見出し画像

願いが叶うならやり直したい!家族揃ってご飯を食べたいし笑いたい!#1

*ページを開いていただいて感謝します。
ここでは父親の暴力と死について書いています。
不快感や恐怖心を抱く可能性があります。その時はすぐに読むのを止めてください。

私の父親はとても賢くて強くて、優しい人でした・・・。
私は小さい頃、父親があぐらをかくとそこに入り込み甘えるのが大好きな甘えん坊の末っ子でした。

家族崩壊の始まり

私が小学生の頃から夫婦喧嘩が激しくなりました。家の中で毎日のように怒鳴り声が響くようになり母親への暴力が始まりました・・・。
母親はアルコールが手放せなくなり、殴られながらもお酒を求めていました・・・。

小さかった私はただ泣くだけの毎日。夫婦喧嘩の理由なんてわかりませんでした。
『怖い、何で、早く終わりにして』私の心が壊れていきました。

私は両親の顔色を伺う毎日。『2人を不機嫌にさせたくない、お願いこのまま何も起こらないで・・・』

そんなことばかりを願う私は、笑うことすら無くなりました。

姉が夫婦喧嘩を止めに行けば逆に父親に叩かれる。

兄は部屋にこもり息を潜めて、湧き上がる怒りを抑えていたのだと思います。逆らうことができなかったのです。
兄が以前父親に怒鳴られてビンタされて、血まみれになっていた光景を私は今も忘れられません。

家族は家族で無くなった

私が中学生の頃に家族がバラバラになり始めました。姉は早くに結婚して家を出ました。

兄は父親の言いつけに従い、行きたくもない大学へ進学して大学の寮生活。

私は中学まで家に息を潜め喜怒哀楽を失ったような生活が続きました。

私はその頃何もやりたいことが見つからず、学力が低かったため父親の言うがままの田舎の高校へ進学しました。

私は高校入学当初、父親の親戚の家に下宿させられました。でも、私は馴染めず父親に相談してアパートを借りて欲しいとお願いをしました。
そして小さなアパートで一人暮らしが始まりました。

父親は母親と別居となり私のアパート近くには住んでいましたが、女性のところでした。
父親に女性・・・それが一体どのようなことなのか、その時の私には理解できていませんでした。

もうどうでもいい・・・。早く卒業したい・・・。ただそれだけ。

でもこの時の救いは高校の仲間には恵まれていたと言うことです。私の環境を理解してくれた仲間が支えでした。本当にありがとう。

そんな高校3年間はあっという間に過ぎ去りました。でも、将来何をしたいのかどんな道があるのかもわからない中、私は父親の勧めてきた看護学校へ進学となりました。

父親が私に勧めた看護師

父親は手職を持つことが重要だと言うのです。何があっても生きていけるようにと強く教えられました。

もちろん、看護師になりたかった訳ではありませんでした。看護学校では朝からビッチリ入る授業が苦痛でしかありませんでした。もちろん私は落ちこぼれでした。周りは輝くような綺麗な賢い人ばかりでした。強い劣等感を味わいました。

ただ、ここでも救いがありました。サークル活動です。一緒にサークルを作って楽しいことをしようという仲間が集まってきたのです。

そしてもう一つは人生で初めてのバイトです。飲食店でホールのバイトをしました。ここでの人間関係にも恵まれていました。常連さんも良い方ばかりで楽しくバイトができました。

私は3年生の看護実習が始まるまでアルバイトとサークル活動を続けました。この時間は本当に救われました。

看護師国家試験にも何とか合格して、附属の大学病院で働き始めました。看護学校の先生方も私が国家試験に合格できるなんて思ってなかったでしょうね。

父親が私に与えたもの

私は大人になったにも関わらず、父親には怒られないように『余計なことは言わない、無駄なことは言わない』とひたすらご機嫌取りをしていました。

父親の機嫌を損ねると、この時点で怒られて私の心が萎縮してしまうのです。

だから私は人の目が気になり、人を怒らせないように言葉を選び窮屈な生活をしていました。私はよく看護師の先輩から「暗いよね」「何考えているか分からないよね」そう言われていました。

私が暗い?なんでそんなこと言われなきゃいけないの・・・。
それはそうですよね。1番身近な家族から、言いたいことも言わずに感情を押し殺して生きることを学んできたのですから

この頃、家族の連絡のやり取りはほとんどありませんでした。

*この続きは『願いが叶うならやり直したい!家族揃ってご飯を食べたいし笑いたい!#2』でお話ししていきますね。

ここまで読んでいただき感謝いたします。


みなさんのお役に立てるよう、人間力向上のため使わせていただきます!