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沖縄の基地問題と宗教二世問題

今日の聖教新聞に、沖縄の基地問題について学会員がどう向き合っているかという取材記事が掲載されていました。

その記事に載っていた沖縄の若者の声が、宗教二世問題に向き合う若者の気持ちと同じなんじゃないかと感じたので紹介します(創価学会に限らず)。私には、基地→宗教、地域→組織というふうに読めました。

以下引用

(もともとある米軍基地と隣り合わせで生活する辺野古に住む兄弟への取材)
基地は生まれた時から、すぐそこにあるものでしかなかった。基地をめぐる葛藤にも、興味がなかった。それは地方で暮らす若者の感覚として自然なことだとも思います。
(中略)
二人は地元で生まれ育った者として、「基地反対」と大きな声を張り上げる人の気持ちも分かると言います。だから決してその人たちを否定しない。一方で、「基地反対」と叫ぶだけでは、地域は良くならないという感覚も持っている。

一言でこうすべきと割り切れない現場に生き続ける立場から、身近な課題と地域の未来をもっと見つめていくべきだと、二人は語ってくれました。

すぐには白黒つけられない、答えの出ない問題が、現代社会にはあふれています。これは基地問題に限りません。にもかかわらず、「わかりやすい対立の構図」が煽られ、単純化された「悪者」や「正義」が可視化されていく。そして現代の政治・メディアは、誰もが情報の受発信の主体となることを強いてくる。熱狂を煽り、自らも熱狂させられてしまう。

その連鎖の構造が、現代社会の焦燥感と閉塞感を増幅しています。そこから抜け出すために必要なのは、「答えなき問いに向き合い続ける力」です。
(中略)
答えなき問いを目の前にして熱狂し、疲れて、目をそらすのではなく、祈るという実践を通して他者に思いを馳せていく。目の前の人の悩みを聞き、地域の課題を少しずつ変革すべく政治にも働きかける。そのすべての根本は祈りにあるというのは、今回取材した人たちが口々に語っていたことでもあります。

聖教新聞2022/12/24

後半は、諸問題にどう向き合うかという内容でしたが、もしこれが学会員として諸問題へ向き合う正しい姿勢なら、宗教二世問題についても、このように向き合う方が増えてほしいなと思いました。正しさなど簡単に決めていいわけではないのですが。