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路肩の眩耀な生命力



「ちょいとそこの人間。私にその器、譲る気はないかい」

 信号がぽかぽかと点滅して、ちょっと急げば渡れるなぁと考えたのとは裏腹に、足は止まることを望むみたいにゆっくりになり、赤信号に変わると同時に歩道の端に辿り着いて止まった。

 悠久の時を経たような、この世の理を全て見てきたかのような、老齢な声だった。

 〝それ〟と目が合った途端、ニヤリと笑った気配がした。実際に〝目が合う〟などということはあり得ない。あり得ないのだけれど、確かにそう感じた。

 歩道の端にある低木の街路樹。確か、躑躅だった気がする。少し前まで花を咲かせていたのを、ここを通る度に横目で見ていた。その低木の隙間から、太陽の光を求めるかのように首を長くした春紫苑が真っ直ぐピンと背筋を伸ばして佇んていた。ゆうに私の肩くらいはありそうだ。よく知る春紫苑を記憶を辿り思い出す。確かに白い花を咲かせて真っ直ぐに伸びている雑草だが、ここまで背は高くない。せめて膝丈くらいだろう。目の前の春紫苑に視線を戻す。

 ここまで高くなれるものなのか――。

 低木の隙間に根付いてしまったが故に、太陽の光が届かず、それでも生きるため背を高くして低木を追い抜き、自ら太陽の光を浴びにきた。その生命力の強さに感心する。その強さには勝てないのではないかと思わされるほどに。

 ちょっと急げば渡れた信号を渡らなかったのは、急ぐ気力がなかったから。どうしてもこの窮屈な日常からは抜け出せず、毎日学校と家の往復で、生きたところでその先にあるのは死で、何のために生きなければいけないのか分からず、生かされているのか分からず、ただ過ぎていく日常に気力が消耗していたからだ。

 どうしてここまで背を高くできるのか。その根気にすっかり負けている。

「その器、そなたには勿体無いだろう?」

 うつわ…うつわ…器?器など持っていない。器とはなんだろうか。言葉の真意を探るようにまじまじと春紫苑を見つめる。

「その器で私が如何様にも謳歌して見せようじゃないか」

 器って体のことか! 入れ替わろうと提案されているのか。私が人間としてこの体を扱うことは勿体無いと、そう言いたいのか。
 太陽に向け、真っ直ぐに伸び、慎ましやかな花を咲かせる草を見つめる。それから、ふいに「そうかもしれない」と思ってしまう。この生命力漲る魂なら、この窮屈からいとも簡単に抜け出してしまいそうだ。生まれた場所が悪かっただなんて、一度も思わないのだろう。何も持っていないと思うこの器からでも、何かを見出して活かすのだろう。

 この器で、生きるのだろう。

「どうした、呆けて。譲る気になったか?」

 老熟した声に気押され、思わず頷いてしまいそうになった時、車が動き出した気配がした。赤信号で止まっていた車が排気ガスを吐く。

 渡らなければ――。

 咄嗟に目の前の信号に目を向けた。青に変わっていることを確かめると、もう一度、春紫苑に視線を向ける。もう声は聞こえなかった。

 いつもと変わらない日常に向けて、先ほどよりは強い足取りで、一歩踏み出した。

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