青春短歌甲子園の評をおれも書きたい


 本記事は第3回青春短歌甲子園の入賞歌のいくつかについて、わたしさよならあかねが評を書いた記事になります。第3回青春短歌甲子園の概要はこちらを、結果と君野シリウス氏による選評はこちら(有料記事)をご参照ください。

 本記事では、引用許可を頂きました作者さまの短歌の評のみを掲載しています。また、シリウス氏にも記事公開を認めて頂いています。ありがとうございました。

 本文中では敬称を略させていただきます。それでは、よろしくおねがいします。


ひとりでも多くの人と海に行き瓶のコーラで乾杯したい/海月莉緒

「ひとりでも多く」とはどういうことだろうか。1つは素直に、同時に大勢の人と海に行く場合。2つ目は、ふたりきり、または少人数で海に行くことを、何度も繰り返すパターンだ。
 同時の多くの人と行く場合、海に行きたいという願望が作中主体に由来するものであることを考えるなら、これは旅行とかパーティの幹事的な立ち位置であることを示唆する。ただ、ぼくはもう一つの解釈を推したい。理由は、歌全体から感じる秘密めいた静かさだ。大人数でカンパーイ!というよりは、密やかな乾杯をしているイメージをぼくは受ける。
 そうであるなら、これは秘密の歌だ。主体は「ひとりでも多くの人」と、それぞれふたりきりで海に行くような親密な関係になりたいと歌っているのだ。なんとも欲張りな願望じゃないか。


放課後に黒板消しを叩いたら二次関数が風になってく/こじか

 まず、中学三年生の初秋、9月~10月であることがわかる。二次関数はその時期に扱うからだ。受験対策のもっと寒い時期ではないだろう。「風になってく」は、これが秋口の出来事であることを感じさせる。
 微妙な時期だ。夏休みが終わって、ずっと遠い出来事であったはずの受験がリアルに置き換わる。部活も引退し、どこかピリピリとした空気が教室に充満する。それに飲まれて、作中主体もどこか落ち着かない気持ちになっていたのではないか。
 そんなとき、おそらくは日直に割り振られ、勉強しなきゃいけないのに残って黒板を消して、なんでこんなことしなきゃならないんだって思って窓を開けたら、秋の空がどこまでも高く広がっていた。
 二次関数と一緒に、気持ちが風になってく。


四時間目風邪で早退したはずの今井と辻のインスタに海/ペンギンおじさん

 解釈のポイントは「早退」だろう。これが欠席だったら、あらかじめ申し合わせてのことだ。だが早退である以上、このサボって海に行こうは今日発生した突発的な出来事だと推測できる。
 その「インスタに海」を主体が発見したのが四時間目だ。空腹で集中力が切れるダルい時間帯に、ハッとするような画像が飛び込んでくる。この今井と辻、ただのクラスメイトだろうか。サボりがバレうるリスクのある投稿をしてる以上、これはクローズドなインスタ垢と考えられる。それを知っている主体は、ふたりに近しい関係であるのだろう。やや牽強付会だが、四時限目という時間帯は、ダチがサボって遊んでるいいなを超える感情を想像させる。そこに三人の関係性が読み取れるようじゃないか。


赤シート越しにのぞいて僕のこと 火照った顔がばれないように/えみ

 赤シートはどんな場合に使われるかを考えてみると、ふたりの関係がわかってくる。赤シートはもちろん、答えがわかっているかをチェックし、自信がない場合、シートを外して正解を確認するためにある。
 さて、作中主体は「赤シート越しにのぞいて」くれと頼んでいる。つまり、相手が自分のことをある程度知っていることを期待している。いや、ある程度どころではない。「ばれないように」と言っている以上、赤シートは外されない。つまり? 相手はシートを外す必要がないくらい「僕のこと」を知っている。
「火照った顔」なんて、もうバレバレなんだ。でもそれを確認する必要すらない。なんやじぶんめっちゃのろけるやん!


制服を脱げば中肉中背のなににもなれないわたしをみつめる/七竈

 おそらくは学生だろう。「制服」=学生というラベルにのみ価値があるのであって、なかみの「わたし」に価値がないという感覚を作中主体は味わっている。いまだ学生であり、本来なら何者かになれるはず、少なくともその時間や可能性は残されているのに、主体はそれを切り捨てている。
 深い絶望だ。主体は、いまなにものでもないわたしだけではなく、いつまで経っても(おそらく死ぬまで)自分は「なににもなれない」と感じている。
 実際に経験してもいないのに。
 この先走った絶望感こそ裏返しの万能感だ。象徴的に「中肉中背」なわたしは、特権的に自己の価値を貶めている。それもまた、まぎれもない青春の形であると言えよう。


君と手を繋いで上る地下鉄の階段はほぼヴァージンロード/きさらぎなる

 間違いないのは、作中主体はヴァージンロードの実態を知らないということだ。結婚式に出たことも、ドラマなどで見たこともない。地下鉄の階段はヴァージンロードというにはあまりにも階段だ。左右を祝福する人に囲まれてないし、エスコートする父親もいない。
 ふたりっきりで階段を登っているのだ。たぶんほかに人はいない。じゃなきゃこの主体は手を繋げないだろう。そんなふたりだけの体験を、上り階段の心拍数がどこまでも持ち上げていく。
 ヴァージンロードが何か知らないのに、いまの体験を「ほぼヴァージンロード」とか言ってしまうようなピュアな感性が伝わってくる。むずがゆいよ! あまずっぱいよ!


疑いもしなかったような永遠を次の君とも信じてしまう/蟻架

「疑いもしなかった」という表現は面白い。字面は反語形であり、現在は疑っていると捉えるのが自然だ。しかしそうではない。永遠が破られたのは主体が疑ったからではない。ただ、何らかの不都合によって破れただけだ。
 したがって、作中主体は永遠を疑ったことはなく、これからも疑うことがない…のだろうか。
 主体は信じて「しまう」と書いている。それは信じることが間違っているのに信じてしまう愚かさを指摘する。この主体は自分の幼さに気づいている。気づいてなおその幼さを自覚的に利用している。ここまで考えたとき、永遠を破ってしまった不都合は果たしてどっちにあったのだろう。主体が潔白であったとはぼくには思えない。
 原因は主体にもある。しかしそれを意図的に無視して、主体は次の永遠を信じている。そのエゴイズムがまぶしい。


 以上7首、評を書かせていただきました。短歌の掲載許可をくださったみなさまに感謝します。


おまけ

小腸の柔毛みたいな恋をした(テニスコートと同じ面積)

ありがとうございました。

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