見出し画像

何も知らない幸福

「コウモリの妖精アタラファ」という本の中で、ハスキンズという少年が、誕生日にもらった散弾銃でコウモリを捕まえます。そして家に帰り、檻の中に入れ、食べ物を与えようとする場面があります。
※アタラファというのは、コウモリの名前です。

だれかが提案しました。
「肉をあげてみたら」
最初に肉が、しばらくして魚、くだもの、やさいが、そして最後に昆虫が、かなしい顔をしているとらわれ人にあたえられました。でも、アタラファはなんの反応もみせませんでした。
そこで、おかあさんがいいました。
「あなた、水はあげたの?」
いいえ、あげていませんでした。だれも水のたいせつさに思いいたりませんでした。

コウモリの妖精アタラファ/アーネスト・T・シートン

そのあと、水を飲んだアタラファは生き返ったように感じ、ぐっすり眠りにつきました。そして翌朝には昆虫とすべての肉(コウモリが食べられるもの)を完食します。

ハスキンズ達が与えたものが、全て間違っていたわけではありませんでした。ただ、アタラファは、のどがかわいていたのでした。それが満たされなければ、好物だって食べられなかったのです。

ハスキンズの行動について、こう書かれています。

ハスキンズは残酷だから残酷にしたわけではなく、いじわるだからいじわるをしたわけではありませんでした。
コウモリのことを知らず、なにも考えなかっただけです。コウモリが繊細で、なれない環境では落ち着けない動物(中略)とは、ハスキンズには考えられなかっただけです。

(中略)
ハスキンズが想像できなかったのもむりはありません。アタラファをうちおとすことは、自分自身をきずつけることとおなじ、おろかなおこないでした。でも、生きものどうしのつながりは、彼の目から隠されていたのです。

残酷なおこないは、ふだんのハスキンズとは無縁でした。それは散弾銃によって狩猟本能がひきだされて、はじまりました。ついで所有の本能がはたらき、コウモリがほしくなりました。そして最後に、やさしい好奇心からコウモリを残酷にあつかう結果になりました。

コウモリの妖精アタラファ/アーネスト・T・シートン

これは、子育てとか、人間関係にも言えることだなと思いました。
子供にとって残酷でいじわるなことを、親がしてしまうのは、「愛情」や「善意」「虚栄心」が目隠しになってしまっているのかもしれません。

また、「青い鳥」という本に、幸福の花園という場面があります。そこには、人間の目で見ることができる幸福が擬人化されています。お金持ちである幸福、太りかえった幸福、かわかないのに飲む幸福などです。これらは、偉そうにしているけれど、ダイヤモンド(※回すことで「本当の世界」を見せてくれる)を回すと、悲鳴を上げて不幸の世界に逃げていきます。

この中に、「何も知らない幸福」があります。

自分が善意でやっている行為が、相手のためにならないどころか、相手を傷つけているということだって、それを知らなければ、幸せです。でも、相手を傷つけていると知ったら、辛いですよね。「何も知らない幸福」というのは、そういうことも含まれているのかなと思いました。

でも、辛いからと言って、何もしないわけにはいきません。ハスキンズが最後に、大切なのは水だ、と気づけたように、本当に必要なものは何かを考えて試し続けるしかないんだと思います。人間同士であれば、そのためにも、話を聞くことが大切だと思います。

そして一番大切な水を与えることができれば、それまで与えた無駄なものも、無駄じゃなくなるんだと思います。