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aftersun

6/4に1回目を見に行って、覚えておきたいこと、言葉にしたい感情がたくさんあるのに、言語化ができない、まとめられない。そんな風に詰まって、ここ数日間後回しにしては記憶が薄れていき、焦りと虚しさにやられ、もう乱雑さは残っているけど投稿したれ、という感じです。まぁでも大事なのは自分が覚えておきたい、それです、どこまで行ってもメモ

(こっちに短くまとめた)



 ソフィと、その父カラムの何気ない、でも愛に溢れたやりとりの連続。子供のソフィがカラムに向ける無条件の信頼、接し方。それを包み込むような存在としてのカラムがいた、カラム自身そうあることができた。カラムに暖かい視線。あの時の2人だったからこそ、あの暖かい愛を感じることができた。



 ソフィは成長の真っ只中、思春期の困惑の中にいる、それが分かりやすく示される。でもソフィの目線から、体の端々から溢れ出るのは、紛れもなくまだ「子供」だということ。
 乗り気じゃないソフィに、護身術を教えるカラム。「これは大事なことなんだよソフィ」、お父さん何なのこれ、と少し困惑して笑うソフィ。でも言われた通りやってみる。
 「ソフィ、日焼け止め塗るよ」。ソフィは「自分で塗るよ」と返す。背中がうまく塗れない、カラムが塗ってあげるよと言う。しかしソフィは答えず、自分でもやれると言わんばかりに、自分の背中にぎこちなく塗り続ける。「ソフィ、もう良いから早く背中向けて」とカラムは言う。ソフィは、わかったよと無抵抗に背中を向ける。
 年上の男の子たちと、カラムと組んでビリヤードをする。兄妹に間違えられる。ショットを決めカラムに褒められる。誇らしそうな表情が漏れてしまう。
 ラストのダンスのシーン。踊り始めるお父さん、「お父さん恥ずかしいからやめてよ」と笑うソフィ。「恥ずかしくないよほら」と、ノリノリなカラム。「ソフィも一緒に踊るよ」とカラムに引っ張られる、「やめてよ」と言いつつ笑顔が漏れている。わかったよ、と一緒に踊っている。なんて微笑ましいのか。
ソフィの「子供」がいろんな場所で溢れている。カラムに向ける、屈託のない信頼という形で。自然な、屈託のない笑顔を向ける。まだ、カラムがいつかいなくなることなんて考えてすらいない。いなくなってしまうことを知らない。ソフィは知らないまま、最後までずっと暖かい笑顔をカラムに向けていた。

 ソフィを見つめ返すカラムの視線は暖かくて疲れている、歳をとっている。自分も知っている、子供を見つめる視線は疲れている、愛ゆえに。子供の瑞々しさを見つめる親の視線、暖かい気持ちになる。
 早朝のバスで遺跡に向かう。ソフィは、恥ずかしいのか少し躊躇った後、「パパ誕生日おめでとう。」と。カラムの横顔が解ける、微笑んでしまう。カラムはソフィに笑顔を向ける。ソフィは、また恥ずかしいのか雑誌に視線を向けている、子供の無防備な横顔。それを見つめるカラムの緩んだ顔。そこに湧き上がる本当の嬉しさとソフィに向ける愛情を垣間見る、なんて尊いものなんだろう。
 泥湯で、2人は体に泥を塗っている。昨日の夜、ソフィが部屋に入れなかったことをカラムは知る。少しおいた後に、「ソフィごめんね、昨日は」。「大したことじゃないよ」「大事なことだよ、ソフィ許しておくれ」とカラム。ソフィは頷き、カラムの腕に泥を塗ってあげる。仲直りの後の、この空白の埋め方が、本当に愛おしい。カラムも昨日のことに責任を感じつつ、ソフィに「塗ってくれてありがと」と笑みをこぼす、ソフィが笑う。この仲直りが本当に暖かくて、ソフィが子供であることもカラムが向ける暖かい視線も愛おしい。

 カラムの表情は同時にとても切ない気持ちにもさせた。何を見ているんだろう、お父さんの奥行きのある瞳、ソフィの過去と未来を見つめ、自分の最後を見つめるような。 

 夜、部屋でソフィとのビデオを再生するお父さん。撮った動画を再生する、動画が終わり切る前にそれを止める。真っ暗な部屋、カラムのその表情は、終わりを知っているよう。いつか、ソフィとは会えないことを知っているような、それが遠くないような。その動画はなんのために残すのか。歳をとった時に見るためのもの、カラムがそんな風に思っているとはどうしても思えなくて、なんだかその動画を全部撮り終えたら、お父さんはその動画を置いてそのままどこかに行ってしまうんじゃないかって。

 信頼してくれるソフィに、カラムも寄りかかっていたんじゃないかな。ソフィがカラムを信頼してくれてたから、カラムは大人でいられたんだと。
 カラムのソフィへの視線や接し方、カラムの中には安心感があったはずだ。カラムにとって抱きしめてあげる、小さな存在だったのだと思う。カラムの抱えているものとは無関係でいてくれた、何も知らない子供だった、自分のことを愛してくれる愛おしい子供。だからカラムはソフィに対して大きく強くあることができた、少し違う、包み込む存在であることができた。
 この小さい生き物、ほっぺを触りたい、適当に話しかけてちょっかいをかけたい。勝手に口が開き、手が伸びる。自分を受け入れてくれる安心感、わざわざそんなことを意識しないほどに、「この子は自分を受け入れてくれるから」なんてことは。



 2回目を見た時に、自分はカラムの視線にいた、自分が歳の離れた弟に向けているものと同じようだった。親が自分にその視線を向けていたことも、もう記憶にない自分が、ソフィと同じような視線を親に向けていたことも。自分は初めて実感として理解した。
 カラムに笑顔を向けた、あの頃の子供のソフィは知らない。「知らなかったということ」を、ある日知らないといけなくなる。まだ知らない笑顔のソフィが、1人の愛する家族を何気なく笑顔で見つめる姿に、自分は口が震えるくらい泣いてしまった。ソフィがカラムに向ける笑顔に、自分も笑顔が漏れてしまう、でもそんなソフィを、まるで自分が置き去りにしてしまうような気持ちになって同時に泣いてしまう。ソフィは知らない、ソフィは知らない。そんな言葉が何度も反芻された。
 映画に散りばめられた、2人の暖かいやりとりはどれもが自然で何気ない、でも心にしまっておきたくなるような大切なものだった。ソフィが向ける屈託のない笑顔、それをお守りにして、この子を抱きしめて生きていかないと、と思うような。だけど、1人になった時、あの子の目を見ることができない程、ずっと弱い自分がいる、脆く崩れる。
 カラムが背中を向けて、しゃくりあげながら泣いているシーン、彼が向き合う何かと共に、ソフィのことが何度もよぎったのだと思う。そしてよぎってはよぎっては、ぼろぼろと涙が溢れてしまったんじゃないかな。
 もしも自分がある日死んだら弟はどう思うだろう。信頼できる歳の離れた良い兄として、残るんじゃないかな。弟は知らない、俺が弱いことを知らない。こいつが知らないから俺は安心してこいつに寄りかかれる。
自分の手で包めてしまうほど小さくて、でも実はその内側から暖めてくれている。



 子供が育っていく時間、その変化を1番近くで感じ取る大人には、不安がある。変わって欲しくないというものではない。ただ変化とともに自分自身のことを省みる、自分が終わりに向かっているような。自分の弱さ、自分の人生。それらと無関係だった子供のソフィは大人になっていく、自分のことをどう見るだろう。
 あのまま何事もなく日常が続いたとしたら、ソフィ自身はカラムにどう接していたかを忘れていく。カラムの言葉は断片的に覚えていても、ソフィの視線やソフィの言葉は忘れていく。カラムが感じたものを忘れていく。それは当たり前なことで流動的なこと。

 「ソフィが大人になる中で、なんでも僕に話して良いんだよ」カラムがソフィにかけた言葉。
 ソフィが男の子とキスをしたことを打ち明けた時に、カラムから出た言葉。ソフィの安全を気にかけつつ、ソフィの選択をただただ尊重する。愛情が溢れた、ソフィの成長や未来を、この子が守られていくことを願う言葉だった。
 でもそんな言葉の言葉の裏に、自分の未来に耐えられなくなるカラムがいた。その言葉を残したカラムは、ソフィが大人になる前にいなくなってしまった。


映画の全体に対して考えるところ(メモ)

 1回目を観て感想を整理しようと思った時に、よかったということは自分の中で確かにはっきりしているのに、シーンをうまく思い出すことができなかった。結局3回見た。2回目は1回目と比にならないくらい感じるものが多かった。3回目を見ることは確信的だった。2回目以降、少し注意して場面を追った、それでも終わった後、シーンを順に思い出すことができない。映画を見ている時も、場面が移った側から、前のシーンが朧げになっていくような心地になった。もはやこの映画の持つ性質なのだと思ったところから注意してシーンを追う、そういう見方をやめた。

 何が映画を朧げにするのか。まず時系列はもちろんあるものの、例えばある1日が、朝から昼、そして夜まで描かれる場合があるのに対して、ある別の1日は日中の曖昧なある時間が描かれたまま、そのまま次の日に映るような場合もあった。こういう時、夜のシーンが描かれないだけで、まるで別々の1日を地続きの1日だと自分の感覚が勘違いしているような感覚に。今ここで日にちが移ったと認識しても、その1日が過ぎる中でその境界線がぼんやりとして、今映っているこの日は、何をしていた日だったか、という気持ちになる。

 さらに映画は、一本の線で進んでいかず、点で描かれているように感じた。「点」、例えば、それぞれの1日に、何かに向かって進んでいくわけではなく、シーン同士のつながりや連続性がないということ。それぞれの1日や出来事は、まるでランダムに配置された区切られた時間のようにさえ思える。映画の中で順序が

 また、2人の会話に関しても、本当にただの(歳の近い)父親と子供の会話で、そこには、何かストーリーのための引っ掛かりというか、何か物語の謎が明らかになるような雰囲気はない。そのため多くの会話はそのシーンを過ぎると、朧げになっていく。今日俺が家族とした会話のように、流れていく会話。

 何気ないやりとりはただただ自然で、大きく印象に残ることはない。でも、その何気ない会話を通して、2人の暖かさと、同時にカラムの複雑な背景を、自分がいろんなシーンで感じ取っている。カラムの痛みが、ソフィの愛情の中で、ソフィへの愛情の中で、あの暖かい時間に、その間だけだとしても癒されていくのを感じる。

 この映画は、忘れることが自然で、また映画を見た時にだけ思い出しておくれっていう映画なのだと思う、最初にも言ったけど。なので、ここでnoteに事細かくシーンを保存するのは筋違いにすら思える。あの映画を見ている時にだけ、浸れるものがある、見終わった後にはすぐにぼやけていく。それってなんだか良い1つのものだなって。


 この映画は暖かさに触れるための映画。2人の暖かさ、「自然なちょっとした視線や表情、やりとり」の連続に頬が緩む。それを覚えておきたいと思いながら見ている自分。そして、なぜかわからないけど、その微笑ましいやりとりを見て涙が溢れている自分がいる。それに対してうまく言語化ができない。それは結局、映画の中で、自分の中にいろんなものが積み重なったから、としか言えないように思える。ソフィの子供らしさ、カラムに向ける信頼、カラムの抱える複雑な何か、カラムの弱さ、そしてカラムが“ソフィ”に向ける安心感、愛情

 俺は、この映画を今後何回も見たいと思っている。またあのやりとりを見たい、何かが進むわけではない。自然な、ただの永遠が保存されたような映画。永遠という言葉は無闇に使うような言葉ではないけど、大人の“ソフィ”と対比した時の子供の“ソフィ”の笑顔は、永遠なのだと思えてしまう。


 この映画は、シーンと共鳴する音楽がとても強く作用しているのを感じた。Oliver Coates作曲の耳を満たしていくようなインストのサントラは、まるで音楽という水の中にゆっくりと潜っていくような心地だった。
 飽和的で、隙間のない、ドローンの要素の強いアンビエント。飽和するようなエフェクトのかけ方から、全般エレクトロだと思っていたけど、よく聴くと弦楽器にエフェクトをかけてうねるように響いていたり、低く響く低音も弦楽器のだったり。サントラが流れるシーンは、どこか意識の深くに入っていくようなゆっくりとした時間だったり、暗闇の中の記憶を辿る演出では迫り来るように揺さぶられた。その温度感は、音のないシーンのいくつかでも感じた。音が少ないというのはある意味静寂で耳が飽和しているような感覚。なので映画を見終わってサントラを聴いていると、そんな含みを持ったシーンばかり思い出した。


 だけど、映画はそれだけじゃなかったよね。そのインストの飽和的なサントラがかかってないような場面。bgm程度のpop songや、ホテルに泊まる人たちの会話やざわつきとの中、2人は何気ないやりとりや会話をしていた。そのシーンはずっと言語化が難しい。2人の視線に安心し、2人が何気ない会話の中で笑顔を漏らしてしまうシーンでは、こっちも笑顔が漏れてしまった。そして、この映画は見れば見るほどそういうシーンで泣いてしまいたくなる。自分の中に2人が積み重なっていく。

 Under Pressure(feat.David Bowie)/QUEEN 自分が何に対して泣いているのか本当に分からなかった。あの時のカラム、カラムと同い年になったソフィ、何も知らなかったソフィの笑顔、いなくなってしまう人、置いて行かれた人が交差する。目を凝らして何かを見ようとするわけじゃない、カラムの背中を見つめる、胸の中にいるソフィの笑顔を見つめる。踊りながら2人の間に溢れが暖かい感情、その時のことを改めて思い出す。表現されたもの、内に秘められたもの、どちらにも意識がいくような、素晴らしい曲の素晴らしいミックス。


(シーンのメモ)

 お母さんと電話する“ソフィ”。トイレの外の年上の女の子の、下の会話を、個室の鍵穴から見ている“ソフィ”。個室から出て手洗い場に出た“ソフィ”。「話聞かれたよ」、「大丈夫よ、子供よ」。“ソフィ”は鏡を見つめる。“ソフィ”はまだ子供、どんな表情をすればいいんだろうね。そんな表情になっちゃうよね。

 ダイビングに向かう“ソフィ”たち。潜れない、ゴーグルが落ちていく。「ゴーグルを投げたのに気づかなかったの」「気にしなくて良いんだよダーリン」。

 お父さんにビデオを向ける。「11歳の時、将来はどうなると思った?」“カラム”は、カメラを切る。忘れられた誕生日のことを話す。横並びでベッドに座って、切なげに話す“カラム”。でも“ソフィ”はそれを屈託なく返す、子供だ。


 遺跡にいる観光客と協力して“カラム”の誕生日を歌で祝う“ソフィ”。良い人、良い人。“カラム”の泣く後ろ姿。


 ダンス会場に向かう2人。「遅いぞソフィ」と笑う“カラム”。2人は本当に兄妹に見える。“カラム”の表情。フラッシュバックする暗闇の中では、カラムの表情はまた違ったもの。


 “ソフィ”を見送る。“カラム”はビデオを閉じる。


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