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2024年7月26日 児童劇映画『蜂の子』を観ました

映画『蜂の子』が話題です.この映画がどんな映画か,少し書いてみたいと思います.

山田洋次,東映での幻のデビュー作

まず,大まかな情報と背景から.
1957年(昭和32年)の雑誌『視聴覚教育1)によれば,『蜂の子』は,「東映教育映画が新春におくる新作二篇」のうちの一編として広告され,「児童劇映画」に分類されています.全5巻(49分)で,宣伝文句として「大自然の中に育つ汚れない少年の真心がこころよい感動を呼んで胸に迫る」と,ありきたりなことがうたわれています.スタッフ,キャストは次のように紹介されています.
(スタッフ)
 企画 山崎季四郎,芹川一郎
 脚本 山田洋次
 監督 津田不二夫
 撮影 仲沢半次郎
 音楽 北村滋章
(キャスト)
 タケ 成田祐一
 ユリ 藤田淑子
 タケの父 藤井貢
 タケの母 日野明子
 ユリの父 堀雄二
 ユリの母 藤里まゆみ
 リヨウ 田村喜作
まず,目を引くのが,脚本の山田洋次でしょうか.特に1970-80年代にかけて,松竹という大手の映画会社で『男はつらいよ』シリーズなどの喜劇映画を手がけた監督です.
山田の一般的なフィルモグラフィに『蜂の子』は記録されていません.山田は1954年に松竹に入社しています.この映画は,児童劇映画であり商業映画ではないため,また,山田が所属する松竹ではなく東映(教育映画部)が製作しているため,山田の関係作品として公式に取り上げられることがないままきているようです.それでも,事実上の山田洋次の脚本家デビュー作,さらに(幻の?)映画デビュー作として知られてよいでしょう.2)
さて,山田洋次が児童劇映画『蜂の子』にどうして関わることができたのかという問題は一旦おいて,『視聴覚教育』の「新作紹介 教育映画スライド」としてラインナップのうちから紹介された記事を見てます.
「分類」は「娯楽」,「主なる利用対象」は「小(中高)以上一般」となっており,紹介文として「開放的で明朗な都会の女の子と素朴でねばり強い田舎の男の子の性格を描くもので,子供の性格が生活環境によつていかに著しい相異を生むかを物語る」と教育的なコメントが寄せられています.
また,『教育映画写真年鑑』3)によれば,「田舎の子は,都会の子にコンプレックスを持つことが多い.しかし人間的には田舎の子には,つきつめて考える力と強い愛情が都会の子より秀れている場合が多い.このような田舎の男の子が東京の女の子の華やかさにひかれて真心のこもつた歓待をするが,都会の子はその気持も知らず別れて行く過程がアルプスを背景に美しく描かれて行く」と内容を示し,やや「田舎の子」に同情を寄せるような紹介をしています.
こうした寸評や紹介はともかく,都会の女の子「ユリ」と田舎の男の子「タケ」が対比的に描かれているという点だけここでは確認しておき,さらに,どんな映画かに踏み込んでいきたいと思います.


1)視聴覚教育』11(2)(111),日本視聴覚教育協会,1957-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/6068028 (参照 2024-07-27)
2)山田洋次は松竹では,1958年3月公開の『月給13,000円』で野村芳太郎との共同脚本でデビューしている.
3)教育映画写真年鑑』1957年 下,コニ通信社,1957. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2484886 (参照 2024-07-27)


大自然の内実

映画『蜂の子』の冒頭では,鉄道駅が見えています.駅名の表示から,田沢駅の木造駅舎であることがわかります.この駅のホームに汽車が入り,客車から降りてきたユリと母が現れます.その前にタケは高台からこの汽車が直線的に走ってくる様子を友だちと見下ろしており,東京を10時に出てきた汽車であることを言い当てています.そしてユリとタケは出会い,物語が始まります.
田沢駅は犀川のほとり,現在の安曇野市豊科に位置しますが,実際に大半のロケーション撮影が行われたのは,田沢より15kmほど南に位置する現在の松本市内田だったようです.1)2)

児童劇映画『蜂の子』のロケ地など

『教育映画写真年鑑』が紹介した「背景」の「アルプス」は,映画の中にそれほど描かれているわけではありません.しかし,タケが自慢げに「白馬(はくば)」へと連なる山を語る場面もあり,松本平の東端の高台から糸魚川-静岡構造線に沿って北に眺める山岳景観は,この土地に住む近代人にとっても誇れるものだったのでしょう.
『蜂の子』の背景の中で圧倒的に見えたのは,ハザ掛けがされている幾枚もの田んぼです.米の生産過程において機械化が進行する以前の農村風景をハザ掛けが特徴づけています.モノクロ映画であっても,劇中で子どもが口ずさむ唱歌「もみじ3)からは,秋の彩りが滲んでくるように感じます.そうした秋の風景の中でに,ハザに干した稲藁の香りが漂ってくるようです.
扇状地の傾斜を流れ下る沢がやや不自然な音響とともに映し出される場面があります.沢の背景には屋敷の敷地を平らに整えるためきれいに積まれた石積も見えています.沢は,山と平野をつなぐ景物として現れています.釣りをする池の水面とも水を通じて関連付けられます.沢にかかる土橋を子どもたちが渡ると,人物の運動も際立てられながら,沢が印象付けられます.
東京では体験できないであろう山へとタケがユリを連れ出し,草原のような舞台へと二人はたどり着きます.草原は農地ではなく,タケはここででんぐり返しなどの運動を繰り広げます.ユリはこの草原をステージあるいはフロアに見立て,ダンスのようなターンをして,歌を口ずさんでいます.子どもたち二人の舞台となったこの草地は,入会地のようにも見えます.その後,蜂を追いさらに高所(のよう見える場所)へと入っていくタケの周囲には,刈られたの束を立てて積んだ「にゅー」(あるいは「にょー」,他の地域では「ボッチ」)4)が見えています.5)
また,別のところでは,少年少女の背丈を超える高さまで伸びた作物が見えます.これはトウモロコシにもキビにも見え,イネ科の植物と思われます.当時の農村で栽培されていた雑穀として,タカキビまたはもちきび(キビ)ではないだろうかと推測されます.
山の麓にはカラマツらしき植林地も見えています.ここから蜂追いが始まろうとしています.カラマツはまだ高さ3mほどにしか育っておらず,疎らに植樹された若々しい様子は,まだ幼さを残す少年タケと共通し,相似しながら見えているようです,
以上,概観してみたように,児童劇映画『蜂の子』の広告にうたわれた「大自然」の内実は,天然がそのままに保全された自然であるというよりは,タケたちが暮らす農村において,様々に利用され,改変されてきた二次的な自然によって満たされている環境であると言えるでしょう,

松本市内田の植林された小班(1960年代の航空写真)

1)松本・安曇野・塩尻・木曽 信州の地域紙 市民タイムス 2024/07/27閲覧
2)余談にはなりますが,東急の鉄道事業を関東近辺で展開していた五島慶太は,現在の青木村殿戸の出身です.五島は,1951年に大川博に命じ,前身となる3社の合併により東映株式会社を発足させています.五島は,上京の前に松本中学校本校(現在の松本深志高校)に2年ほど通学していました.松本平や(北)アルプスなど故郷の風景や風物に親しんだに違いなく,『蜂の子』のロケ地や主題には,信州人である五島の意向もあったのでは,と思わずにはいられません.タケは慶太(けいた)であり,タケが見た汽車やユリの語った電車は,彼が鉄道界で実現した夢のかたちそのものだったとも思えてきます.五島は,『蜂の子』の公開後,1959年に亡くなっています.
3)「もみじ」を作詞した高野辰之(1876-1947年)も長野県の出身者であり,松本平にある高等学校数校の校歌の作詞を手がけています.
4)『長野県方言辞典(特別版)』,馬瀬良雄,2013,信濃毎日新聞社,稲藁の場合として「にゅー」や「にょー」が記載されています.「ぼっち」も北信地方の方言として記録されています.
5)映画の中で牛を動力として車に積まれて運ばれていた荷は,こうした入会地の茅場から取られた茅で,藁材,茅材あるいは刈敷や飼料などに使われていたのかもしれません.


画面に現れる草木虫魚,そして鳥に囲まれた異世界

児童劇映画『蜂の子』の特徴は,さまざまな動植物が映されていることです.児童生徒を主な観客として上映された劇映画としては,生き物を扱う理科や,動物や植物を利用した農村の暮らしを学ぶ社会科などにも応用されるよう意図的に動植物が撮影された可能性もあるでしょう.
ウシが数度,登場します.汽車や松本電鉄ボンネットバスもタケたちの村には走っており,都市的で新たな輸送手段として示されています.ウシは,旧来からの田舎的な手段であり,荷役労働の一部を担う駄獣として,対比的に描かれています.
しかし,ウシがいても,ウマが登場しないのは少し不思議です.明治期の資料によれば,長野県では,一般的に馬が使役されていたと考えられています.1)戦後,農業政策の転換もあり,全国的には乳牛や肉牛を飼育する畜産業が普及し,ウシを使った耕耘や荷役が長野県にも導入された経過もあるのでしょう.2)ただ,ロケが行われた松本市内田には牛にまつわる伝説を持つ牛伏寺が所在しており,その牛の伝説に引っ張られた感も否めません.

耕馬の分布
耕牛の分布
日本における牛馬飼育頭数の推移

タケがこれ見よがしにケヤキの大木にのぼり,ユリがその姿を見上げる場面も印象的でした.物語の設定上は,ケヤキが屋敷地に立っているように見えます.こうした大木は簡単には伐採されないでしょうし,また,そうやたらに何本もの大木が林立していたとも考えられません.そうした大木をめぐる情況を踏まえると,少年がのぼらせてもらったのは,松本市が1967年に特別天然記念物として指定した「内田のケヤキ」だったのではないかとも思えてきます.この天然記念物は,付近に旧馬場家として保存されている旧家の祝殿(いわいでん)の境内に立っています.馬場家住宅も1996年に国の重要文化財に指定されています.この家に住んでいた馬場氏によれば「(食事は)皆でイロリを囲んで食べました.あまりおいしいものはなかったようです.肉でも食べたいなァと思ってもなかなか食べられない.あってもせいぜい馬肉です.肉屋に牛肉が入ると「牛肉あります」と旗が立った時代ですから.ソバはご馳走でしたネ.来客がある時は,コイやニワトリを飼っていたので,これを母が料理して出していました」3)と振り返っています.馬場氏が回顧した食生活は,おそらく戦後の時代にあたり,丁度,『蜂の子』のタケが生きた時間や空間と重なります,そして確かに「コイ」や「ニワトリ」も登場し,映画の中へ採集されていました.

内田のマップ

大きなカキノキも映画には見えていました.内田にはやはり市指定特別天然記念物の「内田のカキ」があります.アケビグミについても映画の中で案内があります.
不明なのは,タケの母親が庭先で筵を敷き,その上で4尺ほどの長さに切り揃えられた枝を叩いている場面です.「かず」や「かぞ」とも信州で呼ばれていた楮(コウゾ)でしょうか.4この枝は製紙の材料とされており,蒸した後,ほぐしやすくするために母に叩かれていたのでしょうか.タケが山へ行くときに手にしていた棒も楮の枝なのかもしれません.
昆虫類では,カマキリも籠に飼われ,同様に虫籠に捕らえられたコオロギのオスとメスが美しい鳴き声を聞かせていました.その声はスズムシのようにも聞こえました.ユリとタケが虫籠を挟んで,隠微に視線を交わし,男女の逢引を匂わせる会話のシーンも名場面と言えるでしょう.性教育とまでは言いませんが,恋愛教育のニュアンスが込められていたように感じます.スズムシは,戦前から都市部で売られていたので,風流な少年タケも月見をしながら虫の音を愛でていたのでしょうか.というよりも,無粋な少年は,専ら小遣い稼ぎのためにスズムシを捕獲し,鈴虫売りに売りつけていたのかもしれません.
視覚的に強烈なのは,串刺しにされたイナゴ類です.蜂追いのための下準備として
,タケは慣れた手つきでこの昆虫の串刺しの作業を進めています.串刺しは,巣から離れている蜂を誘き寄せ,巣へ持ち帰らせるための餌になっています.
魚類では,釣られたフナ類コイ類が見えました.魚は釣るだけでなく,調理されて食卓にのぼったと思われます.
ニワトリが鶏小屋で飼われている様子も映され,具合が悪くなったユリは,玉子を食べるよう勧められていました.ニワトリの声もところどころで聞こえています.それにしても,終盤の重要な小道具にもなっている駕籠の中の小鳥は,どのような用途があって飼われていたのでしょうか.単に子どもの愛玩用と考えるのが妥当です.しかし当時のこの地の文化的背景を穿ってみたとき,この小鳥も食用であったかもしれない,などと疑いたくなります.5鳥も飼う,鳥の子(小鳥)も食べる,蜂も飼う,蜂の子も食べるという自然と文化の織りなす環境世界にタケを送り込んでみたときに初めて,「東京」とは異なる異文化と異世界が見えてくるのではないでしょうか.


1)明治前期における耕牛・耕馬の分布と牛馬耕普及の地域性について」,中西遼太郎,1994,歴史地理学,169
2)市川健夫 著『日本の馬と牛』,東京書籍,1981.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12039872 (参照 2024-07-28)
3)日本ナショナルトラスト 編『日本ナショナルトラスト報』2月[203],日本ナショナルトラスト,1986-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2790230 (参照 2024-07-27)
4)国宝松本城を世界遺産に」サイト 2024/07/28閲覧
城下町探訪39 紙漉川と地場産業の展開」 2009/12/24
「和紙の原料は楮や三椏や雁皮という木ですが、これを葉が落ちた冬場に枝を刈り取って、一定の長さに切ったものを釜で蒸し、皮を剥ぎ干します(黒皮といった)。それを水に浸しながら黒い部分 や節を取り除きます(白皮といった)。これを水や雪に晒しさらに木灰を加えて加熱して純粋な繊維 だけにしていきます。つぎに繊維をより細くほぐすためたたくという作業をします」とあります.この説明のように,普通は蒸した楮の枝を繊維状に裂いた後で「たたくという作業」をしますが,映画では枝の状態で叩いています.演出のためなのか,また製紙とは全く関係ない植物加工に関わるものなのか,現時点では未確認です.
5)大町山岳博物館 編『北アルプス博物誌』3 (動物・自然保護),信濃路,農山漁村文化協会,1973. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9535948 (参照 2024-07-28)
「また,許せないものに密猟がある.愛玩用に一,二羽捕獲するのはご愛嬌としても,食用として大量に捕獲するのは許せない./ 以前にも書いたが,「焼鳥」が依然として市中に出まわっている.年末,年始の宴会には必ずといって良いほど膳にのっている./ 食べる方も無頓着としか思えないが,出す方はあまり良い事でないと感じているらしく,聞くと必ず「スズメです」と小さな声でいう.こんな大きなスズメは見た事がないと言っても,答えは返ってこない./ 料理店の地元の取り締まりが厳しいと,他地域から輸入される./ 羽毛つきのまま輸入して発見されたもあるためか,赤裸に羽毛をむしり取ったものが輸入される.一見したところでは検討がつかない.輸送手段も手がこんできたものであるが,需要が減らない限り,種々の方法のまだまだ考えられることだろう」とあり,これは『蜂の子』公開から約15年後の記事です.松本平の北端におけるこうした憤慨を目にすると,タケの生きた世界には,松本の飲食店で供された「焼鳥」があり,その需要のために,周囲の農村で少年たちが山で小鳥を捕獲し,小鳥買と闇取引する密猟があったのではないだろうかと想像を逞しくしてしまいます.


そして蜂の子,あるいはウジムシ

ユリにプレゼントするため,山で地蜂(クロスズメバチ1)を追い,遂には大人でもなかなか成せないような数段の地蜂の巣をゲットしたタケは,誇らしげです.しかし,蜂の巣をユリに渡そうとすると,ユリは言い放ちます.
「ウジムシ」
この言葉の威力は相当なもので,児童劇映画『蜂の子』のハイライトとなるセリフであり,この言葉が物語の性格を決定しています.2)
このセリフを機に,タケは気を落とし,勉強に精励しようというのか,肩提げカバンに教科書らしき冊をゆっくりと詰め込みます.その動作は,ユリに拒否られ,払いのけられ,床に散らばった蜂の巣の残骸を拾い集め,腰ビクに詰め直そうとする母の姿にもシンクロしています.
タケを慰めるわけでもないのですが,「うじ」は信州の方言で「幼虫」全般を指すこともあり,「蜂の子」(クロスズメバチの幼虫,蛹,羽化したばかりの成虫)が「ウジ」ではないとも言い切れないことは,申し添えたいと思います.
それでもやはり,ユリは,ハエの幼虫のようだと感じて,生理的に「蜂の子」を嫌悪,拒否したのでしょう.昭和30年代には,新下水道法が制定(1958年,昭和33年)され,都心では水洗化が進みつつありました.ユリは,戦争や戦前から続く不衛生や不潔,旧習や旧弊といった,ウジが連想させる観念連合や社会問題に襲われたのかもしれず,一概にユリを責めることもできません.
この「ウジ」の言葉の響きが素晴らしいのは,それまでの映画の所々に現れていた「ウシ」とも音が通じていることです.牛や馬と同じ屋根の下でなくても同居同然に暮らしていた生活にあって,家畜の糞に多数沸いていたであろうウジやハエのイメージがここに結ばれます.当時の村の暮らしの実際は,決して牧歌的に描かれる
ものではありません.前述したように稲藁のように乾いて香ばしい匂いばかりで描かれるものではありません.稲藁は牛糞,馬糞あるいは人間が排便した屎尿とも混合されて,田畑に堆肥として投入されていたことを思い出せば,いわゆる「田舎の香水」3)リアルにあたりに立ち込めていたことを「ウジムシ」は気づかせてくれているのです.
ウジムシの言葉によって,この映画を鑑賞していた小中学生,高校生や大人たちは,田舎に抱いてた数十分間の幻想4)から醒めることができました.そして,ユリとともに都会へ帰還し,映画『蜂の子』が終わると,映画の外へと逃れ,現実世界へとやっと戻れるような気がします,


1)前掲書『長野県方言辞典(特別版)』によれば,長野県ではクロスズメバチを「すがら」「すがり」「すがれ」と呼称する例が採録されています.また,下伊那の伝承では「蜂の巣は満月の夜にとると蜂の子が少ない」そうです.『蜂の子』でも蜂追いの前にお月見のシーンがあったことが想起されます.『日本書紀』に見える少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)の名も「蜂の子」の方言と関連するものとして重要です.『万葉集』三七九一の中の「飛び翔るすがるのごとき腰細に」にみえる「すがる」はジガバチとされます.『古今和歌集』の巻第八離別歌「すがるなく 秋の萩原 朝たちて 旅行く人を いつとか待たむ」の「すがる」の方は鹿と注釈されています.
澤村美幸「方言の形成と意味変化 : 「スガリ」を例として」, 東北文化研究室紀要, 50, p. 68-53, 2009-03-30,にも「すがる」に関して,興味深い記述があります,
2)少子部蜾蠃について『日本書紀』雄略天皇六年三月の記事は見逃すことができません.少子部蜾蠃は雄略天皇に命じられて三輪山に登り,大蛇を捕らえ,天皇にプレゼントしたところ,天皇は,怖がって目を覆い、殿中へ逃げ込んだ(「天皇畏、蔽目不見、却入殿中」)とされています.大蛇と蜂の違いはありますが,献上(贈与)と拒否というモチーフは『蜂の子』に通じる神話的プロットとも解釈され,少子部蜾蠃はわたしたちのタケを彷彿とさせます.
3)東京市国語教育研究会 編『東京市児童標準文集 : 高等科用』,教文社 ,1937.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1169304 (参照 2024-07-28)「一本道を向ふから肥桶を引張つた牛が来る.都では田舎の香水などと呼んで鼻をつまんで通つたが,田舎でそんなことをすると笑はれるから我慢して通つた」とあります.この文集が発行されるよりも前,都会の子どもたちには1910年代から,つまりユリの両親よりもさらに上の世代から,「田舎の香水」は,田舎の生活を揶揄する言葉として既に使用されていたようです.
4)大室幹雄 著『劇場都市 : 古代中国の世界像』,三省堂,1981.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12206127 (参照 2024-07-28)の終章「アルカディア複合とユートウピア複合」の構図に従えば,ユリと東京はユートウピア複合に対応し,タケと田舎(松本の東山山麓地帯)はアルカディア複合に対応していると考えることができるでしょう.


タケの視線

物語の導入に示された,汽車を俯瞰するロングショット,俯瞰するタケらの切り返しショット,駅構内の汽車の到着と降り立つ乗客に絡むショット,バスの走行をとらえたロングショットといった一連のシークエンスを巻き戻すかのようにして,終盤は,淡々と,そして残酷に進行していきます.
異様なシーンは,高台で汽車を見送るタケをとらえたショットです.彼の感情の揺らぎに迫り,その心裡に食い入るかのように,数歩分だけタケに近づくドリーショットに続いて,彼の顔のクロースアップが長めに示されます.その表情は恨めしいやら,悲しいやら,怒っているやら,諦めているやら,何とも言えないものに見え,説明やセリフもないため,不気味にすら印象されます.
物語全体は,彼の視線,彼の見たものを軸に組み立てられ,彼自身をとらえたショットに映る彼の運動や彼の視線が,視線の対象を統御しています.撮影上,編集上の技術である,いわゆる「視線つなぎ」がセリフのない芝居にニュアンスを与えています.例えば,親戚(いとこ)とはいえ東京からやってきた女の子ユリと親密にしているタケは友人から好奇の目にさらされます.ユリとタケが二人で歩いていると,すれ違った友人(リョウ?)の俯きがちな方向を持つ視線がゆっくりと,いやらしく二人を追っています.この視線は,ユリがタケの家にやってきたときにタケがユリに送った視線と相似を示していることに気づきます.
16mmのキャメラは機動性もあり,ドリーを装置するまでのことはないにせよ,小編成のスタッフにより視線の切り返しなどを手軽に行える利点もあるのでしょう.ただ,視線つなぎの編集はややぎこちないようにも見えます.そのぎこちなさによって,物語の虚構性を壊す破綻にまではいたらずとも,リアリズムやドキュメンタリーの味付けを,図らずも,感じさせるものとなっているようです.
予算的な問題もあるのでしょう,登場人物もそれほど多くありません.タケのお相手はユリに傾きがちで,時には父母とのやりとりはありますが,それ以外の時間は,タケはほとんど孤独と言えるぐらいに一人ぼっちです.蜂を追い,巣を掘り出すシークエンスにいたっては,サイレントと見紛うぐらいに寡黙で,タケの孤独が浮き彫りになります.そして,彼は地中から数段の蜂の巣を掘り出すと,なんと素手で,巣についた蜂を払います,そのショットはしつこいぐらいに長く繰り返され,「大丈夫かな」と観客に心配させてしまうほどです.軍手がない時代と言ってしまえばそれまででしょう.映画の虚構の中で,タケの視線と巣のクロースアップを切り返すことで,実際はタケ(を演じる子役)が手で払っているわけではないのだろうと感じさせてしまうぐらいの長さがあります.この巣を掘り出す前,蜂が出入りするための地中に黒々と空いた穴は,吸い込まれそうな感覚を持っています.タケのユリへの思いが性的に消化されていくような感触すら覚えます.タケの視線に反応しない穴が示す闇,タケの眼球へと光を反射しない闇は,どこからやってきたのでしょうか.
ぎこちなく,異物感があるのは,タケの住む屋敷の庭に備わった井戸です.その井戸の底をのぞき込むユリに対し,タケは三度にわたり危険を警告します.ユリはバランスを崩せば井戸に墜落しそうな格好で井戸の縁にいます.警告と無視,このやりとりも長くしつこくも感じましたが,最後まで物語を見ると合点もいきます.井戸の底からやってきた不吉と凶兆によって,ユリは山で太ももあたりを蜂に刺されてしまったのであり,ユリに「ウジムシ」のセリフを吐かせたのであり,ユリの分身とも言えるお人形さんを遺棄してしまったのであり,最後になってタケに複雑な表情を与えてしまったのであると言えそうです.

(参考)馬場家住宅の井戸の位置(「井」の印が見えている)

思えば,父母息子の家族三人で住むには,この屋敷は大きすぎるように思えます.既にこんな片田舎の屋敷でも核家族が先取りされていたのでしょうか.屋敷の屋外空間の余白を埋めるように動物たちは飼われ,庭木が植えられ,巨木が残されていたようにも感じます.また,がらんどうとなった屋敷の中を埋めるように人形は床に投げ出され,蜂の巣は撥ね付けられたとさえ思えます.母が一心不乱に枝を庭で叩いていたのは,まじないのような意味があったのではないかと疑われます.
いずれしても,庭の井戸は,山で蜂の巣へと通じる穴となって再現されました.その闇から蜂の巣を取り出す行為は,野生を犯すような背徳の味をもちながら,死を地上へと引き出す禁忌にも違犯していたのではないでしょうか.

映画はこれで終わりました.タケが心配です.彼は必ずや故郷を離れるでしょう.もう故郷には帰らないかもしれません.もし私がタケの人生の続きを描くすれば,戦後すぐに生まれた彼は,同年代の連合赤軍に合流し,20歳代半ばにして内ゲバやリンチによって,死ぬか殺すかの境地を超えつつ,長野県内への逃避行に及んでいたことにするでしょう.もちろん彼は知性的で,蹉跌もあり,孤独でもある田舎者ですから,もしかすると,その闘争においてセクトを超えて共闘することとなったユリと再会し,1970年ごろ,ユリに「ウジムシ」のように殺されてしまったかもしれません.あくまで想像です.


蛇足その一 教育映画のこと

(未定稿)
文部省選定から漏れている


「初期東映動画における教育映画の位置 ─ 主に国際化路線との関わりから」渡邉大輔, 2014, 演劇研究 : 演劇博物館紀要, 37,


蛇足その二 日本映画監督新人協会の運動

(未定稿)

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