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見える人の見えない世界

本を読んで感じとったことの記憶と記録を兼ねて、好き勝手に置いていこうと、コッソリ「下書き」に書き溜めていた矢先、「読書感想文」企画を発見し、選書を試みる。

すでに下書きに書き途中ものを出せばよいけれど、せっかくなので、候補書籍から選んでみた。特に理由はなく、選んで購入。強いて言うなら、すでに積読がいっぱいだから、文庫か新書で期限までに読んで、書ききれそうな書籍という、何ともうしろ向きな理由から。

しかしながら、選書した『目の見えない人はどう世界を見ているのか』(光文社新書)は、タイトルの通り、違う世界観を見せられたような衝撃を受けるとともに、とても勉強になった書籍だった。

いかに、普段、目が見える人(晴眼者)と見えない人(視覚障害者)を主観的にしかとられえていなかったのかを痛感させられた。

本書著者による実際の視覚障害者とのさまざまな対話の中で解消されていく齟齬は、私が感じていたものと全く同じ感覚で、視覚障害者は「きっと、○○だろう」という目が見える人(晴眼者)側の主観的な想像をはるかに超えるものだった。

特に、「はぁ~~~、なるほどぉ」と思わず声が漏れてしまったのは、俯瞰視点での自己と対象物を捉えるという点でした。

普段、私たち見える人は自分視点で様々なものを見ている。ゲームでいうと、Call of Dutyや、APEXLegendsのようないわゆるFPS(first person shooter)視点の感覚で物体との距離感を測っている。
一方で、視覚障害者は、モンハン、フォートナイト、Dead by Daylight、etcのようなTPS(third person shooter)視点の感覚で物体との距離感を測っている。(もちろん、聴覚や触覚など他の感覚を利用して。)

という感じなのだろうと理解した。

どうも、ゲーム性が違うとわかりにくいかもしれない。これならどうだろうか?

僕らが、マリオの本人目線で操作しているとして、2m上のブロック(死角)から落ちてくるノコノコに気がつけないが、5m先のクリボーには先に気がつける。
目をつぶってマリオを操作している場合、逆に、近づいてくるノコノコの音の方が早く気がつけるし、クリボーの足音は少し小さいから、ノコノコよりは遠くにいるなと感じることができる。

という感じが近いかもしれない。

どちらがスゴイとかではなく、そういった世界観で生活もちろん、困っていたら手を差し伸べてあげたらいいが、「かわいそう」、「大変そう」、「すごい」といった見える側の主観によって生んでしまう当事者とのズレが生じてしまう点は、とても考えさせられた。

これ以外にも、驚く項目は、挙げればキリがないのだが、最後に一つだけ。「障害者」という言葉についても、「がい」でも「碍」も音は一緒なので、視覚障害者にとっては音声読み上げソフトで「障がい者」が「さわるがいしゃ」と読まれて初めて気がつくレベルらしいのだ。
頭をぶん殴られたような衝撃だった。

いったい、どこからが「障がい」となるのか…。眼鏡やコンタクトレンズが発明されない世界線があったとしたら、(僕を含む)超近視の人は、障がい者だったのだろうか。全盲まではいかずとも弱視にも分類され、日常生活がままならないということもありえたのだろうか…。などと思考が巡り、自身の中の物事の見える方向が一つ加わる。

見える人が、いかに視覚情報にとらわれすぎているのか…。を思い知る。
それと同時に、見える人はもう知ってしまっているーー。目をつぶろうとも、視認したことがある事象には、映像として反射的に想起してしまうーー。
そんなサガへのもどかしいような気持ちがほんの少し心をチリっとかすめた。

一方で、見えない、もしくは見たことがない人に「リンゴを説明してくだい」と言われても、正直同じものを知覚していただけるほどの説明ができるか、自信がない。
形態は触覚部分でなんとかフォローできると思うが、僕の中でイメージしてまう「赤」はどう考えても説明できる気がしない。それほどに難しく、ていねいな対話が大事なのだろう。

すでに見てしまっている僕らにとって、見えない人たちの世界を知覚することはできないが、『対話』という言葉を通じたコミュニケーションによって、その世界観を想像し理解を深めていくことはできると思う。

読み進めていても、ていねいな対話に基づいて執筆されている様子が伺え、心地よく通読できた。数ある課題図書の中から偶然手にとった、本書との出会いにただひたすらに感謝。