ロスタイムの終わり、2024年の始まり
私が初詣に行ったから、1月16日は正月記念日
たしかに、年は明けた。大晦日に蕎麦を食って、紅白でAdoちゃん観て、ゆく年くる年が始まって、風呂に入って寝て、雑煮とおせちで酒を飲んで、なんかよくわからない走っている若者たちを眺めたりした。正しきニッポンのお正月である。だがなぜだろう。まるで年が更新された感覚がない。
生活としても、何かが改まるわけでもなく、だらだらと昨年末からのひきこもり生活が続いている。というか、悪化している。なぜだろうか? 私は考えた。そうか、初詣に行っていないんだ。
私は毎年、年が変わるぐらいの時間に家を出て、近所の神社に必ずと言っていいほど初詣に行っていた。無料でおでんと甘酒が飲めるからだが、そうすることで、別に神など信じちゃいないが、たしかに何かが改まった気はしていたのだ。気がする、というのは大事なことだ。神がそこにいる気がするなら、神はいる。そういうことだ。
ただ、今年はどうにも足が動かない。そもそも私は神がいる気がしたことがない。信じていない神に祈るという自己矛盾がどうにも気がかりで、もういっそ全部そういうのやめてよくないですか? と思えてきたのだ。そうして、初詣という行事をやめて、半月ばかりをだらだらと過ごした。
しかし、ふと思った。私には祈ることはなくとも、他人のために祈ることはできるのではないか? そう、たとえば、ガンを患って、日に日に弱っていく父親のためになら? 神はおらずとも、祈ることはできる。この、まるで片付いていない、足の踏み場もない部屋からでも、祈ることはできる。だが、それで果たして己が納得するだろうか。そういうときに便利なのが、おそらく神社というものなのだろうと、思い至ったわけです。そういう人間が祈るのに、近所の「氏神」とかがいるような神社は不向きであろうと思われた。そういうわけで、昨日、あの施設に向かった。
ご覧の通り、冬らしく突き抜けるように晴れた日だったが、写真では伝わらないものがある。風です。昨日、つまり1月16日は、かなり全国的に強風――暴風と言ってもいい――が吹き荒れていた。この東京(あるいは埼玉)においてもそうで、東京の最高気温は6℃だった。すさまじい風が吹いていた。外に出て二歩目で「帰ろう」と思った。そして、実際に帰る理由があった。この施設――ところざわサクラタウンというのは、KADOKAWAが東所沢という東所沢以外のすべての場所から遠い謎の立地に作った謎の総合施設で、見て判るように神社までこさえてしまった。その神社では普通の神社のように御守なども売られているのだが、さすがKADOKAWAというべきか、「締切守」という他ではなかなかお目にかかれない、締切を抱えた作家やワナビにぴったりの御守が売られている。
色は三種あるのだが、この写真の締切守がまるで、今は喪われたTwitterのテーマカラーのようであり、当時フォロワー(やフォロワーのフォロワー)の一部でキャッキャしていたのだが、その中でも私はかなり早い段階でこれを手に入れていた。そしてそれ以降も、この施設を訪れるたびに違う色の締切守を買い求め(締切が守れないので……)、いつの間にか全種コンプリートしてしまっていたわけだが、今回、年が変わったということもあり、一度これらをお焚き上げしてもらい、新たに買い直そうと思った。思ったのだが、それを部屋に全部忘れてきたのだ。しかたなく部屋に取りに戻り、いま一度家を出て、電車に乗り、暴風の中を歩き、あの施設へ向かったわけだが……
こんなことが許されていいのか?
どうやら、あの施設はほとんどすべてのテナントが火曜定休となっているらしく、道理でほとんど人がいない。唯一開いていたタリーズでモカマキアートのSを注文し、喫煙所でたばこを吸った。いったい何をしに来たというのだろうか。呆然としながら立て続けに二本たばこを吸い、おそろしげな風の音を聞いていた。
しかし、人はおらずとも、祈ることはできる。神社とはそのために存在し、その機能だけは年中無休、24時間、あらゆる衆生のために開放されていなければならない。だから私はたばこを灰皿に捨てて拝殿前まで歩き、財布から30円を取り出して賽銭箱に投げ入れ、儀礼的に二礼二拍手し、祈った。長い時間、頭を垂れて手を合わせ続けた。まず、父親の調子が少しでも良くなるように。家族が少しでも幸福な時間を過ごせるように。そして最後に、集英社ライトノベル新人賞を受賞するように。KADOKAWAの神に向かって祈った。二次選考で落ちたらこれのせいです。
祈りとは心の所作
そうして、なにしろすべての店が閉まっているため、私は他に何もできることがなく、往きよりもひどくなり砂塵を巻き上げている暴風のなか、おめおめという擬態語が似つかわしい足取りで家に帰った。腹が立ったので帰り際にコンビニに寄って、いつもよりかなり上等なたばこを買った。貧乏性かつひきこもりなので、せっかく外出して何の成果もなしでは許せなかったのだ。
しかし、と私は思う。何をしにあの施設まで行ったのかといえば、私は祈りに行ったのだ。締切守全種を持っていったのも無駄になったし、新しい締切守の加護にもあやかれないが(効果があるのかは疑わしいが)、それらはしょせん副次的なもの――「ついで」であり、最大の目的は祈ることだった。だから、むしろこれでよかったのではないかと思う。神がそこにいるかはわからない。たぶん、いないだろう。しかし、神がいようがいまいが、祈りには関係がない。私は祈った。本当にただ、祈るためだけに、電車に乗って強風のなかを歩いて砂まみれになったのだ。祈りの"純度"という意味では悪くない。砂塵を浴びせられながら歩いたせいか、今日はなんか鼻水とくしゃみが止まらないが、それもまたアイカツであろう。
明けたね~~~~~~~~
そういうわけで、本当の2024年は今日から始まる。あけましておめでとうございます。昨日までのは嘘です。嘘の2024年です。2023年の幻肢痛みたいなもんです。だから進捗がぜんぜん出てなくてもしょうがないんです。今日からだぞ。みんな目を覚ませ。今日から2024年が始まったので、みなさん、今日からバリバリやっていきましょう。今日なんもしてないけど。あけましておめでとうございます! あけましておめでとうございます!
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