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『9割が女性患者の難病』にかかった『ボク』の話②

※この記事は少し長くなります。おおらかな気持ちで読み進めて頂けますと幸いです。

こちらの記事の続きになります。

気がついたときにはベッドの上だった。

目が覚めると、まず目についたのは白い壁だった。

視界が半分しか見えない。

左目が開かないのだ。

見えている右目で視線を下に向ける。

母と姉が居た。

それと同時に気づいたのが、体の異変だ。

右手が固定され、左腕と両足、左目の辺りが包帯でぐるぐる巻きにされていた。

右腕の感覚がない。

体中が痛い。

頭の理解が追いつかなかった。

そんな状況なら普通、自分の体に一体何があったのかをまず最初に考えるのだろう。

だが僕は違った。

1番最初に頭に浮かんだのが、職場への連絡だった。

(今日仕事だったよな?…え…なんで?はよ行かな皆に迷惑かかるやん)

(…でもこんな状況じゃ行けんし、はよ電話せんと)

今思えばいわゆる社畜的な思考回路をしていたと思う。

自分でも異常だったと感じる。

でも当時の自分はそれが頑張るということだと思って仕事に当たっていた。

頑張るということの意味を履き違えていたような人間だった。

もちろんこのような異常事態が発生した時に職場への連絡は必要だ。

ただこの時の僕の場合、自分の体の状態を聞くよりもまず先にそっちの方に気が向いていたのが異常だったと思う。

家族に聞くと、すでに帰った兄が連絡してくれていたらしい。

(後から看護師さんに聞けば、救急車で搬送されるときに、「職場に連絡を……」とつぶやいていたそうだ)

だからと言って、ほっとした訳でもなかった。

何も感情がわかなかった。

体中が痛い。

職場に連絡することが頭から抜けたら、それしか感じなくなった。

家族が状況を説明してくれる。

急勾配の下り坂で倒れている所を誰かが通報してくれて、深夜に救急搬送されたそうだ。

現場の状況からすると、おそらく急勾配の下り坂でスピードに乗った自転車で電柱にぶつかったことにより、このような事態になったとのことだ。

全く覚えていない。

その直前にファミリーマートで好物のいなり寿司を買ったことは鮮明に覚えているのに…明日も頑張ろうって思っていたのに…なぜその後の事を覚えていないのかがわからなかった。

考えると頭も痛くなる。

その後来てくれた医師によると、頭を強く打った衝撃で一時的な記憶障害が起きているのだろうと言われた。

自分の状況があまりにも急に一変し理解が追いつかない。

バズーカみたいに固定されている右手の状況も聞いた。

手首にある2本の太い骨が粉々に砕けているらしい。

金属のプレートを手首の中に入れており、骨が修復するのも時間がかかるし、手首の可動域も前みたいに動かせることはないだろうと言われた。

リハビリを頑張れば、ある程度は動かせるようになるだろうが、事故前と同じ様に動かせるのは一生ない…と。

固定されているのもあるだろうが、この時の状態としては手首はもちろん、指先も全く動かすことができない。

手首から先が無くなったような感覚だった。

そんな状態だったから、先生から同じとはいかないが動かせるようになると聞いても、信じることが出来なかった。希望を持てずにいた。

なにせ僕の利き手は右だからだ。

包丁を扱うのも、細かい作業をするのも右だ。

つまり商売道具である。

その右手がもう使い物にならない。

心が折れそうだった。いや…折れていた。

しばらく無気力状態が続いた。

同期がお見舞いに来てくれたが、申し訳なさと惨めな思いがいっぱいで、正直誰とも顔を合わせたくないし、連絡したくなかった。

それでも職場には連絡しなければならない訳で、その瞬間は心が削られた。

年末のこの時期、お店はノエル(Noël:フランス語でクリスマスこと)の準備で忙しくなって来ているのに、自分は戦線離脱してしまった。

申し訳無さでたまらなかった。

そんな精神状態でも治療は進み、年をまたぐ前に退院することが出来た。

23歳の冬である。

ギブスが取れ、手首はほんの数度の角度でしか曲げることができないが、指先は動かせるレベルになっていた。

先生によると、手首の状態を仕事ができるレベルにまで持っていくのは、半年ほどかかるだろうと言われた。

ちなみにだが、一応通勤中の事故ということで労災が認められたから、医療費の負担はかからなかった。

退院後、別のクリニックでリハビリをすることになった。

まだ右腕が満足に動かせず、自分ひとりでは身の回りのことも上手く出来ずにいたので、実家から通える所を選んだ。

そのクリニックも労災で通うことができたので、経済的負担は少なかった。

最初の方は本当に無気力だった。

この時期の自分は感情を失っているような精神状態だった。

笑うことも泣くこともなく、無表情で無気力だった。

リハビリには決まった時間に通っていたが、全く動かせない手首を見て希望は全く持てなかった。

ただ一度だけ泣きそうになったことはある。

それは術後経過で病院の方に診察に行く時、まだ首から右手をぶら下げているような状態だったのだが、母が連れ添ってくれ、電車に乗車するときに割り込んこんででも座席スペースを作ってくれた母の姿に、僕は涙を堪えた。

それからかもしれない。

少し頑張ろうと前向きになれたのは。

そうしていると1週間、2週間とリハビリを重ねると成果が出てきた。

右手首の可動域が徐々に増えてきたのである。

少しずつ希望が湧いてきた。

クリニックだけでなく、家でもできる限り手首を動かす。

この時特にやったのが、お風呂やお湯の中で手首を動かすことだ。

温かいお湯の中だと、血流が良くなるのか筋肉がふやけるのかわからないが、リハビリの先生におすすめされてからよくやるようになった。

段々と成果が出始め、2月の終わりの頃には職場復帰の話も出ていた。

半年かかると言われたリハビリ期間を2ヶ月と少しで終わらせることができたのだった。

職場には3月下旬くらいの復帰で決まった。

復帰する前に自分の家に戻り、生活のペースを取り戻す。

まずは自宅近くの警察署に預けられている自転車の回収にいった。

驚くほど無傷だった。

電柱に衝突したとは思えないほど無傷で、僕の体とは正反対だった。

この事が僕にこの事故に対する疑念を今も抱かせることになる。

なぜ自分はこんなに苦しい思いをしたのに、自転車は無傷なんだ?
事故現場はどういう状況だったのだ?
一体通報してくれたのは何者だったんだ?

色々な思いが交錯する。

ひとまず聞いた話にはなるが、事故の状況としてはこうだったんじゃないかと言われている。

それは、急勾配の下り坂で猛スピード下っていた自分が、電柱にぶつかる際、両腕を前にして自分をかばい、自転車を横にそらしたという可能性だ。

なにも覚えていないから、否定はできない。

その時に通報してくれた人に見つけた時の状況とお礼を伝えたいと申し出たのだが、個人情報のため教えることはできないと言われた。

…まぁ仕方がない。

あの辺りは住宅街とはいえ、深夜には人通りは少ない。

だから通報してくれたのは幸運なことだが、本当に事故だったのかという疑念は抱く。

実際のところ、あの辺りは監視カメラを多数設置しているだろうから、事故が真実で間違いはないのだろうけど…。

おそらくこれは僕が考えすぎているだけだ。

あまりに理不尽と感じるこの出来事に何か意味を持たせたい自分がいるのは自覚している。

そして自転車を回収した後、経過観察のために病院に行った。

腕の方は整形外科。

顔の裂傷は形成外科の先生に診てもらっていた。

「何か顔が赤くない?」

顔の傷の状態を見終わって診察も終わろうかという頃にそう言われた。

その形成外科の先生の気づきが、現在に至るまで僕を苦しめている病気の兆候だとは思いもしなかった。

この時のこの言葉がなければ僕は何も思わなかったかもしれない。

この難病の発見も遅れていただろう。

僕はたまたま病院に来るまでの疲れとか、寒さで赤くなっているだけだと思っていた。

「一応皮膚科の先生紹介するから、診てもらってね」

と言われた。

緊急で皮膚科の外来に向かうことになった。

予定外のことに少し辟易とするも、そう指摘されると急に自分でも赤みを気にし始めたので、皮膚科へ向かう。

皮膚科では、まず赤くなっている所を触られたと思う。

そして、綿棒だったかヘラだったかは覚えていないが、赤い部分をこすり、ポロポロと落ちてきた部分を、理科の実験とかで使っていた平皿…シャーレだったかで回収していた。

結果は後日になるらしい。

割とすぐに再来院することになった。

生検の結果、細菌やウイルスによるものではないとのこと。

何が原因かはわからないが、疑わしい病気は1つ思いつく。

ただ、この病院にはそれを専門的に診ている先生はいないから、紹介状を書くのでそっちで診てもらって欲しいと言われた。

この時疑われたのが

「膠原病」である。

初めて聞いた病名で僕はこの時「高山病」の亜種かな…などとのんきなことを考えていた。

顔が赤い以外は自覚症状がない。

そろそろ職場復帰に向けようとしているこの時に、また面倒なことが起きたなぁ…なんてどこか他人事であった。

家に戻り調べてみる。

こうげんびょう。

変換すると膠原病と出てきた。おそらくこれだろう。

検索すると難病の文字が目についた。

難病ってなんだ?

難病……原因が不明、すぐに治る病気でない、とても珍しい病気、長い療養になる原因が不明。

正直ピンとこなかった。

顔が赤いだけでなんにも無いし、大したことないだろう。先生の思い過ごしだと考えていた。

だからその時はあまり詳しく調べることはしなかった。

職場復帰が見えていた時期だが、まだ少し時間的余裕はあるので、紹介された病院に行くことにした。

それまで通っていた病院とは違い、近代的な雰囲気の大きな病院だった。

正直、尻込みした。

受付を済ませると、何やらフードコートで渡される音の鳴る機械みたいなものをもらった。

どうやらこれで呼ばれるらしい。

自分にとってはなかなか斬新だった。

そして診察が始まる。

高齢な女性医師というより、おばあちゃん先生といった雰囲気だろうか。

長くこの病気を診ている方らしい。

一通り問診や触診が終わると、いくつか病気が思い浮かんだみたいだった。

しかし、それを確定させるにはいくつか検査を受ける必要があるとのことで、何度か病院に足を運ぶことになる。

復帰前に時間の許せる限り通うことにした。

この時の検査の詳細は細かくは思い出せないが、血液検査をはじめ、胸のCTスキャンや造影剤を体に入れてCTスキャンされたりというのは覚えている。

特に顎の唾液腺に造影剤を注入するときなんかは、激しい不快感や痛みがあったのは覚えている。

もう2度としたくないと思うほどだ。

普段入ることのない所に異物が入ってくるのはこんなにも気持ち悪いのかと思い知った。

そうして様々な検査が終わり、結果が言い渡される。

それが前回の冒頭にあったことだった。

訳がわからなかった。

これから料理人として仕事に戻ろうとしているこのタイミングで、将来味覚障害になりますだなんて言われることを想像もしていなかった。

しかもこの先生の言い方も正直気に食わなかった。

自分の仕事内容を知っていて、なぜ将来味覚障害になるだなんて断定的な物言いをするのか理解に苦しんだ。

味覚障害になるかもしれないけど、ならないかもしれない。治療を頑張りましょうという風に言ってもらえればいくらか希望を持てたと思う。

だがこの先生はそういった希望的観測で話すことはしなかった。

今思うと、先生なりにこの時点で転職を勧める意図があったのかもしれない。

この病気になったことで、料理人のような肉体労働ではなく、もっと体に負担のかからない仕事を勧めて治療にあたるように仕向けようとしたのかもしれない。

ただそれこそ本当に希望的観測かもしれない。

だって先生からは病名は教わったが、細かい症状は自分で調べてくださいと丸投げするような方だったからだ。

23歳の春のことであった。

==③に続く==




こんにちは。

改めまして、KOH@メタメタ系男子と申します。(sle_koh)

この話も2回目の投稿になります。

今回は診断が確定するまでの経緯を綴りました。

次回以降は職場復帰して、だんだんと僕が壊れていきます笑

一度…いやその後も何度か壊れますが今はこのようにピンピンしてますので安心してご覧いただければと思います。

いや〜正直もう6年前になりますし、当時の精神状態もなかなかにアレだったので、あやふやになっている部分はありますが、思い出せる限りの事は書きました。

なのでちょっと筆の進みが遅いですが、なるべく更新していきたいと思います。

僕の話にどれだけの人が興味を持ってくださっているのかわからないのですが(;´∀`)

それでも続けようと思います。

どうかおおらかなお気持ちでお待ち下さい。

ここまで長文をご覧頂きましてありがとうございました。

これを読んでくれた皆様の1日が良いものでありますように。

ご覧頂きましてありがとうございます。サポートして頂きましたものは、難病の子供支援に蓄えたいと考えております。よろしくお願いいたします。