「信心で病気が治る」について
創価学会員が口にする「信心すれば病気が治るよ」という言葉について、
祈って病気が治るなんて非科学的だ
信心してても死ぬときは死ぬ
病気の人に付け入ってるのでは
医者でもないのに無責任だ
という意見をよく目にする。
確かに、この言葉を駅前で通りすがりの人に言いまくっていたり、自分が病気でもなんでもないのに知り合いから急に言われたら、私も「この人何言ってるんだろう」と思う。
だけど私が知る限り、この言葉が使われるのは、「病気で自分の人生を諦めている近しい人」に「希望を持ってほしい」時だ。
「病気が治る」が真実で正しいから主張するのではない。預言でもない。
そもそも未来のことは誰もわからないし、医者だって過去の経験からの生存率数%は言えるけど、その数%に患者が入れるかどうかはわからない。治療法のわからない病気もたくさんある。
それでも諦めるよりは希望を持った方がいい。だから「信心で治る、信心で治そう」と言うんだと思う。
実際に痛む体や変わらない現実に直面すれば、心の中から不安や恐怖や無力感がどんどん出てくる。その気持ちを無視して、治ることだけを考えるのが希望ではない。
むしろ、その苦しい気持ちを出しては向き合って受け入れて、出しては向き合って受け入れて、その繰り返しの最後に見えてくるのが希望だと思う。
これは仏界の記事でも書いたけれど、そうやって自分の気持ちに向き合うということが信心なんだと思う。
励ます方だって同じだ。目の前で苦しんでいる家族や近しい友人を見れば心が苦しい。その心と向き合って、希望を持つ、励ます。不安な心を見つけては向き合うの繰り返し。
「信心で病気を治そう。一緒に信心しよう。」というのは、「あなたが希望を持てるまで、一緒に苦しもう一緒に歩こう」みたいな感じだと思っている。ファンタジーでは全然ない。もっと地味で現実的だ。
その結果、病気が治らずに亡くなる場合だってもちろんある。
だけどじゃあ「信心で治る」という言葉は嘘で詐欺なのか、祈ることは無駄でいらないものなのか。その人が希望を持てるまで寄り添ったとしても、素人が口出しするのは無責任なのか。
私はそこまで覚悟して「信心しよう」って言う機会も勇気もなかったから、言ったことある人はすごく覚悟したんだろうなと思っている。