊急事態措置の発令に伴い、それを受けて休業要請期間はスクールを休みにしました(約半月)。この完全な休業前後は、保護者と対面では話せない状況でしたが、電話やメール、ラインを利用したコミュニケーションの上、少人数制(4人~5人)でのこれまでにない体制を取り入れ、とにかく細々でも継続するという方法を選びました。私たちのような規模のスクールがどのように動くべきかを栃木県へも直接電話で相談し、その返答を基に、マスクの着用や、検温、蜜を避ける、除菌、換気する等、私、そして、受講する生徒たち、保護者も、対応に努めました。もちろん、自己判断で休む人は休んで構わないということで。

インターネット配信を利用してレッスンを継続しているスクールもありますが、私はそれは苦手なので、クラスの人数を減らす形で運営しました。時代のニーズに応じることも必要とは思いますが、同じ場で対峙することが、ダンスには、絶対に望ましいと思っているからです。
一方で、オンラインミーティングは何回か実施しました。現在の生徒だけでなく、OBとも実施したので、久しぶりに顔を見た人も多くて、楽しかったですよ。オンラインは実際に会うミーティングよりも、1人ひとりの顔がよく見えて、ああこういうスタイルもありだなと思いました。

面白かったのが、クラスを少人数にしたら、少人数でみんながいなくてガクっとさみしくなる子と、反対に少人数だから生き生きする子がいたんですよ。やっぱり子供も、知らない間に先輩などに気を使っているんだなと気づかされました。

※be offやセレニテについては公式サイト(http://www.beoff.org/)を参照。
be off内部はこちらの写真を見てください。http://www.beoff.org/cat3/cat13/

人前で踊ることの大切さ

6月の宇都宮市民芸術祭に生徒たちは出演する予定だったんです。でもコロナによって中止になってしまいました。この状況下で生徒たちが、意気消沈、不安を感じている様子が伝わりました。そこで、5月5日の「こどもの日」に、芸術祭に向けて子供たちが踊る作品を私がひとりで踊って 、それを撮影し、配信したんです。会えなくても心が伝わるようにしたいと思って——。「祝 こどもの日 みんなは頑張っている 子供はすごいのだ 君たちには力が宿っている 」というメッセージを付けて送りました。

1月30日に開催された、県の文化振興大会(※1)のアトラクションで、私が、部会長を務める宇都宮市洋舞部会の人たちと連携して去年上演した作品(※2)を改めて披露、大成功でした。

子供たちは、ダンスを習っていても、身内向けの発表会以外では、披露する機会は実はあまり無いんです。それがこの本番では、見ず知らずの一般の方が盛大な拍手を贈ってくださった。ステージに子供たちが出ただけで「わーっ」てなったんです。だから子供たちもとても喜んで、舞台もどんどん良くなりました。ああよかったな、今年は良いスタートを切れたなと感じました。
私たちの場合、練習も大切なんですけれども、人の前にあらわにするということも大事なことなんです。だから年の初めにこういう幸せな体験ができて、本当に嬉しかった。このノリで6月の宇都宮市民芸術祭へ向かおうと言っていたら——こうなっちゃったんですよ。非常に残念です。子供たちのためにこれからも何らかの機会を作っていかなくちゃ——と考えています。

※1 宇都宮市文化会館で開催された第44回栃木県文化振興大会、詳細は下記アドレス。
http://www.pref.tochigi.lg.jp/c01/houdou/bunkakyoukai/r01bunkashinkoutaikai.html
※2 2019年5月に開催した、第40回宇都宮市民芸術祭記念事業「折々のうた」の中の、冬の場面のこと。今回は県内8スタジオから生徒たち総勢42人が参加した。

コロナ禍で空いた時間を使って

私のダンサーとしての活動も、今年に入ってからはほぼ全部無くなっています。定例で決まっているものも、トピックで入っていたものも、全部。
4月の初めに「西方音楽館」(栃木市西方町金崎 http://wmusic.jp/)で現代音楽家のピアニストとコラボレーションして踊る予定だったんです。私、それがすごく楽しみでした。音楽が、本当にすごい音楽だった——とんでもない音楽ばかりだったから。それでギリギリまで頑張ったんですが、やはり無理ということで、来年4月11日に延期になりました(※)。先延ばしになってしまいましたが、来年やれるのを楽しみにしています。

公演が減るのは大きな問題で、深い部分で困惑していますが、——変な話だけど、私の場合パフォーマンスでお金を得るより、むしろ出す方が多い(笑)。だから、逆に、支出は減ったんですよ。東京に行かないので交通費がかからないとか。だからまあ、経済だけで言っちゃったら、ダンサー活動に関していえば、少し楽になっています(笑)。だから良しということではありませんが、それだけダンサーの活動にはお金がかかる、ということです。

そうやって完全休業の時に、私自身何をしていたかというと、毎日スタジオで自主トレをしていました。
たとえば去年見ていただいたソロダンス「漂流」(妻木律子ダンストライ2019「A play 言葉と動きのラビリンス」で初演)を、ここで黙々と踊っていたり。人のためではなく自分のために踊る——人に見せるための練習じゃなくて自分が踊りたいから踊る時間っていうのは久しぶりだったので、快感でしたよ(笑)。

ダンサーとして、1本くらいは代表作を持ちたいわけです。でも私たちのダンスって、そんなに繰り返して上演できるものじゃない——再演の機会は、特に日本では、あまり無いんです。これが外国であれば、旧作1本新作1本という感じで年間に何度か公演できるんですけど、日本におけるダンスの状況は決して良くないので、かなり限られた少ない上演回数ですから、公演の度に新しいものを出さざるを得ない、頻繁にお客様に来ていただけるような環境がまだまだ整っていませんね。

コロナ禍で時間の余裕ができたので「漂流」を自分のベーシックなものとしてやれるように、繰り返し踊ったりビデオ見たりして、よりよいものになるよう練り上げているところです。しかしながら、ダンスを見ていただくことを企画する、受け入れていただけるかわからないまま、作品を創り続けるということは、半端ないエネルギーがないとできないことで、このコロナ禍の今、私に何が起こせるのか、退行しそうになる自分もいます。傍若無人に突き進んできたこれまでの道のりを見返し、覚悟を問われる機会になったことは間違いありません。

私はふだんから、自分が今おかれている環境の中で、できることから始めるということを重視しています。そう広くなくてもいい、小さい範囲でいいから充実したいなと思っています。幸い、それはコロナ禍でも途切れませんでした。
スクールが休みの間「私は自主練で毎日スタジオにいるので、来たい人は来てください。ただし、人数制限あり、要予約」と呼びかけたら、いろいろな方がポツポツ来てくれて。生徒だけでなく、近所の方とかも来てくれて、とても嬉しかった。「動く」ということを共有する時間を持つ、そういう点では、この期間は自分にとって不思議な時間だったと思っています。

私にとってスクールは、現在では単に『教える』場ではないんですよ。自分のいちばん身近な関係者と、いいネットワークを作る場にしたい。だから、お互いにどういう価値観を作って行くかが大切なんです。先生と生徒という関係から、個人対個人という関係に至る。そこは前から乗り越えたいと思っているんですけれど——難しいんですけれどね。

※「音と身体~その拓かれた空間」(西方音楽館友の会第69回コンサート)
ピアノによる現代音楽とモダンダンスのコラボ
ピアノ:蛭多令子、ダンス:妻木律子

ソロダンスとカンパニー

ここ数年、自主企画の公演では、作品を1人で踊ることが多いです。理由は他のダンサーとスケジュール調整が難しいとか、予算が少なくてお金が出せないとか(笑)いろいろですが、まあいちばんは、1人でやるのが簡単だからということかな。
日本って、アートは個々みたいな考え方が根強い気がします。個々に動けるんだけど、まとまる時はまとまる——何か創る時はぱっとかたまっていられる関係っていうのが、理想だと思っています。ダンスのカンパニーは、そういうふうに、個々に活動できる人が連携して作る集合体でないといけない。良い作品を作るにはそうすることが必要なんです。まあ日本の場合は、どうしても経済的なことがカンパニーを作るネックになってしまっています。

若い人には、宇都宮から一度出なさいと言っているんです。私自身が、宇都宮から出たことで、いろんな人に出会って、よかったなと思ったことが多いので、そういう意味では出ていったほうがいいんじゃないかなあと。
ただ、そうするといつになっても私のカンパニーが作れないんですけどね(笑)。そういうわけで、ここで1人で踊る方に向いちゃっている(笑)。
ただ、多分私は、身体を通して関係を作って行くことが面白いんだと思います。ダンスを通して人と出会ったり、日々の中に新たな何かを起こして行ったりすることに、興味があるんです。

それから、ダンサーの友達に言われたことがあって——すごくいいダンサーだったんですが、残念ながら亡くなってしまったんですが——その彼女が「私は、ドアが開かなかったら開くまで叩き続ける。あなたは、開かなければ次のドア、開かなければ次のドア。どんどんいくタイプだよね」って言われて。あ、確かにそうだなと。可能性を、どんどんいろんなところで触手を伸ばすところがあるのかも知れません。そういう性質(たち)なんですね。

コラボレーションも、たくさんやらせていただいています。
木内里美さんというすごくいい女優さんがいて、その彼女と2人で作品を創り上演しました(2004年のbe offオープニングイベント「物・語は点滅する」など)。彼女は早稲田小劇場出身で、すごい身体性があり、ダンサーのようでもあります。私もダンスだけでなく、セリフを言ったりしました。
でもそれも、演劇に興味があったわけじゃないんです。木内さんとのコラボレーションだから、という——個人的な要素ですね。彼女と演りたい、という思いなんです。
いろいろな方とコラボレーションをさせていただいていますが、いちばん重視しているのは「この人と演りたい」と感じられるかどうか、でしょうか。

ソロばかりで過ぎてしまうと、無性に自分を壊したい、誰かに揺さぶられたいと思いますので、そういう点で、コラボレーションは刺激あり、一人では出せないところを生み出す、共同で創り出す醍醐味があります。けれど、反面、人には及ぼされない強固な片意地のような凝り固まったものにたどり着きたいという欲求もあります。
結局いつも迷ってばかりで、ひとつの手法によりかかれずにいます。時間をかけ、創造を共にする同志(カンパニー)は必要だと思いつつも、私の場合、経済面だけでなく、様々な要因が、それを遠ざけているような気もします。

東京から宇都宮に戻り、ダンス以外の生活も生まれた

一度東京に出た私が、どうして今また宇都宮で活動しているかというと、多分、反動なんですよ。
東京にいた時はカンパニーに所属して活動していたんですが、そこではいろいろな制約があって、だからその分のストレスを宇都宮に来て発散していた。そういう生活を送っていました。
当時は本当に、踊るための生活だったんですよ、もう。リハーサルに加え、常にミーティングがあったり、遅くまで会議したり。すべてが舞踊だけに向いていた生活でした。でもそのうちに、こんな偏った生活はダンサーとしてどうなんだろうと思うようになったんです。
1989年に文化庁派遣在外研修員としてアメリカに行って、マース・カニンガムスタジオで学ばせていただきました。その後また日本で同じような生活になって——その頃から、ちょっと東京と距離を置きたいと、無意識に思っていたんだと思います。マース・カニンガムや、彼のカンパニーの音楽監督のジョン・ケージと出会えたことで、生活から、態度から、自分を創りだすことを考えるようになりました。

その頃、宇都宮市の塙田にあった家に心を惹かれたんです。「あ、ここに住もう」と。
あんまり深く考えていなかった(笑)。勘で決めました。ダンス云々ではなく、単純に住まいを変えたくなったんです。意を決して計画的に拠点を移したわけじゃないんですね。だから最初のうちは、東京に何回も通わなくちゃいけなくて。若かったから、それに負けないエネルギーがあったのね。東京の稽古場で寝たりとか(笑)。今じゃできないです、そんなこと。

でも、結局のところ、距離を置きたかったんだと思います。踊りが中心であった、東京の自分と。
こっちに戻ってくると、一般的な知り合いができたりして、ダンス以外の生活が広がりました。東京ではダンス関係の知り合いしかいなかったですから。それが自分や自分の踊りをもう一度見つめ直す機会を作ってくれたんだと思います。最初はただ「この家に住みたい」だけだったのに、活動をこちらに移すことになったのは、根底にそれがあったからだと、今になると気づきますね。

最初はねえ、やはり都落ちみたいに言われたこともありました。でも2004年に「be off」ができて、見に来てくれた人が「あなたのやろうとしていたことが、分かった」と言ってくれるようになりました。

ここ(「be off」)の広さは、東京で個人が持ちたくても、まず持てません。それなりに運営費もかかりますが、東京に比べればかなり低く抑えられます。今回コロナ禍になって、自分の活動拠点であるスタジオを持っているありがたさを再認識しました。東京の友人たちにも羨ましがられています。今回はキャンセルになってしまいましたが、有名なアーティストがここに惚れ込んで、ファンとの集いで使いたいと言ってくれました。良さを分かってくれる人はたくさんいますね。
でもね、ここを運営して食ってくのは大変。私がよくやれているって、自分で思っているくらいだから(笑)。収入のほとんどをつぎ込む形ですね。
それでいいという性質(たち)なんですよ。子供がいるわけではないし、財産を作って残してもしょうがない(笑)。ここで築き上げる、人とのリレーションを重視していきたいと思います。
それでも、私が力尽きたらこの場所は大家さんにお返しするしかないし、その時は現状復帰で現在とは全く違う姿に戻ってしまいます。だから、私もまだまだ現役で活動していくつもりですが、その後を私とは異なる方法でよいので、誰かこの空間を引き継いでくれたら、嬉しいですね。

小さなヒントを出発点に振付を組み立てる

昨年、11月29日から3日間、朗読の青木ひろこさんとのコラボレーション「A play 言葉と動きのラビリンス」を上演しました、これは2部構成で、青木さんの朗読(恩田陸「私と踊って」)と私のダンスのコラボレーションと私のソロダンス「漂流」の2作品を上演しました。

コラボレーション部分の踊りの振付に、最初は苦労したんですよ。いろいろ試してみたんですが、組み立てられなくて。それが、レッスンで使うバーという器具を取り入れたらどうかと閃いたんです。そこから、自分の立ち位置が明確になり、振付を作ることができました。振付のヒントというのは、そういうふうに思いがけないところから生まれてくるんです。

振付する時に、決まったパターンはありません。ただ、自分の中では——人間の身体には必ず重さがあるので、絶えず地面に引っ張られています。その重さを超えたいという気持ちが、出発点になっているんです。重力からの解放、それは、物理的なことでもあり、精神的なことにもある重さからの解放もあります。その上で、例えば子供が意気揚々としているんだけど、ちょっと悲しいことがあるとしょんぼりして帰る姿を見た時に、その身体の魅力に圧倒されます。そんな身体の様々な力を何とか表現できないか・・・そういうふうに思います。これをどう表現しようかと——深い物語性よりも、周辺に起こる小さいヒントから、振付を組み立てていきます。少なくとも、「身体ってよいな、面白いな」と思っていただけるように。

ダンスを組み立てる時、理想は自分の体の中にあるいろいろな型を取り外して考えられると良いと思います。ただ、それは非常に難しいですね。
私の好みとしては、その型をいかに組み合わせるか・・・一つひとつは当たり前のものをやりながらも、当たり前ではないものにしたいというふうに思っています。そういう使い古したものの中で、何か新しいものを生み出せないかと考えることが、私は楽しいんですよ。振り(規制)があった方が、外していく喜びがあるんです。

いま何が起こっていて、ここでどういうことをしたらいいんだろうという感覚や手立て、判断には、即興は大切です。思いがけないことを受け止めて瞬時に前に進むということは、日々誰もがおこなっていることです。同様に、同じ振りでもやっぱり即興性はあるんですよ。必ずその日ごとに違うんです。
自分のソロの時は、目的地までのルートは決まっているんだけど、でもそこで出会ったりちょっと立ち止まったり、急ぎ足になったりという、そういうのはもう、自由自在にやります。プロットは決まっているんだけど、その間の表現は臨機応変、その場に応じて踊る。そういうやり方が、好きですね。で、そのためにはやはりきちんと決めておく部分が不可欠です。決めてあるからこそ自由になれるという方ですね、私は。

即興でのパフォーマンスは、複数の方と共有した時間と場の中で生まれると、非常に拓かれたものになりますね。私の場合、ソロでは難しく、即興のみのソロパフォーマンスは数少ないです。
先ほどお話しした木内里美さんとは「木内さんと妻木さんの13ラウンド」(2003年10月26日)と称した即興のみのパフォーマンスを、ボクシングの試合のように3分間のラウンドを13回行うという形態で試みたことがあります。大きなテーブルが部屋全体を占める小さなオフィスのなかで行いました。私たちはテーブルの周りでパフォーマンスをし、見る方は壁にへばりついて役者とダンサーの即興対決に立ち会うものでした。そのオフィスでしかない環境を逆手に取り、種々の規制があったればこその即興で、あの時、あの条件が生み出したものでした。
規制を乗り越えての自由度を探すことが、私には非常に面白いものなんだと思います。

コロナ禍で得たものも、ちゃんとあって欲しい

コロナ禍を経て、元に戻る必要はないと思うんです。むしろ、これを経たからこういう風になった、というところに行きたいなと思いますね。
日々のあり方にしても、コロナのおかげで得たこともちゃんとあって欲しい。「思いやりの距離」なんてことはどんなことなのですかね。必要なことを現実の中で具体的に探す、自然物として良き方へ・・・そんなことをぼんやりと、今は考えています。

(インタビュアーによる言わずもがなの追記)
妻木律子さんと初めて会ったのはもうずいぶん前——おそらくは20年以上になると思う。その頃僕は「アートウオーク」という、アーティストが自分のスタジオを公開するという活動の隅っこに関わっていた。その第1回か第2回に、妻木さんが参加して、宇都宮市内を流れる田川という川のそばにあった(と思うんだが実は定かではない)スタジオを公開たのだった。ダンサー、それもモダンダンスのダンサーに個人的にお会いするのは初めてで、私は——当時すでに雑誌の記者をやっていたくせに、すっかりアガってしまったのを覚えている。
それから断続的に今まで、数年に一度お会いするくらいのペースでおつきあいさせていただいている。最近は、行きつけの喫茶店やパン屋さんが共通しているため、以前よりもお会いする頻度が増えたが、まあそんなことはどうでもいい(←村上春樹を気取っているわけではない)。
妻木さんは自身のダンスを映像化することは好きでないということで、だからYouTubbで「妻木律子」で検索してもも出てこない。彼女のダンスを見るためには、実際に公演に行くしかない。そして、それだけの価値はある。私にはダンスの語彙が全くないのだが、ふつうのダンスは世界を構築して見せてくれる。もちろん妻木さんのダンスも妻木さんの世界を見せてくれるのだけれども、と同時にそこには私が今生きている世界の成り立ちも見えるのだ。ああ、世界というのはこういうふうに見るものなのだなと思わせてくれるのだ。そういう思いを抱えているから、素人ではあるけれども、私にだって妻木さんに話を聞く資格は、2グラムくらいはあると思う。その結果は——穴を掘って埋まりたいくらいのインタビューだけれども、それは豊かな妻木さんの語りをこんなふうにしか切り取れなかった私の貧しさなのだ。ごめんなさい。(岩崎)

妻木律子(つまき・りつこ):
ダンサー・コレオグラファ。
栃木県宇都宮市出身。立教大学法学部卒業後、ダンスのプロフェッショナルな活動に心身を投入。日本人ばなれしたダイナミズムと日本人特有の精神世界を併せ持つダンスは、日本だけでなく海外でも高い評価を得ている。
ダンスセンターセレニテを主宰し、東京と宇都宮に拠点を持ちダンス活動を展開。ダンス公演での振付・出演だけなく、ダンスクラスやワークショップも精力的におこなう。
2004年、大谷石蔵を利用したアートコミュニティ空間「be off」を設立し、アートが生活の必需品となることを模索しディレクター分野にも着手。日々ダンサーとして湧き上がる何かを動機として種々の事業を展開している。

公式ウェブサイト:http://www.tsumaki-ristuko.org
(写真撮影:田村務)

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