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短編小説「永訣」

 昭和76年。別れ花の終わった、静かな葬儀場を包む蝉の声。あれは初夏のことだった。少年の遺影と、花祭壇。耳の奥で映写機の遠い音が聴こえている。古びた視界が世界を遮断していく。
 ……俺は自分の遺体が横たわる棺が運ばれていくところを眺めていた。そうして、いよいよ自分の生命も終わろうというのを、まるで葬列客のように感じている。出棺のときだ。葬儀場から出て行く<彼女>の姿──それを見送って、誰かが座っていた椅子のひとつに、半ば投げやりに腰掛けた。
 義姉はいつものように美しく白い項を晒して喪服に身を包んでいた。兄の目を盗んで小さく彫った俺の名前を、耳の裏に描き込んだまま。

 そういえば、とボンヤリした頭で思う。俺は兄をいつも恐れていた。
「織江、醤油」
「醤油? あんたの方が近くにあるじゃない」
「ああ? 主人の言うことは絶対だろ!」
「はいはい、そのうち腕が退化するわよ」
 気まずい食卓。兄の家に呼ばれて飯を食うときは、いつも縮こまっていて、アンマリ「美味しい」と思ったことがない。レシピ本の表紙みたく、何処から見ても美しい料理を。──不意に茶碗から視線を上げると、義姉さんは男を化かす狐のような切れ長の目で、こっちを見て笑っているのだった。
 初めて見たときから、義姉に触れてみたいと思っていた。彼女が挨拶に来た日が始まりだったと思う。
「お布団敷いてあげましょうか?」
 兄のいない間に訪問した俺に、義姉はいつも言うのだった。まるで子どもに語り掛けるように──保育園の、お昼寝の時間のように。そして軽々しく、俺の学帽を奪いながら、「愛してる」と口にする。そして学生服のボタンに細い指を掛けて。
 正直なところ、俺は「良い子」でいたかった。兄に気付かれるのも恐ろしかったし、同級生や親にばれるのも恐ろしかった。義姉さんの膝の上で寝転んでいるとき、誰かに責め立てられる妄想が脳裏を過ぎり、眉間に皺を寄せていた。……彼女の手の平が、優しく髪を撫でて、甘い声で歌うときも。
 それでも兄を欺こうとしたのは、彼女の魔性のせいである──と言ってしまうのは、簡単だけれど。恋というものは、いつでも常識を狂わせる不思議な作用を持っている。恋をした人間は決してマトモではいられない。
 あるとき、突然の帰宅に、俺はクローゼットに隠された。ただそこに居るだけならば何も問題の無かったものを、俺はひどく汚れていた。そうしてクローゼットの隙間からふたりの様子を盗み見て、命からがら逃げ出した俺は、道端に吐いていた。……ふたりの間には壁がなく、恋のつらさを思い知った。鼻から垂れる吐瀉物を拭って、情けなく帰路に着くほかない。一ヵ月経っても側溝にほったらかされているゲロはいかにも「置いてきぼり」だった。
 彼らが授かった命を、引き摺り出して潰してしまおうかと、そんなことばかり考えないように、カーテンを閉めた暗い部屋の隅で震える土曜日。

 兄はまるで正反対の男だった。傲慢な祖父、乱暴な父を合わせて縫い上げたような男であり、あんなに優秀だった義姉を無理やり辞職させ、主婦をさせていた。それで俺が養ってやっていると豪語していた。義姉は時たま溢すことがあった。「あたしもあんたの同級生に戻りたいわ、きっとやり直してみせるのに」「それできっと、あんたと手を繋いで帰るの」──
 土曜日の夕下がり、あのときの彼の激昂は、きっと屈辱から来るものだったのだろう。兄は「見付けて」しまったのだ。脅しではなく、本当に自分を刺しに来たのだと判った。兄はそういう男だということを、俺は父から学んでいた。

 彼女が小さな鞄を揺らしながら、パンプスの音をさせて落としていった数珠は、道端のゲロとまるで同じだった。

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