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あなたのために

外はしとしとと細かい雨が降っている。

空気を入れ替えるために窓を開けると、雪の予報が出ているのにも関わらず、外はまだそれほど寒くはない。

小高い丘の上の建物の、さらに高い6階に我が家はあって、リビングからは丘の下のずっと先にある街の方まで見渡せる。

街の方角から視線を少しずらすと、そこにはまた別の丘の連なりがあるのだけれど、いつもはくっきりと見えているその稜線が、今日は薄いパールグレーがかってぼんやりとしている。


お茶を飲むのが何よりも好きな時間で、日本のお茶から数種類の紅茶、2〜3種類のコーヒー豆、ミルやポットなどを置くお茶の専用棚がリビングにある。

朝は一杯のコーヒーを淹れるのが習慣なので、コーヒー豆を取ろうとして棚を見ると、豆を入れるガラスケースがひとつ、空になっているのに気づいた。

冷蔵庫に入れてあった新しい豆の袋を取り出す。

袋の表面には手書きの美しい文字で『雪』と書いてある。明日の予報と同じ名前が書いてあって、少しだけ驚いた。

この豆は、もう何年も通っている馴染みの焙煎やさんから送ってもらったものだ。数ヶ月前に引っ越しをして通えなくなってしまったので、宅配で注文した。注文の時にどの銘柄がいいか尋ねられ、「おまかせで。」とお願いして送られてきた豆だった。

それを思い出し、この『雪』はどんな味わいなのだろう、とワクワクする。

その焙煎やさんは女性のオーナーがお一人でやっていて、季節ごとにおすすめの豆などを丁寧に教えてくれる。このオーナーさんに教えてもらって、同じ豆でも淹れるお湯の温度で味わいが全然違うこと、豆が取れる環境の違いによる味の違いなどを知った。何度も通ううちに好みまで覚えてくれ、彼女がすすめてくれる豆はいつも好みにピタリと合った。

今回はどんな味を送ってくれたのかな。そう思うだけでプレゼントをもらったような楽しみがある。

『雪』をミルでひくと、ビターなチョコレートのような香りの中に少し青いスッとした香りが混ざる。不思議な豆だな、と思いながら湯を注ぐ。朝は簡単に淹れるためにフレンチプレスを使っている。プレスのポットの中で踊っていた粉がゆっくりはらはらと沈んでいく。

粉が沈みきるのを待ってカップに移すと、濃厚なビターチョコの香りだけが残った。

飲んでみると苦味はまったく強くなく、優しい香ばしさと重すぎないコクがある。甘くないチョコレートを食べたような感じが一瞬したのに、ゴクリと飲んでしまうと口の中にあった香りがスーッと消えた。

あぁ、本当に雪だ、と思った。なんて素晴らしいネーミングなのだろう。地面にたどり着いた途端に吸い込まれるように消えてしまう雪だ。

そしてこのコーヒーは、とても好きな味だった。

***

10年ほど前、勤めていた会社を辞めた時に、ある贈り物をもらった。

贈り主は一番仲良くしていた10歳近く年下の後輩で、楽しいことも辛いこともなんでも話せる間柄だった。会社帰りに、よく2人で呑みにも行った。

とてもお洒落でかっこよく個性的な服装を好む子で、香水好きで詳しい彼女は、いつもいい匂いがしていた。

香りが変わるたび、今は何をつけているの?と尋ねると、銘柄と一緒に、その香りを選んだ理由を教えてくれる。その理由がまたとても個性的で、話を聞くのがとても楽しかった。

会社を辞めると彼女に話した時、こう言われた。

「最後の日に香水をプレゼントするね。あなたのイメージにぴったりのものを、一生懸命探してくるから。楽しみにしていてね。」

プレゼントというものの一番嬉しいところは、選ぶ時にその人が自分のことを思い浮かべてくれることだ。


最後の日、約束通り美しい小さな包みを彼女から手渡された。

一緒にカードがついていて『これが私が思うあなたです。』というひと言だけが書かれていた。いつでも彼女はかっこいい。

こんなにドキドキするプレゼントをもらうことなんて、そんなにない。

家に帰り着くなり、着替えるよりも先に包みを開けた。

ごくごく薄い紫色をした液体が入った滑らかな瓶を手に取り、部屋の真ん中でシュッと軽く吹いてみる。

甘くはなく、どちらかといえば中性的で、水辺を思わせるような香りだった。

イメージを香りで例えるのは、なんとも抽象的な表現だからこそ、わかったようなわからないような感じが面白いと思った。

誰かが、自分のためだけに何かを選んでくれるということは、とてもロマンティックな行為だと思う。



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