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被災者と笑い — 鷲崎健さんの被災体験より

このようなツイートを見かけました。

2018年6月18日は、大阪北部で震度6弱の地震があった日。(リンク先は朝日新聞)

思い出したのが、ラジオパーソナリティでありミュージシャンでもある鷲崎健のトークでした。

阪神淡路大震災では、関西人独特の「笑い」という文化が、被災者の心の支えとなったことが少なからずあります。(ただし、関西人だからといって全員「笑いたい」訳ではない、ということもつけ加えます)

動画: 2h Fri 150213 ゲスト出演部分 - ニコニコ動画
(文化放送超A&G+でやっていた「鷲崎健の2h」という番組(2015年2月13日)の転載ですが、他にソースがないのでこれでご容赦ください)

私と震災

前置きには長すぎるのですが、ナイーブに語ってしまうのはよくないので、まずは簡単に私の被災経験を述べます。

私自身は、特に命を脅かされるほどの被災経験はありません。今回の地震も揺れを感じただけでした。

ただし「兵庫県で育ち、友人に被害の大きい被災者がいる」「個人的にも被災したけど、阪神淡路大震災は被害というには微妙」「むしろ東日本大震災の方が色々あった」という複雑な体験をしています。

・1995年1月17日、阪神淡路大震災。実家(兵庫県)にて。当時、小学1年生。テレビ(当時はブラウン管)が飛び出し倒れるものの、命も家も無事だった。
・その後、神戸・長田出身の友人ができる。阪神淡路大震災で相当な被害を受けたらしい。震災をテーマにした劇では気分が悪くなって途中で出ていったことも。
・2011年3月11日、東日本大震災。東京で就活中、初めての内定をもらった1時間後(後に辞退)。銀座線の中で被災。赤坂見附から新宿まで歩いたが、予約していた高速バスは運休。Twitterを頼りに先輩の家へ辿り着き、その日は無事に寝られた。Twitterでは事実とデマが錯綜していた。

KOBEフラワーテントについて

本題に戻ります。そもそも、上記の動画は「KOBEフラワーテント2015」という神戸・東遊園地で開催されたイベントの生中継です。

 神戸の東遊園地公園(神戸市中央区加納町6)で2月11日~15日の5日間、被災者による被災者のためのステージ「KOBEフラワーテント2015」が20年ぶりに開催されている。
 20年前の1995年2月17日から1カ月間、同園内にテントを張り、震災にも負けない思いで被災者が被災者のために元気や勇気を届けたステージイベントにルーツを持つ同イベント。阪神・淡路大震災から20年という節目に、当時のメンバーが中心となり再び開催することになった。
 期間中、20年前にも駆け付けたミュージシャンを中心に毎日ライブを繰り広げる。

神戸で20年ぶりに「フラワーテント」-「被災者による被災者のためのステージ」再び - 神戸経済新聞

動画中のトークセッションでは、
・鷲崎健(ラジオパーソナリティー)
・鷲崎淳一郎(鷲崎健の兄)
・伊藤竹彦(フラワーテント2015の実行委員長)
という3人が、「身内の立ち話」「舞台の上で家飲み」というラフな感覚で震災を振り返っています。

トークセッション抜粋

いくつか、印象に残ったシーンを抜粋します。(テキストは、フラワーテント2015 文化放送 鷲崎健の2h の観覧に行ってみた | kuromakuのブログ からも一部又引きしました)

ただし、できれば動画で見てほしいです。注意してほしいのは、これらのトークが「被災の当事者によって」「神戸人のノリで基本的には明るく(たまにしんみりと)語られている」ということです。テキストに起こすと、おそらく「不謹慎」「嫌な感じ」に読めます。その点は留意してください。

動画: 2h Fri 150213 ゲスト出演部分 - ニコニコ動画

地震で思い出すのは楽しい話ばかり

鷲崎健(以下、健)「地震の時の話って……すごい不謹慎かもしれへんけども……
こういうフラワーテントって場があったし、俺にはこういう場があったからさあ。
悲しいことはさ、どんどん忘れよう忘れようとするからかもしれんけど、楽しいことばっかり思い出すねんな。そうやねん、楽しいことばっかり思い出すねんけど、そんな話してても大丈夫かな?」

(トークの後半にて)

健「震災の話をするときにいっつも言うんですけど、やっぱり、辛いことは周り中にさ、いくらでも転がってるから……そこに入り込むと、ズドーンといくから。
できるだけ、しょーもないことを友達と言い合って、できるだけ面白いことを探して、ケラケラ笑うのが一番だった……きっと。
そしたら、20年経つと、そのケラケラの部分ばっかり覚えてるねんな」

加藤「このフラワーテント2015をやらしてもらうにあたって、とにかくね、楽しくしたかったんよね。そのパワーが、必要かなって」

鷲崎家の被災

健「フラワーテントのスタッフの中で、実家が全壊してたのは俺らだけやねんな」
加藤「うちもやって」
健「あ、そうかそうか」
鷲崎淳一郎(以下、淳)「(家が傾いて)平行四辺形みたいになってた」
加藤「そうそうそう」
健「トンデラハウスみたいになってた」
加藤「そうそう、大冒険やからな」
健「アハハハハハ……だいじょうぶ?どこまでだいじょうぶ、放送?」
(会場笑)
健「普通のトーンやとこういう話やねん、大丈夫なん?」
加藤「大丈夫や、被災者やからオレら」
(会場笑)
淳「また出た、『被災者やから』!」
健・加藤「それやがな!」

フラワーテントの照明

家が全壊して、東遊園地のフラワーテント事務所で避難生活をおくる鷲崎兄弟。

健「テントにいて、俺は1カ月間そこに住んでたね。だんだんだんだん、えらいもんで。街がちょっとずつ(復興して)。
テントもどんどんどんどんグレードアップしていく。
こう、毛布が来て。次、コタツが来て。テレビが来て」
淳「炊飯器が来て」
(会場笑)
淳「炊飯器を付ける時間は、照明をちょっと落としてください、と」
健「ここで普通に、いろんなバンドさんが、素人とかプロとか関係無く(ライブを)やっているわけですよ。それを……見ながら、(ライブの)最中にご飯炊いてる。
ちょうど、炊き上がりのときにさ、『ピッ』ってなるやん。あんまり光量付けすぎると(照明が)『プッ』って影響あるから、照明さんに『もうすぐ炊き上がりますよ』って指示を照明さんに出さなあかんねん」
淳「照明さんもそれ食わなあかんから。『オッケー、わかったって』」
健「一回『スッ』って(照明を)下げなあかんねん、どんな状況でも」

もっこすラーメンの新メニュー

健「“もっこすラーメン”行った人どれくらいいる?」
(観客挙手)
淳「おおーっ」
健「結構いるでしょ。(中略)もっこすラーメンの石屋川店も、震災の時に1回閉じた……当たり前やけど、どの店も閉じてたじゃない」
淳「いや、でももっこすカッコよかったで」
加藤「かっこよかった」
淳「めちゃめちゃカッコよかった、あの店は」
健「(店が被災して)何も出せへん、当たり前やけど、何も出せへん時に、
震災から1週間とか2週間か忘れたけど、何でか知らんけど、ご飯が調達できたらしいの、もっこすラーメンが。で、……カレーを作ってた」
淳・加藤「せやせやせや」
健「みんな、あったかいものに飢えてるからさ、みんな並んで『うわあ、あったかいカレーが食べれる』って、もっこすラーメンの石屋川店にバーッて並んでてんけど。
……そっから10日ぐらいたって、ラーメンができるようになったんやろね、壁に『ラーメン始めました』って張り紙が」
(会場笑)
加藤「あったあった」
淳「アハハ、ラーメン屋で」
健「アハハ、新メニューちゃうゆうねん。開発したみたいに言うなって」
淳「俺らも俺らで、『ラーメン始めたらしいって!!』」
健「もっこすカレーにラーメン登場らしいって」

加藤「……あのね、震災当時ね、いろんな救援物資が来ている中で……みんな必死に集めてくださった、おにぎり・お茶……冷たいのね。で、とにかくあったかいものが食いたくて」

20年前の震災のタンゴ

(今回のイベントに参加したリスナーからのメールより)

リスナー「実は、昔仕事していたときの上司が、20年前のフラワーテントに来ていた……」
健「その子ってあの子じゃないかな。市役所の横のところで『アホみたいな地震の歌を歌ってた』って話になってたんだって。その方が見に来てくれたらしい」

リスナー「(鷲崎健の持ち歌である)イベント内でも『ひどい歌』とおっしゃられていた『震災のタンゴ』や……」
健「(フラワーテントの会場で)お届けした人、わかると思いますけど、不謹慎な歌なんです」
(会場笑)
リスナー「……を聞きながら……」

(以下、上司の発言)20年前に聞いたときに、『アイツ、アホや!』と、全く知らない人たちとアホみたいに泣きながら笑ってヤジを飛ばしながら聞いててん。
あの、『アイツ、アホや!』には関西独特の愛をこめての大絶賛やったし、全く知らんジジイとかも、あのとき肩をたたき合いながらゲラゲラ笑って、涙を流しながら笑って聞いてたのはずっと忘れられへん。

20年前とは違う、あのとき青年やった歌声を、僕がここで聞けたのは、新しく忘れられん。ほんとに来てよかった。

リスナー「……とおっしゃられていました」

ドラゴンボール

健「(御影高校の避難所から)子どもが一切いなくなったときがあって……えっ、どうしたん!? と思ったら……何十分か経ったら、子どもが戻ってきて……『フュージョン!フュージョン!』つって。

要は、うちの避難所には、テレビがなかってん。御影公会堂って避難所は、テレビがある避難所やから、みんながドラゴンボールを観に行ってるの。だから、一番思い入れ深いドラゴンボールの回って、見てないその回やねん」
(会場笑)

健「やっぱりアニメが元気にするっての(原体験)はそこから、やっぱり。子どもたちやから、現状よくわかってない子もいたりする。大人が沈んでるしさあ、もう仕事も家もなくなって、どうしよって、『はぁ……』って避難所で一日中こうなってる人もいるわけ。
その空気が子どもにも伝染する中で、ドラゴンボールが、アニメが、子どもたちをとにかく元気にしたっていうのがあって……」

トークの抜粋は以上です。

被災当事者のきもちは、多様だし簡単にはわからない

以上は、「阪神淡路大震災の被災者当事者である、ある特定の3人による証言」に過ぎません。

私個人の意見としては「震災を笑いに変えるのは不謹慎」という意見は、かなり偏ったステレオタイプであると思います。でも、同じ被災者であっても、同じ地域でも、「笑い」の価値観は人によって・状況によって違うでしょう。

長田で被災した私の友人も、基本的には明るく穏やかに接してくれますが、震災に関しては「越えてはいけない一線」を持っているように感じます。私はそれに関して、笑いで済ませる気はまったくありません。

少なくとも言えるのは、「当事者のきもちを勝手に代弁することは、簡単にやってはいけない」ということ。勝手に想像はしてもいいけど、勝手に決めつけや代弁はしない。「○○だろうな」と仮定しても、そうじゃない可能性は常に残しておく。そういう心得を持っておこうと思います。

(カバー写真:〔2月15日〕KOBEフラワーテント2015 - くまモン大阪出張紀行 より)

藤原 惟

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