短編『不幸な結婚』
不幸な結婚が、お互いにとって不幸であったならば?
……いっそ互いに別れ、清々もできましょう。
だが、不幸な結婚がもし、その片方にとって幸せだったならば?
不幸なもう一方を慮って、己が幸せに目を瞑り別れてしまったならば?
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男は感極まり、女を抱き締めました。
「このまま貴方の手を引いて、二人だけ、どこかに消えてしまえたら……」
女は少しの思索の後、男の手をゆっくりと払い除けました。
その顔には、まるで理解できない者を見るような当惑が表れていました。
そして男は、無言の内に全てを理解しました。
もはや、女は全き華族の娘へと戻ってしまったこと。
もはや、二人で暮らしたあの幸せな日々は二度と戻っては来ないこと。
何より、自分が愛しているほどに女は自分を愛してなどいないこと。
寧ろ、初めから二人の関係に愛などなかったのかもしれません。
それはただ、男だけが夢見ていた幻であったのかもしれません。
嗚呼、幸せだったあの頃に戻りたい……。
かつて屋敷で、女が頻りに言っていたあの言葉。
男の胸中に、在りし日の言霊が湧き上がるのを、男は痛切に自覚しました。
「しっかりしなくてはいけませんよ。私にも貴方にも輝かしい未来が待っているではありませんか。お互い進むべき道は違っても、これからも無二の友として、何一つ包み隠しの無い、夫婦の情よりなお深い絆で繋がっているのです。私たちの先には必ず幸せが待っております。苦しい時も、悲しい時も、いつも私を思い出して、これからの人生を生きてください」
その言葉は、これまで受けたどのような仕打ちによりも深く、凄惨に、あたかも心の臓を釣り針で抉るかのごとく、男の胸に突き刺さりました。
「私は貴方の思い出になどなりたくはないのです」
男は二歩下がり、女に悲しく微笑みかけました。
そしてこの世の終わりのように、か細い声で告げました。
「私は貴方を思い出になどしたくはないのです。どうかお願いです、会うのはこれで最後にしましょう」
男は涙がこぼれそうになるのを必死で堪えつつ、いつもの優しい口調で女にはっきりと告げて、着物の裾を翻して立ち去りました。
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「どうして会いに来たのですか。『会いに来てはいけない』とあれほど強く念押ししたはずなのに」
「なぜ会ってはいけないのですか! 得心がいきません! 仮にも、かつて夫婦の絆を誓い合ったあった者同士ではありませんか!」
「だからではありませんか」
男の言葉に、女はハッと息を呑んだ。
「全ては過ぎたことです。終わったことなのです。貴方も仰った通りです。私は忘れたいのです。人生で最も幸せであった一時のことなど、全て忘れてしまいたいのです。それを思い出すごとに胸は痛み、貴方と寄り添っていられない今にほとほと嫌気がさします」
男は一抹の恋慕を冷たさで覆い隠し、至極平静を保って女に諭しました。
「だのに、貴方は折に触れて私と顔を合わせ、やれ誰それは素晴らしいの、どうのと仰っては同意を求めようとします。私にはこれが大変に苦痛でございます。私は全てを忘れ去ってしまおうと努力しているのに、貴方は私の心に土足で踏み込んで、無理矢理思いを掻き乱す。嗚呼、こんなになっても私はまだ、狂おしいばかりに貴方を愛しています。私にとって貴方は、思い出でも過去でもないのです。だからこそ全てを忘れ、残りの人生を足取り確かに生きねばならぬのです」
「いつまでそんなに女々しいことを言っているの!」
女は耐えかね、激情に駆られて激しく罵りました。
「夫婦であったころの貴方でさえ、それほどまでにか弱くはなくってよ! 今の貴方はまるで、子供にも犬にも劣る弱虫! そんなで次期の当主が務まりますか! 私はかつて夫婦であった者として、何より貴方の一番の知己として、誠に慙愧に堪えませんわ! 今の貴方の弱弱しい姿を見るにつけ、虫唾が走り……胃がむかむかする気分ですわ! どうにか貴方を元気づけようと、こちらが心を砕いているのに、貴方は全てその逆を行き、私の救いの手を跳ねつけようとする!」
「いい加減にしなさい!」
男の耐え難い叫びに、女は驚愕に呑まれました。
思えば、出会ってから今日までこの方、男は女に悪罵や怒鳴り声の一つすら上げたことはありませんでした。
この場この時、男は心の底から怒り心頭でありました。
「何様のお積りですか! 貴方方の心積もり、その全てが私を傷つけ、古傷を執拗に抉り、私を嘲り罵るものであるとなぜわからないのか! 私はただ全てを忘れたいだけなのだから、生半な情などかけるなと……なぜそれが理解できぬのか!」
「何を仰っているやら解りませんわ! 貴方様はいつからそれほどまでに愚かしく、また頑なになってしまったのですか! 私はただ貴方様の恩情に報いようと……」
「私が言っているのは正にそのことです!」
女の言葉を遮り、男が語気荒く女を咎めた。
「伴侶の幸せを願うのは、良き夫としての義務。それを恩情とは何事か! 私は貴方に感謝されたくて、家に帰したのではありません! 私はそれが、貴方に幸せになるのだと信じて家に帰したまで! 全て愛ある故の所業! それを恩情などと、通り一遍の生半な表現で吐き捨てられては叶わない!」
女は次第に頭の中がぐるぐるして、何の話をしているやらさっぱり解らなくなりました。
「私が愚かで、頑なだと言うならばその通り。その点、私は実に愚かで頑なな男です。だが、貴方を恋い慕う心こそが、私をそうさせるのだ、ということは言っておきたい!」
彼女は男がずっと幸せに暮らしていたとばかり考えていたのです。
そんなわけで、まるで幸せではないとばかり、予想の外のことを言われて、思わず頭が真っ白になってしまったのです。
それでも女は、もはや過去の辛い時間など忘却の彼方でした。今の暮らしに至極満足し、男の元へ戻るなど考えもつかぬことでした。
男は誰よりも優しく、慈しみ深く、誰よりも女を愛してはくれました。
ただ、そこに結び付けられた辛い記憶が全く切り離され、男という存在だけがあたかも偶像になってしまったように、愛されていたという記憶だけが、女の胸に深く残っていたのです。
それは伴侶の仲というより、どちらかと言えば兄弟姉妹や父母祖父母の仲に、寧ろ近いものと言えましょう。
「いい加減にあなたは、五歳の子供のように愚図ることを止めて、来るべき将来のことを考えねばなりませんよ!」
しかじかの事情で、女はまるで男の親兄弟のように、通り一辺倒の叱咤しかできないのでありました。
それは紛うことなく、彼女なりの男に対する愛情であったことは確かです。
ですがそれは「愛情」であって、男が心中に今の今まで燻ぶらせ続けた「愛」とは、もはや根本において異なる感情なのでした。
「将来とは何ですか」
男は唐突に激昂を止め、代わりにぞっとするほど冷たく静まり返り、今にも切れそうな弦の糸めいて頼りなく、問いました。
それは文字通り、命をかけた男の最後の抵抗でした。
しかし、女はそれを知る由もありません。
「私にはもう何も見えません」
「貴方が丁度今のように、まるで世の中に望みなどないと言った面持ちで、床に臥せっていてばかりでは……いつか衰弱して死んでしまうのではないのかと、私はそれが気懸りでなりません。私の気持ちが、貴方に解りますか! 貴方が死んでしまっては、私は言葉に尽くせぬ不幸な心持ちとなります」
女はそこで、ハッと何かを理解したような顔になりました。
「……そう、私は不幸になるのですよ! 貴方は、私が幸せになってほしい、そう言ったではありませんか!」
「その不幸とは、貴方の人生の総体の幸福と比べて、果たしていかばかりでしょうか?」
男はぞっとする微笑みを浮かべました。
皮肉ながらその言葉は正鵠を射ており、あたかも予言めいてすらいました。
「私は今時分、ようく承知いたしました。貴方の幸福とは、望ましい家に戻ることでした。ようく承知しております。貴方の幸せとは、華やかな家で華やかに暮らし、華やかなる者と恋に落ち、所帯を持つことなのです。私はようく承知いたしました。その幸せを貴方と分かち合うことが、己の分に過ぎるということ。嗚呼、それでもなお、貴方に対する際限の無い恋慕は尽きることが無いと、この際包み隠さず申し上げておきたい」
男は深くため息をついて、女の双眸をじっと見つめました。
僅かばかり、女に残った恋心に訴えるかのように。
女は静かに男を見つめ返しました。
そして、男はゆっくりと頭を振りました。もはやそれは、女に欠片も残っていないということを、今正にしっかと見届けたからでございます。
……そしてやはり、元より、そんな恋心など私に対しては抱いてくれなかったのやも知れぬ、と一抹の寂寞を抱きました。
「今や私が望むものは、貴方がただ幸せに暮らすこと、ただそれだけ。貴方は私の居ない世界で、私を抜きにして幸せに暮らしていただければそれで良い。私は貴方が忌み嫌ってやまない、己が人生に影を落とした一点の、墨の滴そのもの。別つことはかないません」
この時点で漸く、女は男が言おうとしていることを解りかけてきました。
女は、男の側に侍った下女の方を、半ば縋るような眼差しで見つめました。
「なぜそんな、この世の全てに絶望したようなことを仰るのですか。愛など、この世の仲のどこにでも落ちているではありませんか。ただ、己が目を開き、側に寄り添う者にそれを見出せば良いではありませんか」
その始まりが今目の前に立つこの男だったにせよ、この時点で、女は数限りない男たちと、幾度とない愛の言葉を交わしてきました。そしてこれから、真の愛とやらを見つけることは、恐らく叶わぬことでしょう。
この世の男の誰より、目の前の男こそが自分を最も愛してくれる人間であることなど、女には一向関わりないことであったのです。
しかし男にはそれが解っておりました。
もしくは、単なる思い込みや考え違いの類であったやも知れませんが。
男はもはや腰を挙げ、踵を返し、立ち尽くす下女の肩を軽く叩きました。
何もかもを諦め、話はもう終わったと言わんばかりで歩き出しました。
男は思い直したように歩みを止め、女を肩越しに振り返って言いました。
「今度こそお別れを言いましょう。これが今生で最後のお別れです」
下女は緊張の面持ちで立ち尽くし、ただ男と女を交互に見つめて黙っているばかりです。
「私は貴方の思い出になどなりたくはありません。貴方を思い出にもしたくありません」
男はいつか言った言葉を、そのまま女に告げました。そして、離縁してから5年ですっかり白けてしまった頭髪を、片手でそっと撫でつけました。
「いいえ、何度でも参ります! 私は貴方に受けた恩情に報いんがため……。いつの日か、必ず貴方を立ち直らせて見せます!」
嗚呼、悲しいほど食い違うかな、男女の想い。
男はほとほと疲れ果て、頭を大きく振りました。
「もはや全ては終わったことなのです。もう全ては手遅れです。私は最近、かつて住職と交わした話を思い返しておりました」
男はそこで言葉を切り、ゆっくりと深く深く溜め息をつきました。
「……私はとうの昔に、己が幸せを見失っておりました。今までは目を逸らし続けておりましたが、事ここに至りようやく思い至ったのです」
男は前に振り向き、もはや振り返りませんでした。
「大事なことなのでもう一度言っておきます。これが今生の別れです。もう二度と相見えることはないでしょう……さようなら」
男は下女の肩をもう一度叩き、彼女を伴って応接間から歩み去りました。
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庭に出た男は、着物の袖に両手を通し、古い松の木をじっと見上げました。
とっとっと、と音がして、庭木の向こうから一人の女の子が現れました。
女の子は何かの数え唄を歌いながら拍子を踏み、男と下女の目の前でぴたりと止まりました。
男は呆気に取られて、下女の方をちらりと一瞥しました。
「これ、この子は一体どこの娘さんかね」
下女はびくりと肩を震わせ、何か知ってる風ではありましたが、ただ無言で首を振って男を見つめ返しました。
「まあ良い」
男は穏やかに微笑んで肩を竦めます。
男は袖の下を探ると、飴の包みを二つばかり、女の子に差し出しました。
女の子はただじっと男の顔を見据えたまま、両手をそっと差し出して飴玉を受け取ります。
男はそっと膝を屈めると、女の子に視線を合わせて微笑みかけました。
「元気でな、お嬢チャン」
ただそう一言告げて、女の子の頭をそっと撫でました。女の子は顔にぱっと笑みを満たすと、また庭のどこぞへ探検に出かけるのでした。
女の子の笑顔はとてもとても、男にとって見覚えのあるものの筈でしたが、ハテサテそれは一体どこで見たのだろうと、男が立ち尽くして思案しても、終ぞ思い出すこと叶いませんでした。
それは顧みると、男が自分の娘と相見えた最初で最後の瞬間でありました。
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男は蔵の戸を開け放ち、蝋燭立てに火を点しました。
蔵の戸を確りと閉ざせば、暗闇の中でちろちろと、蝋燭の炎が頼りなげに、小さな灯りを揺らすのでした。
「本当に……なさるのですか」
下女が口にするのも恐ろしいと言った風情で男に問いかけました。
すると、男は身の毛もよだつ能面顔で、下女を冷たく見据えました。
下女はそれから口を開き、畏れに息を震わせながら、やがてゆっくりと言葉を次ぎました。
「わ……わたしも」
「君が心の底から所望するなら、一緒に連れて行っても構わない。しかし、ほんの少しでも後悔未練があるようなら、覚悟が出来ないのであれば、一緒には行けないよ」
下女はびくりと身体を震わせ、躊躇いがちに視線を彷徨わせました。
この瞬間、下女は思慕の情にすっかり心惑い、自分が本当に生きたいのか、死にたいのかすらも定かではありませんでした。
そして、そんなことは男にとってお見通しなのでありました。
男は慣れた手つきで、太い梁に縄を結びました。
体重をかけて引っ張り、結び目が解けぬことを確りと確かめました。
「君は余りに、あの人にそっくりだ。まるで生き写しのようでいて、その姿を見るにつけ、私は幸せであった頃のことを思い返してしまう。いや、君には端から罪はないんだ。人間は生まれてくる顔など選べやしないのだから」
「だったら、私を愛していると言ってください。あの人にそう言っていたように。せめてこの時この瞬間だけは、幸せだった頃のことを思い出して下さい。貴方が幸せだった時のように、私を抱き締めてください」
男は無言で下女を見つめました。やがて、その小さくて温かな掌を両手で包み込むと、その肩を抱き締め、優しく接吻しました。
「困ったな。僕は誰かを道連れにする気など微塵も無かったのに」
「言ってください! 愛していると! そうすれば、きっと私も貴方と!」
男は下女の唇にそっと指を立て、それから再び接吻しました。恋人と愛情を確かめ合うように、今度はゆっくりと舌を絡めながら。
それから男は、梁にもう一つの縄をかけました。下女は呆けたようなぼうっとした顔で、その様をぼんやりと眺めておりました。
「心が痛むよ」
「今更そんなこと仰らないで」
「覚悟はできてるかい」
「旦那様の御屋敷に初めて来た時から」
男はそっと下女に微笑みかけ、両頬に手を添えて見つめました。
「じゃあ、これが最後のお別れだ。付き合ってくれて、本当にありがとう」
「川の向こうで、また直ぐに会えますわ」
そうして、男と下女はこの世で最後の接吻を交わしました。
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それから。
二つの縄にぶら下がる、二つの首。
二人は息苦しさに激しくもがきました。そうして十秒ばかり経つと、下女の縄は忽ち解け、彼女は蔵の床に尻餅をつきました。
「……旦那様!」
下女が我に返って、梁の上を見上げました。
もはや男の縄は二度と解けること能わず、その首にしっかりと食い込んで、男の首から下を無惨にぶら下げておりました。
少しして、男の袴からびちゃびちゃと汚物が滴り落ち、男の顔が青褪めて、口から舌などはみ出る様を見るにつけて、下女はあっという間に現実に引き戻されるのでした。
そして男は幸せな夢を心の底に抱き締めたまま、ただ下女に看取られる中、ただ一人きりであの世に旅立ったという次第です。
【短編:不幸な結婚 お終い】
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