ホモ・ルーデンスと衆生所遊楽について
絵本作家のいとうひろしさんが「遊び」についての記事を寄稿したというので、その雑誌を買ったら、「ホモ・ルーデンス」という言葉に出会いました。
「ホモ・ルーデンス」というのは、ホイジンガという人が書いた本のタイトルでもありテーマでもある言葉。人間はホモ・サピエンス(賢い人)ではなく、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)だということが書いてあるそう。おもしろそうだったので、早速、図書館で借りてきました。
読んでいるうちにわかったのは、遊ぶというのは、ただ楽しみを指しているのではなく、人間の行為そのものが遊びから生まれるのであって、そこには意味や目的や価値は存在しない、というようなことを言ってるということです。
文化や宗教や種々の争いも、「遊び」から離れることはない。そう言ってしまうと、真剣なことを馬鹿にするのかと怒る大人もいそうですが、遊びは、真剣であることを否定しません。
汽車になりきる子供の見立て遊びと同じで、私たちはどれだけ真剣にやっていることでさえ、これはただ演じている(遊んでいる)だけなのだという意識を持っているということです。
ところで、この考え方にはとても既視感がありました。仏法でいう、衆生所遊楽という言葉です。
衆生所遊楽というのは、法華経に書かれてる言葉で、「衆生の遊楽する所」と読みます。意味は、「衆生(人間)は、この娑婆世界(世界)に遊楽する(遊ぶ)ために生まれてきた」ということです。
また、日蓮大聖人はこの衆生所遊楽について、こう書いています。
我らが色心・依正ともに〜は、私たちの心と体、生命全体と読んでいいと思います。
また、自受用心は、功徳を自ら受け自由自在に用いることができるという意味です。
私たちそのものが自由自在の仏であることが遊楽なのだ。だから、法華経を持ち奉る(自身の中に仏性があることを自覚する)こと以外に遊楽はない。そして、南無妙法蓮華経と唱える中で、苦しみは苦しみとして、楽しみは楽しみとして感じ、そのまま味わうことが、自受法楽(=遊ぶ)ということである。と言っているのだと思いました。
私たちはこの世界に遊ぶために生まれてきたけれど、遊ぶというのは楽しいことだけを指すのではない。苦しみも楽しみも、私たちそのものが自由自在の仏であるから遊楽となる。
これは苦しみも楽しみも、ただ、それを演じているのだ、とも読めます。
創価学会の池田名誉会長もよくこういう話をしていました。
ホモ・ルーデンスの考え方と似てますよね。私は勝手に、「遊ぶ」って私達の中にある「仏性」のことを言おうとしてるんじゃないかなとさえ思いました。ホイジンガの「人間に限らず犬や猫も遊ぶことを知っている」という話も、畜生(動物)にも仏性があると説く法華経の考えとあっているように思います。
ホモ・ルーデンスの中で、ホイジンガは、遊びの中に生まれる文化がつまらなくなってしまう理由をこう書いています。
これは、信仰がつまらなくなってしまう理由とも同じだと思いました。本来、信仰って自発的で楽しいものだと思うんですが、そこに「多くの理念、体系、観念、学説、規範、知識、風習の層が、しだいに厚く積もってゆく」ことで、つまらなくなってしまうんだろうなと。信仰が二の次になってしまうから。何を隠そう私がそうだったなと思います。
信仰だけでなく、勉強とか、子育てとかにも言えそうですね。いろんなことに通ずる話だと思います。
改めて、信仰の目的、生きる目的について考えるきっかけになりました。
そろそろ図書館に返却しなきゃだけど、おもしろかったので文庫本を買おうか考え中です。