短歌を所有すること

 みなさんはいままで読んだ/詠んだお気に入りの短歌をどうやって管理してますか。これはそういうお話。

 タイムラインで短歌を見た。ぼくが短歌を始めたきっかけだ。ぼくが最初にいいねした短歌はこれ。

 それから10年。ぼちぼち作ったり作らなかったり、何度かの休眠期間を挟みながらもぼくは短歌を読んで詠んできた。どんな気持ちで短歌に関わってきたかは時期によってちがうけど、この間一貫してたことがひとつある。それは「短歌とはtwitterでやるもの」だったことだ。

 短歌に触れる機会はタイムラインが主だった。ぼくは#tankaタグを開いて、流れる短歌を片っ端から読んだ。当時はまだbotの数が少なくて、タグに全部目を通すことができたのだ。「タイムラインの短歌は全部読む」みたいなこだわりが、ぼくと短歌を結びつけてたと思う。

 一方で、投稿するのもtwitterを使った。というより、これはぼくの短歌の作り方そのものだ。いまどうしてる? がtwitterだ。考える=作る=投稿する。どこかに書きためるとか、推敲したりとかはしない。というかできない。「いま頭の中にあるごちゃごちゃを吐き出す」手軽さがあったからこそ、ぼくは10年も短歌をやってこれた。

 twitterのみで短歌をやってきたメリットがひとつある。一覧性だ。世の中には便利なツールがあって、自分のすべてのツイートとか(twilog)、すべてのいいねを管理することができる(favolog)。たいへん便利なのでみなさんぜひ活用してほしいのだけど、なにが言いたいかというと、「ぼくが投稿した全短歌」と「ぼくがいいねした全短歌」は一覧できるということだ。twilogは公開設定なので例として置いておきます。

 さて、この事情が最近になって動いた。簡単に述べると、twitterで知り合った知人の、twitterの外での活動に興味を持つようになった。具体的には「うたの日」や「ネプリ」だ。これらは、宣伝こそtwitterでされるけど、その活動はtwitterの外に実体を持っている。ぼくは最初目が開いたような気がして、そろそろと出かけて行って短歌を読んだ。ちょっとだけ投稿もした。あの頃は短歌に夢中で、活動の幅を広げることにあんまり疑問を持たなかった。

 だけどある日気づいた。いいねが付けられない! そうだ。twitter以外で短歌を読んでも、それはぼくのコレクションに加わらない。作る方も同じだ。#tankaタグを付けてツイートしなければ、ぼくの短歌の一覧性が失われてしまう。ぼくは巣に戻った自分に気がついた。それが理由のすべてではないだろうけど。

 タイトルの話をする。ぼくにとって短歌の所有とは一覧性である。いままで読んだ/詠んだすべての短歌が一箇所に揃っていることが、ぼくの心を安心させる。なぜか。その理由はアクセス性にある。これは感じ方なので異論あると思うんだけど、ぼくは「優れた短歌は暗唱できる」と思っている。ところが、完全に暗唱できる短歌はこの前の記事で調べたところ50首が関の山だった。じゃあそれ以外の短歌はぜんぜんダメかといえばそんなことはなくて、部分的に覚えてる歌も結構ある。そんなとき、短歌が一箇所にまとまっていれば検索ができる。これが一覧性のメリットだ。一覧性を保つことこそが、ぼくにとっての所有の定義なのだ。

 これは短歌じゃなくても当てはまると思う。「マイベスト本棚」を持ってる人は結構いるだろう。あるいは音楽でHDDを埋めたり、自前で焼いたDVDにテプラを貼るのが好きな人もいると思う。好きなものはみんなまとめて一箇所に置いておきたい。それは自然な気持ちなんじゃないか。

 最後に、どうして一覧性と所有の話をしたか書く。ぼくはいま、ほんのちょっとだけ短歌を勉強したいと思っている。そうなったとき、twitterの中にいるだけでは出会えない、外側の世界の短歌を知る必要がある、と思ったのだ。外の短歌を読みたい。でも一覧性を失いたくない。そう考えたとき、Noteを使って短歌を集めるという方法に気がついだ。次の記事は短歌収集の一例だ。

 さらに言えば、「あなたの集めた大好き短歌コレクション」にぼくはとても興味がある。作家横断的に集められた歌の向こうに、あなたの好みがはっきりと見えるからだ。

 あなたにとって、短歌を所有するとはなんですか?

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