見出し画像

仁科の御霊 にしなのごりょう

ローカルヒーロー仁科”五郎”信盛の江戸デビュー

1582年(天正10年),仁科五郎信盛高遠城で死んだものとされています.しかし,彼はその後も創作上では何度もそれぞれの舞台に現れては消えていきます.

例えば,1802年(享和2年),ある狂言(歌舞伎狂言)の舞台では7代目市川團十郎によって「仁科五郎信盛」が演じられていたらしくその番付にその名が見えています.團十郎は,数えで11歳ぐらいで,子役によって演じられた五郎は,その歌舞伎狂言の舞台でどのような役回りだったのでしょうか.

『三芝居狂言番附』より

真面目な方の史書である『甲陽軍鑑』『信長公記』は,五郎の死から半世紀経った17世紀の前半には成立していたとされます.しかし,武田信玄織田信長といったそれぞれの史書の主人公であり,戦国ヒーローでもある人物に比べれば,五郎は脇役の脇役ぐらいの小さな扱いです.その五郎が,子役の端役とはいえ,江戸の舞台に登場するまでにいたった過程はどのようなものだったのでしょうか.

やや不真面目な読本である『絵本太閤記』には,「高遠城陥仁科五郎信盛討死(たかとをのしろおちいりてにしなごろうのぶもりうちじに)」と題された段があります.ここでは五郎の生涯のハイライトでもある例の「腹十文字に掻切て」の描写があります.また,五郎は自刃の直前,「其妻子をさし殺」すことも忘れておらず,抜かりはありません.ただ,この本のこの段では五郎がタイトルになっているものの,諏訪勝右衛門の妻や攻め手の織田信忠などが挿絵で場面を盛り上げており,五郎の図像が現れることはありません.『絵本太閤記』は1802年(享和2年)には成立していたようで,先述の歌舞伎狂言と同時期の本であり,この頃には五郎の江戸デビューが果たされていたことが裏付けられます.

『絵本太閤記』より「諏訪勝右衛門が妾(?)戦死の図」

『常山紀談』は,1739年(元文4年)から1770年(明和7年)にかけて湯浅常山によって著された戦国武将のエピソード集で,巻四のうちの最後の逸話として「高天城落城仁科信盛戦死の事」が紹介されています.目次では五郎が戦死した高遠城を高天神城に誤っているようです.この逸話の中で五郎は腹を十文字に切ることはしていませんが,「床の上にあがり腹切て膓(はらわた)をつかんでから紙に擲ち倒れ死」んでいます.その後,血の惨状が常山の嗜好に合ったようで,splatter(スプラッター)な血染めの描写が続きます.
なお,湯浅常山は,高遠にほど近い信州飯田出身の学者,太宰春台の弟子とされる人物で,あるいは春台からの入れ知恵によって,この五郎の伝奇を完成させたのかもしれません.

さらに遡れば,三河の御油(現在の愛知県豊川市)の人,林花翁は1707年(宝永4年)に地誌『三河雀』をまとめています.その巻三第十九に「戀慕の化(あだ)一盃の事」として「信州高遠のほとりに」庵を構えて住まいをしている僧が沢の岸で2羽の雄(!)の鴛(オシドリ)の番を見かけ,思案をしています.するとその鴛は「うつくしき男子」となって,「仁科五郎也」と名乗ります.そしてもう1羽あるいは「壹人」は,五郎の忠臣である小山田備中守であると紹介をします.この奇談については,南方熊楠が「また男色の思いざしのもっとも名高きは,高遠落城の日のことで.花翁の戯作にこれをうまく綴りある。」として,1932年(昭和7年)に男色研究で知られる岩田準一宛の書簡の中で紹介しています.そして『三河雀』のオシドリ五郎をいじりながら,男色や思いざしを論じています.
また,『信長公記』に信忠の高遠城の攻略ルートとして見える地名「貝沼」には,「真菰が池のおしどり」という伝説が伝えられています.僧侶と落武者,雄の二羽と雄雌の番など,設定に異同はあるものの,「信州高遠のほとり」や五郎との因縁など,どこか通じるものがあり,どちらかの話は誤伝,あるいはバージョンの関係にある可能性があります.

高遠藩の星野葛山は,『高遠記集成』を1800年(寛政12年)までにまとめたとされます.巻下の「高遠落城附仁科信盛生害」に五郎の死に様が詳しく描かれています.星野の動機は,ブレイク寸前で江戸デビューを果たそうとする五郎について,地元の高遠藩でもこれまでの史書に考証を加え,しっかりと「正史」を残そうという真面目なものであったと思われます.そのためか,勇壮な五郎像に偏りすぎており,先行した『甲亂記』や『晴清忠義傳』の愉しく伝奇的な記載が割愛されています.
甲亂記』は,17世紀半ばには成立していたとされ,『信長公記』などよりはやや後発の軍記物語です.ここでは五郎の自害の直前に,小山田備中守が五郎に「信盛に心を掛參せ朝夕戀し床し」などと告白しながら盃を交わし,面白く興味をそそる酒の「肴」はないかと五郎が小山田備中守に尋ねました.それに応えて,小山田備中守は脇差で切腹芸を見せ,「あら珍し」とした五郎もその脇差で十文字切腹をやって見せ,さらに小山田備中守の弟の大学助もこの切腹リレーの流れで兄や主君とともに自害を果たしています.
『晴清忠義傳』ではその小山田大学助がまず「腹十文字に搔破」ることによって,切腹グループの口火を切っており,その後,晴清(五郎),小山田備中,小幡因幡らが大学助に続き,切腹を執り行っています.大学は切腹し,晴清の前で伏せて絶命します.ここに「大學か擧動始終不審多し如何樣晴清と男色の因有哉と申ける」というコメントが入り,大学には挙動不審なところがあり,それはどうも五郎と男色の関係にあったと疑われています.

以上見てきたように,五郎は,その死後,約230年を経た19世紀初頭,ささやかな江戸デビューを果たしました.デビュー前の五郎は,真面目な歴史によって薄められ,時には抹消すらされた,伝奇的なイメージや男色の気配をまとっていたようです.また『信長公記』や『絵本太閤記』では,女性の諏訪勝右衛門の妻の働きが五郎以上に目立っていたとも言えるでしょう.

切腹芸としての十文字切りの意義

ところで,もちろん,五郎の死に様として流布された割腹の際の十文字切りや内臓つかみは,オリジナルの切腹芸ではありませんでした.

十文字切りについて,例えば,1595(文禄4年)の豊臣秀吉による秀次の粛清を扱った『聚楽物語』では,切腹の十文字切りがさながら出血セールのように乱発されています.山本主殿は「腹十文字にかきやぶり。五臓をくり出しけるを。御手にかけてうち給ふ。」と描かれます.五臓を繰り出したのは手ずからであったのかはわかりませんが,とにかく腹を十文字に掻き破ったようです.また,ともに秀次に連座した熊谷大膳木村常陸介も十文字切りを果たしたことが記されています.

五郎も巻十五で登場する『信長公記』の巻十三では,主君の別所小三郎の切腹を介錯した後で,三宅肥前入道は,自らも「三宅肥前入道の働を見よや」と言って「腹十文字に切て臟をくり出し死」んでいます.

『信長公記』を潤色あるいは扮飾した小瀬甫庵の『信長記』も1622年(元和8年)には成立していたようです.この『信長記』は,1582年(天正10年)に五郎の兄の武田勝頼が「甲州田子ノ里コカツコト云山中」まで逃れ,その子の太郎(信勝)と父子ともども「腹十文字ニ掻切テ伏」したとしています.『信長記』では五郎の死については詳細の記事はありません.高遠で生まれた太郎については,その自害の前段に「十六歳容顔美麗世ニ勝レ膚ハ雪ノ如ク」と特記してされています.
勝頼の従兄弟にあたる武田「左馬の頭」典厩は,勝頼らと別れ小諸城に逃れ,この城で自害を遂げています.この典厩を介錯した朝比奈孫四郎もやはり「腹十文字ニ掻切節義正」しくしたそうです.

このように切腹のスタイルとして,十文字切りは節義があって,正しいものであるという認識が17世紀以降に戦国時代を振り返る識者たちに広がっていたようです.あるいは切腹した者の正義を証明し,また,その死は世の中の不義と不正を正す上で意義があったと戦記を記した歴史家たちが価値づけをしていたものと思われます.さらには,世間への抗議の意志を込めながら十文字切りで切腹した者を追善することで,自害につきまとった怨念が後世に害を及ばさないよう鎮める効果もあったように思われます.

14世紀の南北朝の争いを扱った『太平記』の巻七「吉野城軍事」では,信濃にルーツのある村上義光が「恨を泉下に報ぜん為に」と名乗り,「腹をきらんずる時の手本」として「左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切て、腸掴で櫓の板になげつけ,太刀を口にくわへて、うつ伏に成てぞ臥たりける」というデモンストレーションにより示威の行動を働いています.十文字ではありませんが,このあたりに中世的な切腹芸の源流がありそうです.義光の切腹にも護良親王への忠義と逆臣への「恨」が込められています.

なお,能の「錦戸」は,1440年頃に成立していたとされ,シテの泉三郎は,後場で腹を十文字にかき切り,台から飛び下りる所作により義に報じて,幕を閉じています.

参考:

三芝居狂言番附』[11],刊. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2574939 (参照 2023-01-21)

岡田玉山 著・画『絵本太閤記』3編 巻4,大野市兵衛等,明12.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/877983 (参照 2023-01-21)

湯浅元禎 著 ほか『常山紀談』巻之3−6,内外兵事新聞局,明12.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778094 (参照 2023-01-21)

国書刊行会 編『近世文芸叢書』第2,国書刊行会,明治43. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993455 (参照 2023-01-21)

長野県上伊那郡教育会 編『蕗原拾葉』第11輯,鮎沢印刷所,昭10至昭15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1116537 (参照 2023-01-21)

長野県上伊那郡教育会 編『蕗原拾葉』第2輯,鮎沢印刷所,昭10至昭15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1116474 (参照 2023-01-21)

『聚楽物語 3巻』,杉田勘兵衛,寛永17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606580 (参照 2023-01-22)

太田牛一 著『信長公記』巻之下,甫喜山景雄,明14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/781194 (参照 2023-01-22)

太田牛一 輯録 ほか『信長記』巻15,元和8 [1622]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2544605 (参照 2023-01-22)

次回予告

「五郎と山について」,「高遠と歌舞伎について」をテーマに,仁科の御霊の話を続けたいと思います.執筆や掲載の時期は未定です.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?