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箱庭商事の幽霊ちゃん! #11「幽霊ちゃんについて。(前編)」

 ――

 目が覚めると、この『箱庭商事』のビルにいた。日本語は歳相応レベルに話すことができ、自分の名前も自覚できるし、16歳という享年年齢も回答できる。
 なのに、のだ。
 地に足のつかない、まるで世界から切り離されたかのような浮遊感。覚醒から数十秒で吐き気を覚えて女子トイレに駆け込み、耐え切れずに洗面台で嘔吐しようとした。何も出て来なかった。
 今ひどい顔をしているんだろうなと思い、顔を上げて鏡を見る。

 鏡の向こうの世界に、自分の姿はなかった。
 それが、幽霊であると自覚させられる第一の出来事であった。
 それこそが幽霊の体に慣れない理由であった。自分は、生きていた人間のはずなのに。何故幽霊になったかも分からない――そんなことに、16歳の少女が耐えられる筈もなかったのだ。
 幽海は混乱し、暫くは女子トイレで壊れたようにさめざめと泣くことしかできなかった。両目から涙と共に訳の分からなさを押し流さないと、壊れてしまうと思ったから。
 幽海の精神は繊細だ。落とせば砕ける硝子の様に、少しの衝撃でヒビが入って粉々になってしまう。
 砕けないようにするためには、硝子の強度を強めるか、砕かれる脅威を遠ざけるしかない。
 が、前者はとてもじゃないができそうもなかった。だから、砕かれてしまわないように忘れようとした。いきなり死を突きつけられた理不尽さも、記憶がないことへの気味悪さも、恐怖も何もかも、放り投げてしまいたかった。
 だけれど人間はそう都合よくできていない。ゴミ袋を投げ捨てるように感情を廃棄することはできない。
 それができればよかったのにと願っても、役に立つ筈もない。
「……こんなの、欲しくない」
 それでも棄てられない感情を抱きしめるように、膝を抱えてさめざめと泣く。それ以外特に何もすることはない。何故ならば、希望も展望もないからだ。
 人間というのは――幽霊元人間でも――希望と展望を胸に抱けば前に進むことができる。
 逆に、それがなければ。
「……怖い。怖いよ」
 立ち止まることしかできないのだ。

***

「……え、嘘」

 ――幽霊として顕現してから1カ月後。
 泣いているばかりでは疲れるが、手持ち無沙汰なために当てもない。仕方なくふらふらと歩いていた幽海の背後から声がする。
 膝下までの長さのスカートに、ブラウスを着た画一化されたファッションの女性――『箱庭商事』の従業員であった。
 現在は深夜の23時半……だというのに、まだ人の話し声やキーボードを叩く喧しい音が廊下にまで響いている。ここに来て幽海は、この建物に人がいるということを知った。それだけ、自分のことでいっぱいいっぱいだったのだ。
 この女性はどうやら休憩がてら伸びをしに来たようだったが、そこに見覚えのない少女がいるものだから吃驚ビックリもする。
「え、あの、君、誰……?」
「……ぁ」
 突然の邂逅に、幽海は開口しても碌な言葉が出て来ない。対するOLは乾いた笑いを発した。
「……やだ、もう。私、疲れてきっと幻覚でも見ているんだわ。きっとそう、そうよ。そうなのよ……」
 女性は現実から目を背ける様に瞼を閉じ、自己暗示を始める。その自己暗示も、もう既に可笑しなものにはなっていたのだが。
 一方の幽海はその女性を見て思った。

 ものすごく疲れてるんだな。
 こんなに顔が青褪めて、声にも一切覇気がなくハキハキしてないもの――と。

 ――敢えて、もう一度言おう。
 幽海の精神は繊細だ。落とせば砕ける硝子の様に、少しの衝撃でヒビが入って粉々になってしまう。
 砕けないようにするためには、硝子の強度を強めるか、砕かれる脅威を遠ざけるしかない。
 が、前者はとてもじゃないができそうもなかった。
 
「あ、あのっ!」
 。それだけ幽海の心には余裕がなかった。今にして思えば酷い幽霊だとも自らで思うが、1か月泣き通しても落ち着かない程に幽海は既に限界を迎えていたのだ。
 突然声をかけられ、びくりと震える女性に構わず幽海は言い放った。たとえ怪しまれたとしても――という考えすら、最早幽海には存在しなかったからだ。

「私に、何かできることっ! ありませんかっ!?」

 ――これが、『癒しの幽霊』遊崎幽海の噂の始まりであった。

***

 それから半年以上経っても変わらず、遊崎すさき幽海ゆみの体と意識は、硝子瓶が油の入った水槽から浮き上がるかの如く立ち現れる。それは決まって、太陽が地平線の下に隠れて空を照らすものがなくなった時分であった。
「……んーっ」
 のびー、とする。
 幽体には骨も肉もないのだが、それでも何故か陰鬱とした気分が絞り出されていくような気がしたのだ。
 そうだと言うのに。
 恐怖、不安、気味悪さ――心の中にはそんな感情が今も渦巻いてざわついている。
 それに、何だかそれ以外の別の感情も――。
「……んんっ」
 ぶんぶんと振り払うように、否定するように、首を横に振って前を見据える。
 忘れろ。忘れろ。忘れろ忘れろ忘れろ。自己暗示でもかけるように心の中でそう繰り返す。
 外の暗夜を隔てる蛍光灯で、オフィスは白く照らされる。その中に乱発するぼやきと叱責。そんな負の感情などいざ知らぬと、小気味良くカタカタキーボードのタップ音が響き渡る。
 箱庭商事。
 この場所で幽海が幽霊として現れてあのOLを助けた後、立て続けに色んな人から声をかけられ、助けるようになっていた。
 幽海にとってそれは良いことだった。目の前の困っている人――疲れている人、苦しんでいる人、悶える人らを助けることで、自分の中にある負の感情から目を逸らせるのだから。それに彼らの方だって助けを求めている。需要と供給は完璧に一致していたし、このことで文句を言う者はこの箱庭商事には誰もいなかった。
 それで雑務を請け負ったり、ちょっとした差し入れをしたり、愚痴を聞いてあげたり、沢山沢山助けてきた――に、沢山。

 だが、どうしてだろうか。
 最近はそれでも黒い感情が拭えていない。先程目覚めた時にも感じた通りである。
 しかも、むしろ心の中に別の黒い感情が沈殿していくのだ――名づけるのなら『陰鬱さ』。より分かりやすく言えば、精神的な疲労であった。
 元々が自分の恐怖や不安から目を背けるために始めたことだ。つまり、自発的にやりたいと思って始めたことではない。素で接しているから無理矢理に優しいキャラクターを作っているわけではないものの、他律的に人助けをし続けていれば当然疲労など溜まっていくものだ。感謝されて疲れが吹き飛んだ、などという美辞麗句はこの場では何の意味も成さない。
 更には、こうして助けたところで恐怖や不安を根治する訳ではない。黒い感情達現実から目を逸らしているだけだ――目を戻せば、それらは変わらず元のまま。
 そんなことは、薄々分かっている。
 しかし――それが分かって、一体どうしろというのか。

「……だめだめ」
 ぱしっ、と自らの頬を両手で叩いて思考を無理矢理リセットする。そのまま頬に貼りついた掌で、頬を上に伸ばして笑顔を作る。
 よし、と気弱な気合を入れた幽海は怒号が響くオフィスに赴く。
「こんばんは、何かお手伝いできることはありませんか?」
 天使のような笑顔で、聖母のように穏やかな声を発する幽海。
 そんな彼女に甘えるように大の大人が大挙する。
 この日も。次の日も。その次の日も、その次の、次の、次の次の次の日も、人間達は幽海の心の中に沈むおりに気付かず、ただ癒しを与えてくれるマスコットとして崇め、群がっていく。
 対する幽海は全ての要求に応える。その行為が無駄で無意味で無価値だということには気付かないふりをして、必死に『癒しの幽霊』の役割をこなして笑顔と愛嬌を振り撒く。

 危険で破綻寸前な共依存関係を抱え、箱庭商事は今日も回ってゆく。
 だが、軋みが起きている車輪がいつかは崩れ壊れるもので。

 この関係性は、2つの意味で終わりを迎えることになる。

***

つづく

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