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ホモ・ルーデンスと衆生所遊楽について

絵本作家のいとうひろしさんが「遊び」についての記事を寄稿したというので、その雑誌を買ったら、「ホモ・ルーデンス」という言葉に出会いました。

「ホモ・ルーデンス」というのは、ホイジンガという人が書いた本のタイトルでもありテーマでもある言葉。人間はホモ・サピエンス(賢い人)ではなく、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)だということが書いてあるそう。おもしろそうだったので、早速、図書館で借りてきました。

読んでいるうちにわかったのは、遊ぶというのは、ただ楽しみを指しているのではなく、人間の行為そのものが遊びから生まれるのであって、そこには意味や目的や価値は存在しない、というようなことを言ってるということです。

人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれた。 つまり、遊びこそが人間活動の本質である。

遊びは、何かイメージを心のなかで操ることから始まるのであり、つまり、現実を、生き生きと活動している生の各種の形式に置き換え、その置換作用によって一種現実の形象化を行い、現実のイメージを生み出すということが遊びの基礎になっている

ホモ・ルーデンス
ホイジンガ

文化や宗教や種々の争いも、「遊び」から離れることはない。そう言ってしまうと、真剣なことを馬鹿にするのかと怒る大人もいそうですが、遊びは、真剣であることを否定しません。

遊戯はわれわれの意識の中では、真面目ということの反対に相当する。(中略)〈遊戯とは「真面目ではないもの」である〉というかわりに、〈遊戯は本気なものではない〉と言ってしまえば、われわれはもう初めの対立を見失ってしまう。遊戯が、実際には全く本気で行われることだってあり得るからだ。

〈真面目〉とは単に〈遊戯ではないもの〉であって、それ以外のものではない。これに反して、遊戯の意味内容は、決して〈真面目ではないもの〉とは定義できない。(中略)真面目は遊戯を閉め出そうとするのに、遊戯は真面目をも内包したところでいっこう差し支えない。」

ホモ・ルーデンス
ホイジンガ

汽車になりきる子供の見立て遊びと同じで、私たちはどれだけ真剣にやっていることでさえ、これはただ演じている(遊んでいる)だけなのだという意識を持っているということです。


ところで、この考え方にはとても既視感がありました。仏法でいう、衆生所遊楽という言葉です。

衆生所遊楽というのは、法華経に書かれてる言葉で、「衆生の遊楽する所」と読みます。意味は、「衆生(人間)は、この娑婆世界(世界)に遊楽する(遊ぶ)ために生まれてきた」ということです。

この娑婆世界が即常寂光土(最高の浄土)であると説き明かされ、苦悩と無常の現実社会こそ妙法を持つ衆生の最高の遊楽の場所である

創価学会HPの解説

また、日蓮大聖人はこの衆生所遊楽について、こう書いています。

「遊楽」とは、我らが色心・依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや。法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。(中略)
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。

四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)

我らが色心・依正ともに〜は、私たちの心と体、生命全体と読んでいいと思います。
また、自受用心は、功徳を自ら受け自由自在に用いることができるという意味です。

私たちそのものが自由自在の仏であることが遊楽なのだ。だから、法華経を持ち奉る(自身の中に仏性があることを自覚する)こと以外に遊楽はない。そして、南無妙法蓮華経と唱える中で、苦しみは苦しみとして、楽しみは楽しみとして感じ、そのまま味わうことが、自受法楽(=遊ぶ)ということである。と言っているのだと思いました。

私たちはこの世界に遊ぶために生まれてきたけれど、遊ぶというのは楽しいことだけを指すのではない。苦しみも楽しみも、私たちそのものが自由自在の仏であるから遊楽となる。

これは苦しみも楽しみも、ただ、それを演じているのだ、とも読めます。

創価学会の池田名誉会長もよくこういう話をしていました。

仏法が教えるのは、人生劇の「脚本《シナリオ》」を書くのも、「演じる」のも、自分自身だということである。
他の何ものかが、脚本《シナリオ》を書くのではない。自分が書いて、自分が名優として演ずる。これが「一念三千」の法理にこめられた、きわめて積極的な人生哲学である。

アメリカ代表者会議でのスピーチ 1993年3月9日


ホモ・ルーデンスの考え方と似てますよね。私は勝手に、「遊ぶ」って私達の中にある「仏性」のことを言おうとしてるんじゃないかなとさえ思いました。ホイジンガの「人間に限らず犬や猫も遊ぶことを知っている」という話も、畜生(動物)にも仏性があると説く法華経の考えとあっているように思います。

ホモ・ルーデンスの中で、ホイジンガは、遊びの中に生まれる文化がつまらなくなってしまう理由をこう書いています。

文化の素材がだんだん複雑になってゆき、いろどりゆたかになり、煩雑になってゆくにつれて、あるいは営利生活、社会生活の技術が、個人的にも集団的にも、細かな点までくまなく組織化されてゆく程度が進むにつれて、古い文化の根源的な地盤の上に、遊戯との接触をもう全く見失ってしまったような多くの理念、体系、観念、学説、規範、知識、風習の層が、しだいに厚く積もってゆく。こうして、文化はますます真面目なものになってゆき、遊戯に対してはただ二次的な役割をしか与えなくなる。

ホモ・ルーデンス
ホイジンガ

これは、信仰がつまらなくなってしまう理由とも同じだと思いました。本来、信仰って自発的で楽しいものだと思うんですが、そこに「多くの理念、体系、観念、学説、規範、知識、風習の層が、しだいに厚く積もってゆく」ことで、つまらなくなってしまうんだろうなと。信仰が二の次になってしまうから。何を隠そう私がそうだったなと思います。

信仰だけでなく、勉強とか、子育てとかにも言えそうですね。いろんなことに通ずる話だと思います。

改めて、信仰の目的、生きる目的について考えるきっかけになりました。
そろそろ図書館に返却しなきゃだけど、おもしろかったので文庫本を買おうか考え中です。