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全てが「ひとつの命」だと思った日。

うまく書けるかどうか分からないけれど
今日は2週間にいちどの伝統的オステオパシーの治療院にいく日だった。

横になって静かに腰と首辺りに治療家の手が入ると秒殺で深い世界に堕ちていく。
最初の頃はそういう感じは途中とか終わり辺りだったと思うが、最近はあっという間に世界が変わる。
どんな感じか、
例えて言うなら、
それは、
マニュアル車のエンジンが温まっていて、ギアのシフトがどんどん変わっていくとエンジン音もスピードも変わる。幾層のカーテンを潜って深海に潜っていく感じ。かな。
少しだけ怖く感じる時もある。
そういう時は抵抗しないようにする。
そのうち意識はあるけど時の無い状態というか、
フローな領域というか、
半意識?的な感じで何も考えていないけど感じている、
ような感じになっていく。

これは何なのか?
未だにさっぱり分からないんだが、「人の手」というものが凄い、というのは、体験から知っているので、そこへの信頼は揺るがないから安心している。

今日はその治療の中で不思議な気付き?、というか、
体験?というか、感じたことがあった。

横になって治療を受けているのは、私なんだけど、
その私は、この世界で生きている私なんだけど、
私が私であるものって、
私が私である事って
何なのだろう、
と、
ふと思った。

私には名前がある。
生きてきた歴史もある。
住所、氏名、年齢、性別、職業、
他にも、
家族の中の役割としての私や、
友だちとの関係性の中での、存在としての私、
社会的な私、個性的な私、
あの人はこういう人だよね、あーゆう人だから、と、言われる、他者からの視点の私、
様々な私が、この世で機能していて、
その私を、
私自身が「私」として認識している部分もある。
また、だれも知らない私だけの世界もある。
私自身すら知らない私も居るはずで、
そうそう、「ジョハリの窓」みたいな。

Wikiより


🤔。。
私がどういう人であるか?
は、
他者が居ないと定義されない?
とか、
そうすると、
他者という関係性の鏡を通して、私は存在しているんじゃないか?
とか、

あれ?本当の私ってなんなのかな?
とか、
なーんとなく、ぼーっと思っていたら、
なんだか知らんけど、急にわかった。(あくまでも私の中での感覚というか理解として)

ここに身体があって、
それは私なんだけど、
その私は、ひとつの「命」なんだ。

これは当然の事なんだが、
普段考えない事で、

私が私を超えた「ひとつの命」であるならば、
私以外の人たち、この地球に生きている人たち、人間以外の動植物諸々、皆んな、「ひとつの命」を生きてる。

その「命」は同質のものであり、どれが優れているとか、劣っているとか、一切無くて、
全てが「ひとつの命」を生きている。

たまたまそのひとつの命が
「私」という人生を生きているんだ。

てことは、
全部の命が同質としたならば、その中の、一粒である私は、
全ての中のひとつであり、全体なのではないか。

たぶん、これは仏教的というか、哲学的というか、その辺の本はあまり読んでないから詳しく分からんケド、それと近いんかもしれん(これは後で思ったこと)。

その時は、ただ、それを、バーンとやって来るのを受け取るように、感じた。

(あ、それを感じる前に、何かが開いていく感覚もあった。
頭からスタートして、おそらくチャクラ(オステにはチャクラという言葉は無いのかもしれないが)←未確認。)
確かに開いていって、心臓を守っている胸骨の上で、何かがグニグニって動いた。(誰もふれてない)。

   (´-`).。oO?

その後、
ゆっくり自宅に戻り、お昼も食べずに2時間眠った。

🤔。。

今までの人生体験の中で、ここまで「全体」として感じる感覚は初めてだったからこれから先、自分はどんな風に展開していくのかなあ。

以前、
私は、私に戻りたい、とずっと思っていた。
その「私」の大元というか、
「全ての源」は私だけのものでは無いのだね。
と、全くよく分からんけどそう感じたのだった。

🤔。。?

全くうまく表現出来ない世界だけど、私が体験しているものは、当然、理論も哲学もあり、技術である、というところが、これまたびっくり凄すぎて、

だが、
今は、探求より
分からないまま居てみよう。
と、思う。

うーん。
人生はマジ面白い。

こうやって、線路はまだ続いていくのであった。
ポッポー🚂

バターカップ


おやすみまたあした。


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