「料理」とは何の行為なのか。

1年程前から、マイマイ計画 野島智司さんと企画してやっている「哲学脱線ゼミ」では、「生き物の世界から○○について考える」をテーマに、毎回様々なテーマをもとに考察を共有する会を行っている。

先日のテーマは「食」であった。

野島さんの話す生物にとっての「食」の情報は面白く、生物の食行動の多様性を知った。
一方で心理精神医学をやっている私は、敬愛する神田橋條治先生の著書「治療のための精神分析ノート」より、一部コピーをして会に持ち込んだ。食ないし「料理」について少し触れた頁があったのだ。そこにはこのように書いてあった。

「いのちの本分は自在性の希求である」
「食は料理、性は多様性という形で自在性を得た」
困難に書いてあるようだが私の解釈は以下である。

いのち(生き物)は本来、自分がどこまで自由自在に過ごすことができるかを求めている。そのために生き物は新しいチャレンジを続けて、新たに学習し直すことをやめない。それは後世まで続いて「進化」「退化」となるのだろう。その中で本能的行動である「食と性」に関しては共通するものがある、どちらも人間独自の形で多様性を得て、自在性を希求するいのちのニーズに応えている。食は料理に、性は多様性な行動様式に変化していき続けるのだ。

私が「哲学脱線ゼミ」を「やりましょう」と持ちかけ、毎回期待しているものは、「人間と他生物の共通点と相違点」をいくつ見つけるかによって、より深く人間を考察したいというものだ。
今回のテーマであれば最たる課題が「料理」であった。人間はなぜここまで料理を行い、時として「目で楽しむ」など食という本能行動からやや離れた行為まで行うのが人間である。この疑問を周りの言葉を混ぜ合わせる中から、とても魅力的な仮説が立てられた。それは「料理は愛そのものなのだ」というものである。

鳥類などは我が子に餌を与えるとき、一度咀嚼した食べ物を再び口腔内に戻し子どもに与える。我が子が消化吸収しやすい形にして与えるのだ。母乳も同じである、母体の体液をそのまま与えるのではなく、幼体が消化吸収しやすい形に再形成してから子に与える。料理にも様々あるが、親が子どもに料理を作るとき、人が大事な家族友人に料理を振る舞うとき、そこには「母乳を生成する母体」と共通するシステムがあるように思う。そのシステム、過程こそが、愛であると感じ、その動機もまた人間にとっては思いやり・愛なのだろうと思う。
もちろん料理という行為を純に追求する人間もいて、一概に料理が全て「愛の行為」とは言えない。日々、料理以外の生活にも追われながら、それでも家族友人のために料理を振る舞う人には皆、愛がある。しかしそれに常に気付いているわけでも、考えているわけでもない。

私自身、経済的などの理由から仕方なく自炊をして人に振る舞うときは、余裕のない状態でただ疲れるようなときもあるが……体が自己犠牲を孕みながら母乳を生成して子に与えるシステムを心の奥に置いておくと、なんだか少し豊かな気持ちになれる今日この頃であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?