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【私の感想 #14】Sound Horizon初心者の私が、公宴『絵馬に願ひを!』を観に行きました。

 初めましての方もいつもご覧頂いている方も。透々すきとう実生みつきと申します。
 早速ですが、Sound Horizon(以下SH)をご存知でしょうか。私は存在を知っていて、カラオケでよく歌を聴いていたのとオタク語りを聞いていた程度にしか知らなかったのですが、今回そのパートナーにチケットを取って貰い、公『絵馬に願ひを!』廻壱拾肆夜(2023年5月13日)に行ってきました。
 ということで、SH完全初心者の私が語る、ただの感想記事です。心の中にある感情を整理するために吐き出させて頂きます。何だか往年のSHの曲みたく長くなってしまいましたが、新参者の新鮮な悲鳴としてどうぞお聞きいただければ。
 また、SHファンの方々から「SHを知らない人にこそ読んで欲しい!」という声も頂きましたので、「SH? なにそれ?」という方も是非お読み頂ければ!

 なお、本記事は公宴『絵馬に願ひを!』に関するネタバレを含みますので、嫌な方はブラウザバック! あと、考察記事ではないので、「求めているものと違う!」となった方もお戻り下さい!

 取り敢えず、最初に語彙力の死んだ感想を一言で述べれば、「良かった!!!」と、「これが……コンサート……???(圧倒)」という感じでしょうか。


既成概念をぶち壊す公演ならぬ「公宴」

 そもそも、今回の公宴(誤字ではありません。これが正式表現です)、『絵馬に願ひを!』は、コンサートにゲームブックの形式を落とし込んだ、(一部)観客参加型コンサートです。
 物語の大枠は、「ある日、少女が狼欒ろうらん神社に、父の病を治してもらう様に参拝に訪れる。そこで少女は神社関係者(又は能楽関係者)と出会い、その神社の巫女となる。彼女はそこで、絵馬に書かれた願いに対する神意を解釈する仕事をすることとなる――」というものです。今回、一部の観客(現実的な話をすると、プレミアム席を購入した観客)がその神意を諮られる「大神」として、絵馬の解釈と、それによって紡がれた物語の結末の解釈をすることになります。
 ちなみに、その解釈には大きく2通りあり、1つは紫(死?)、もう1つは青(生?)。そう、解釈の選択によってその人の人生の道筋が大きく変わることになるのです――人の生死を左右するほどに。それはつまり、人の人生を観客(大神)が選択し、そしてその結末に対して責任を持たねばならぬ――ということであり、「大分エグい構造してるな!?」と思ってました。
 ともあれこれは、コンサートやライブの既成概念をぶち壊す存在だ、と感じました。私が経験してきたコンサートやライブには、そもそも観客の意図が入り込む余地が無いのです。コンサートやライブは通常、あくまでも演者の作品であり、観客の作品ではないからです。
 しかしこのコンサートは、真に観客と共に作り上げる作品として成立しています。そしてだからこそ、観客の心によりはっきりとじーんとした感覚を残すのです。その「じーん」とした感覚は、感動により温かさを覚える振動でもあり、殴打により痛みに呻く振動でもあります。


作品に懸ける心の熱量

 無論このゲームブック方式は、ともすれば誰でも思い付くものではありますが、実現するには果てしない労力を掛ける必要があります。だからこそ、今まで実現してこなかったとも言えるでしょう。
 ゲームブック、という言葉を使ったのでそれを思い浮かべて頂ければ一目瞭然なのですが、あるページで選択肢を作れば、その選択肢ごとに物語(ページ)を作らねばなりません。つまり、コンサートでそれを実現するには、分岐先ごとに曲を作る必要があるのです。……一体何曲作る必要があるのでしょう。ちなみにエンディングは10以上ある模様です。マジで何曲あるんですか。
 更にこのコンサートは、言ってしまえばミュージカル要素も入っています。つまり、曲ごとに演者を用意し、演者の演技を細かく決める必要があり、その数は曲の数だけあります。言ってしまえば、複数の演劇が1つの公宴に入っているということなのです。正気じゃない……!
 そして当然ですが、公宴ごとに観客が変われば選択の結果は変わります。ということは、何を演じることになるか本番まで演者本人にすら(どころか主催者のRevoさんにさえも)分からず、その時その時で演技を変える必要があるのです。だから正気じゃないって……!
 しかし、そうであっても作品や演者の方々の熱量もクオリティも全く見劣りしません。無論、小道具や衣装、舞台装置の作り込み(狼欒神社のセットが本当に凄かった……! ホールに神社が顕現した!)もさることながら、着目したいのは物語の作り込み方です。選択肢ごとに異なる物語は、幼馴染との関係(しかも三角関係)に悩む少女、盲目のランナー、禁断の恋に走る教師、高齢出産となっても子を宿し産むことを願う母親などといった、一筋縄ではいかないテーマばかり。彼ら彼女らはそれぞれが問題に直面し、どの選択をすれば最善なのか分からない(どころか正解が無いかもしれない)ものばかり。実際に自分達が直面したら悩むどころでは済まない問題を、数十秒という僅かな時間で自分達が(物語の傍観者=神として)決断をしなくてはならない。そして嫌な予感を多少なりとも感じながら選び、その結末を受け取らされる(で、結果として「じーんとした感覚」を得る。大抵殴られた方の感覚を得られます)。結末を受け取らされる、とありますが、話運びの丁寧さと人間関係や登場人物たちの言動の軸の明瞭性のお蔭で、理不尽さはなく一定の納得性があります(だからこそ心にクる。しかもその選択を取ったのは自分達だし……)。パンフレットのRevoさんへのインタビューで、1曲の中に情報を詰め込む、ということを書かれていたのを見まして、この情報の詰め込み方(取捨選択と情報配置)が異常なまでに上手い方なのだとも感じます。でないと、1つ1つの作品でここまで心を動かされない。
 そして、演者や演奏者の方々の熱量も凄まじい。この作品の熱量に負けぬ程のキャラクターへの理解度の高さと演技力の高さ、或いは異常な演奏力の高さ(特にベースラインやドラムがえぐ過ぎて思わず笑ってしまった私……)を携えて、目一杯に演技・演奏をしてくださっているので、更に作品に深みが増しています。作品に命が吹き込まれる(又はキャラクターの魂が乗り移る)、という表現がありますが、正にこういうことなのだ、ということをまざまざと見せつけられました。本当にキャラクターが臨場感を持って生き生きとしていました(その生き生きと生きているキャラクターの結末は……あの、はい……。ちなみに私は、幼馴染との関係性に悩む金髪の少女が好きです。彼女の台詞(特にバイクに乗って駆けていく時のあの最後の台詞)で私はぞくりと背筋が凍る感覚を覚えたり……。キャラクターへの理解度の高さとそれを実現する演技力が無ければ絶対になしえない領域だと思います。
 なおこれだけの熱量が込められた公宴はやはり途轍もないボリュームで、全部で3時間。しかし、全くそんな時間経過を感じさせない程、あっという間の体験でした。熱が籠った真に面白いものは、時間経過など気にならない


SHにおける、現実の解像度の高さ

 前項でも言いましたが、一部の観客が選ぶのは、全くと言っていい程「答えのない」問いです。例えば、盲目のランナーが「絶対に大会に優勝したい! 金メダルを獲りたい」という絵馬を懸けた時に、提示された解釈選択肢の趣旨は次の通りです。

紫:自分の努力を信じて全力を出すのだ。
青:ライバル選手が欠場すれば勝てるのだろう?

 私が参加した時にはが選ばれました。
 その結末は、血の滲む様な、魂を燃やし尽すような練習を重ね、本番を迎えて結果こそ残したが、優勝は出来ず金メダルを掴むことは叶わなかった。
 今の日本でもそうですが、こうした人に対して「それでもすごい結果だ! だって大会新記録をたたき出したんだよ!」とか「銀メダルでも十分凄いじゃないか! あの緊張感、あの重圧を跳ね除けて一定の結果を出せたのは素晴らしいことだよ!」とか、そういう意見が出ることが往々にしてあります。しかし、女性はそんなよくあるであろう意見を笑い飛ばし、一言、こう叫ぶのです。

私は! 金メダルが欲しかった!!

 これは中々に身を摘まされる話だとも思います。
 しかし、それでは先の様な意見を言わない事が正解なのか、例えば極論、金メダルを獲れなかったことに対して責め立てる様なことを言えば良いのかというとそれも違う。沈黙を貫くのが傍観者としては一番楽な選択なのですが、それすら最善なのかすら分からない(彼女は、「周りを見返してぎゃふんと言わせてやる! 力で捻じ伏せてやる!」というタイプの人間なので、黙っている=誰からも何も言われない、という状況も実は耐え切れないのではないだろうか)。最早、どういうことをすれば正解なのかが分からない。
 そもそも、自分の力でなく周りの選手が倒れることを願ったとしても、それが正解かどうか(ちなみにこちらの選択肢を選んだ結末も別途聞きましたが、いやあ、救われねえ……。そうだとすると、「マシなバッドエンドは果たしてどちら?」という結構意地の悪い選択になるのです)。
 しかし、現実はこういう問題が溢れ返っているものと思います。力が無い或いは足りないが故に、どちらを取っても悪いものが待ち受けているものを選ばされたり、マシな選択をしたと思ったら、最終的には悪い方向に進んでしまったり、或いはどっちつかずで選択をしなかったからこそ、最悪な方向に進んでしまったり。そして、人間と言うのは力無き、或いは力不足な人ばかりで溢れていて、従ってこうした問題も其処彼処に散らばっている。
 Revoさんはこういう人達の現実的な「弱さ」を描きたいのではないか、と感じたりもしています。強さではなく、弱さ。古今東西、強き者或いは人が強くなっていって、敵を挫く物語がごまんとありますが、Revoさんはそういった物語の描き方をしない気がします(しているものもあるかもしれませんが、私が聞いた限りでは無い)。もっと踏み込んだ言い方をすれば、ある意味Revoさんは「弱さ」を抱えた人々に寄り添っていると思います。寄り添っているから、その人間の核に至る部分まで見つめられているからこそ、あそこまで解像度が高いのだ、と私は感じました。
 しかも全く教訓的(つまり読者を主体に仕立て上げる手法)ではなく、徹底的に客体として描く。なので説教臭さもないし、そのキャラクターの境遇を素直に受け取ることができる。Revoさんの物語に説得性と解像度の高さが生まれる。この塩梅バランスが滅茶苦茶上手くて、「これは確かに、ハマる人が出る訳だ……」と納得しました。私もハマりそう……


作品に愛を持つ真摯な紳士

 以上の事を成すのは、並大抵なことではありません。努力だけではこうはいきませんし、熱量だけではいつか燃え尽きてしまいます。私は、この公宴を通して感じたのは、Revoさんへの作品愛と真摯さです。
 作品愛については今迄語ったところの中にも滲み出ているものがありますので割愛しますが(でないといよいよ1万文字超えてしまう、この記事……)、それと共に、1つ1つに対してとても真摯な方だとも感じます。舞台装置にも物語の作り込みにもキャラクター(演者含む)にも楽曲にも一切の妥協が無いし、隙がありません。妥協も隙もないということはそのまま真摯さに繋がります。真摯さとはないがしろにしないこと、雑に扱わないことだと思っていて、Revoさんは何1つ雑に扱われない。でなければ、公宴終了後40分程にわたって演者や演奏者を交えたトークショーじみたことをされませんし、パンフレットで過半数のページを割いて全員のインタビュー記事と紹介文を書かれたりしません。作品を作るのに数年かけることもしなければ、大量の曲を書かれなければ、細かな演出まで気を配ることもしなければ、自ら舞台裏で色々動かれたり、何なら紗幕開ける係を担当したりしません。いや、もう最後のはRevoさんの茶目っ気もちょっとばかし現れている気もしますが(そういう茶目っ気があるアーティストさんは良いアーティストさんだという経験則が私にあります)、兎に角、人に対しても作品に対しても真摯に接しているその姿勢が、私は何より素敵だなと感じました。
 今回のパンフレットのRevoさんへのインタビューにはそのことについても触れられていまして。カラオケなどを聞いている限りでの話になってしまいますが、これまでのSHの楽曲は長い尺の楽曲が多くありました(10分になるものとかざら)。私が普段聞いているのがロックやメタルで、どんなに長くても5~6分。それですら「長い曲!」と感じるのに、10分なんて来た日には「ァ……」と言葉も出なくなってしまいます。元々これは、「普段1アルバムでやるべきことを1曲の中に情報としてどこまで詰め込めるか」ということに挑戦された結果なのですが、Revoさんは今回この方向性をバッサリと切り捨てられています。つまり、今回のアルバムでは、短い曲を沢山作成する、と言う方向に舵を切っているのです(それでも曲に詰め込む情報量と質は切り捨てられていないので、間違いなく作曲難易度は上がっています。得てして作品というのは短い方が作り辛い)。実際、今回の公宴では体感として2~3分程の曲が多かったように感じます。
 何故この方向性を切り捨てたのかについても、Revoさんは答えられていて、一言で纏めるならば「ローラン(注:SHのファンの呼称名)達にまた楽しんでもらう為」に他ならないのです。SHはドイツ語など外国語を用いた歌詞だったり、そもそも言語で書かれていない歌詞だったり(ネットを調べれば幾らでも出てきますので気になる方は検索してみてください)、歌詞の中にギミックを織り込んでいて楽曲を深く考察できたり、様々な方向でローラン達の心をじーんとさせる仕掛けを多数作ってきたと聞いています(主にパートナーのオタク語りで)。しかし、人間の慣れというのは恐ろしいもので、こうした方向性を続けていってもいずれは「いつものSHだ……」となって、最初程の感動は訪れなくなるものです。これは私の実感とはズレていませんでして、私が今追いかけているアーティストの方々も、常に挑戦を忘れない方々だったりするのです(その結果、脳味噌型のUSBメモリをCDとして扱ったりとか、果ては画集の絵を読み込んで楽曲が聞けたりと、ものすごい方向性に走ることもしばしばですが)。
 Revoさんも挑戦を忘れられない。その結実として現れたのが、今回のゲームブック型(一部)観客参加制コンサート『絵馬に願ひを!』なのだと思います。そしてその結実は、作品に対する真摯さの結果だけでなく、ローラン達に対する真摯さの結果でもあるのです。エンターテインメントという手段で日々に刺激と潤いを与えんとする、創作者エンターテイナーとして、真摯にファンローラン達に向き合っている姿勢なのです。
 SHというのは、作品のクオリティが凄まじく高く、エンターテインメントとしても素晴らしいからこそ沢山の方々ローランが付いて行っているのだとも思いますが、こうした人柄というか姿勢にも惹かれているからこそなのだとも、私は思います。
 小説などの作品を創作している身として、ここまで真摯に正面から向き合う姿勢は、とても見習いたいです。


未来へ……

 ということで、私の感想語りを終えたいと思いますが、最後にもう1つ言い残す事があるとすれば、まだまだ私はこの『絵馬に願ひを!』の作品を味わい尽くせていないことです。この作品には、これまでの地平線(アルバム)の要素がふんだんに詰め込まれていて(歌詞だけでなく、曲にも)、考察する要素が大量に含まれていると思われます。それはつまり、これまでの地平線を聞き尽くさないと味わえないということであり、誤解を恐れずに申しますと、他のローランの方々と比べれば「私は、勿体ない事をしているなあ」という実感があります。
 しかし同時に、この公宴は、「SHの沼」への誘いでもあるのだと思います。この真意を読み解きたくば、今までの作品も全て触れてみよ、という。どれだけあるかと言うとアルバム8枚分くらいある訳なのですが(多分ミニアルバム的な形態を含めるとそれ以上)、ちょっとお金と相談しつつ、この趣味にも片足を突っ込んでみようかな……と。牛歩の如くになる気はしますが、気長に付き合ってみようと思います。


以上!

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