落合陽一氏のDJ社長への炎上商法についての反応から表現とモラルについて考える

宮迫さんとレペゼンと対称的なスタンスにみえる両者の出来事が同時に起き、色々考えさせられた。レペゼンさんの件について落合さんが興味深い反応をされてましたので、いくつか取り上げ、噛み砕いていき、考えたことをまとめていこうと思います。

まずこのツイート、

リツイート元の投稿について: 
まず落合さんのスタンスとしては表現のタブーを作ってはいけないということらしい。今回レペゼンは特定の誰かに対しにセクハラをしたわけでもないし、誰かを特定して攻撃したわけでもない。だからこそ、彼らの表現を見て傷ついたとしても、おそらく法的には問題ないのだろう(法律に僕は詳しくなく、ここは推測です)。憲法で表現の自由は認められていて、それでも人を傷つけるのはダメだから、そのダメな範囲を法律で縛ってるってのがこの国のルール。表現において、そのルール以外にこれはダメみたいな制限はあってはならないということか?

本文について:
レペゼンと宮迫さんで対称的だったのは、批判が集中するという「結果が明らかな」ことをやったかやらなかったかだろう。宮迫さんの会見での発言が事実なら、宮迫さんは自身の過ちをすぐには世間に謝ることができなかった。これは吉本が謝罪会見を開くことを止めたかららしい。彼らは守りたいものが多く、それが世間からの批判によって危うくなると考えたからだろう。
一方、レペゼンは炎上を避けるどころか、それを利用した表現を行った。一連のツイートを見ると、このギャップが生じた原因が2つ挙げられているようにみえる。1つめは、事務所に所属しているかどうかということ。事務所に所属していると、自身の不始末は他のアーティストや、事務所の方へ影響し得る。それゆえ、アーティストは自身の思い通りの活動をするわけにはいかず、彼らに迷惑のかからない範囲での活動を強いられる。テレビでは事務所に入っていないと仕事が取れない構造になっているのだろう。これに対し、Youtubeで活動しているレペゼンは事務所に所属していない。それゆえ、守るものが少ないのだ。最終的に、彼らの動画は削除していたが、それは彼らの動画に出演していたレコードに所属するアーティストに対して批判が集まったから、というようにみられる(個人的には削除に至るまでのシナリオもDJ社長は考えていたのでは?と推測してしまう)。ちなみに落合さんはこの件については下のようにツイートしている。

もう一つは、自分の表現を届けたい対象に偏りがあるかないかだろう。宮迫さんの場合、老若男女、テレビに見る人全てが自身のファンになり得る。ファンに偏りがない分、彼らに嫌われないようにってのは難しい。一方、レペゼンのファンは若い女性に多く、レペゼンの破天荒さに惹かれているのだ。セクハラが発表された時、彼女らはセクハラの被害にあった(嘘だが)人に、「大切なライブ前に発表するな」などと攻撃する者までいた。これはレペゼンのファン層が偏っていることを示しているし、そして、レペゼンとしてもこうしたファンのみを大切にしていれば良いのである。際どいことやって多くの人に嫌われても、そう言う部分が好きな人がいる限り問題ないのだ。こう言う意味で、落合さんは、「狭いコミュニティ内でやっているから」といっているのだろう。

こう言う状況を感情的にならず「俯瞰」することが大切で、作品は批判されるのは仕方ないが、そう言う表現をする人を排除する「村八分」をするのは反対だって述べているんだろう。

実は、このツイートで一点わからない点がある。ツイッターの返信で落合さんに質問したが流石に答えて頂けず、自分なり咀嚼し直しながら考え直そうとおもってnoteを書き始めた。

その部分の前に、ここで出てくる「ループ」について整理する。リツイート元では「叩く参加者自体も作家の目的に加担する構造」、つまり炎上商法のことを指されているだとおもう。そして、本文では、これに感情的に参加するのはそのループに入ることと、ループの内容を補足している。しかし、そのループ構造について、「作家が意図せずに行った」と言っている

炎上商法は感情的に批判する第三者を利用して広く広告するもので、それは作者の意図にハマっているのだろう。それが、作者の意図することではないというのは違うのではと思う。というか、リツイート元ではループに入ることが「作家の目的に加担する」と言っているのに、本文ではそれを「意図していない」と言っているように見える。

ここまで書いて、少し考えていたら、僕が「作家」の指すところを捉え間違っていたのかもしれないと思った。本文で言う作家とはレペゼンのことではなく、感情的に反応している人のことなのかもしれない。そう仮定すると、本文で意味するとこのループの意味とは、「傷ついている人がいるだろと感情的に反応する人の行動によって、その人の意図と反して、さらに事が大きくなり、傷つく人が増える」ということになるのだろうか。それなら、作家という言葉を使わないだろという気もするが、このような現象を落合さんがアートの世界でよく体験されているのだとしたら、そういう解釈もできなくもないかな。腑に落ちないけど、ここまでしか考えられなかった。

落合さんはこのループを「べき論の外のループ」と呼んでいる。外のループというからには、内のループを想定しているからと言えるわけで、それがレペゼンの炎上商法のことで、外のループとは、反応した人がさらに多くの人を傷つけるのに加担するループということだろうか?


ここまで、落合さんのツイートをまとめながら、噛み砕いてきた。最後にこの騒動での自分の感想をまとめておく。好き嫌いから話してしまうと、レペゼン地球自体には昔からかっこよさを感じてるし、よく動画も見る。今回のセクハラ騒動を知った時は、一般的に悪いとされていることをしたからといって、皆が叩いてレペゼンの活動を辞めさせたりするようなことはあって欲しくはないなと思っていた。このような事が常態化すると、ネット上でもつまらない表現ばかりになってしまいそうだから。個人的な問題は個人的に解決して、表現とは切り離して欲しいなと。でも、それは話題作りのシナリオの一部にしか過ぎなかったと知らされた。SNSによって個人の表現の拡散力が爆発的に大きくなり、今までの表現の自由と法律での制限のバランスは崩壊して、新しい状態に移行したのだろう。それを行き過ぎた状態と捉えるのか、自由を優先するのか、難しい。この問いを提示できていることで、アートとしても勝利してしまっている気がする。それが許されるかどうかが問題なのだが。とりあえずは、この問いを大切にこれからを過ごしていきたい。

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