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aftersun(※簡潔に)

書きたいことがたくさんあってそれを全部書いたとしても、まとめる文章力がないと、書き終わった文章はどれも自分の考えの的を外してはいないが、中心から少しずつずれているような、そんな読み返したくない文章になってしまった。だけど感じたことを覚えておきたいというのもある、のでこちらに短く簡潔にまとめた。


 子供のソフィがカラムに向ける屈託のない信頼、接し方。それを包み込むような存在としてのカラムがいた、カラム自身そうあることができた。カラムの暖かい視線。あの時の2人だったからこそ、あの暖かい愛を感じることができた。



 2回目を見た時に、自分はカラムの視線にいた、自分が歳の離れた弟に向けているものと同じようだった。親が自分にその視線を向けていたことも、もう記憶にない自分が、ソフィと同じような視線を親に向けていたことも。自分は初めて実感として理解した。

 カラムに屈託のない笑顔を向けた、あの頃の子供のソフィは知らない。「知らなかったということ」を、ある日知らないといけなくなる。まだ知らない笑顔のソフィが、1人の愛する家族を何気なく笑顔で見つめる姿に、自分は口が震えるくらい泣いてしまった。ソフィがカラムに向ける笑顔に、自分も笑顔が漏れてしまう、でもそんなソフィを、まるで自分が置き去りにしてしまうような気持ちになって同時に泣いてしまう。ソフィは知らない、いつかカラムがいなくなることを、いなくなってしまうことを。ソフィは知らない、ソフィは知らない。そんな言葉が何度も反芻された。


 映画に散りばめられた、2人の暖かいやりとりはどれもが自然で何気ない、でも心にしまっておきたくなるような大切なものだった。ソフィが向ける屈託のなさ、それをお守りにして、この子を抱きしめて生きていかないと、と思うような。だけど1人になった時、あの子の目を見ることができない程、ずっと弱い自分がいる、脆く崩れる。

 「ソフィが大人になる中で、なんでも僕に話して良いんだよ」カラムがソフィにかけた言葉。ソフィの成長や未来を、この子が守られていくことを願う本当に暖かい言葉だった。だけど、その言葉の裏に、自分の未来に耐えられなくなるカラムがいた。

 カラムが背中を向けて、しゃくりあげながら泣いているシーン、彼が向き合う何かと共に、ソフィのことが何度もよぎったのだと思う。そしてよぎってはよぎっては、ぼろぼろと涙が溢れてしまったんじゃないかな。

 カラムにとってソフィは、自分の手で包めてしまうほど小さくて愛おしくて守る存在で、でも実はその内側から暖めてくれているような存在だったように思える。カラム自身寄りかかっていたんだと。



 早朝のバスで遺跡に向かう。ソフィは、恥ずかしいのか少し躊躇った後、「パパ誕生日おめでとう。」と。カラムの横顔が解ける、微笑んでしまう。カラムはソフィに笑顔を向ける。ソフィは、また恥ずかしいのか雑誌に視線を向けている、子供の無防備な横顔。それを見つめるカラムの緩んだ顔。そこに湧き上がる本当の嬉しさとソフィに向ける愛情を垣間見る、暖かい。

 カラムがソフィを見つめるその目の奥をずっと見つめていたくなる心地だった。暖かい、だけど切ない。ソフィの過去と未来を見つめ、自分の最後を見つめるような。

 夜、部屋でソフィとのビデオを再生するお父さん。撮った動画を再生する、動画が終わり切る前にそれを止める。真っ暗な部屋、カラムのその表情は、終わりを知っているよう。いつか、ソフィとは会えないことを知っているような、それが遠くないような。その動画はなんのために残すのか。歳をとった時に見るためのもの、カラムがそんな風に思っているとはどうしても思えなくて、なんだかその動画を全部撮り終えたら、お父さんはその動画を置いてそのままどこかに行ってしまうんじゃないかって。



 最初に言った通り、何気ない会話を通して、2人の暖かさを感じた、カラムの複雑な背景を思いながら。カラムの痛みが、ソフィの愛情の中で、ソフィへの愛情の中で、あの暖かい時間に、その間だけだとしても癒されていくのを感じる。

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