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ぶらす!~彼女たちの奏でるビューティフルハーモニー~第1話

プロを目指していた母親の影響で、小学3年生からトランペットを始めた高城沙織。中学の吹奏楽部では、コンクールで良い成績を収めることに固執していたが、ある出会いから、「音楽の本当の素晴らしさとは何か?」を自問するようになる。その「気づき」を与えてくれた少女、西条茉莉奈の後を追い、吹奏楽部としては中堅の女子校へ進学した沙織を待っていた、波乱の吹奏楽部生活とは?


同級生や上級生、他校生徒との、様々な出会いや、恋愛感情に翻弄されながら、「音楽の本当の素晴らしさ」を見つけるために、沙織は、今日もトランペットを吹き続ける。

【練習番号A】「始まりのアインザッツ」

 春の、柔らかくうららかな陽差しが降り注ぐ、通学路の両側に桜並木のあるなだらかな坂道を登っていくと、その学校はある。近年の温暖化で、桜が咲く時期はどんどん早くなり、今ではさすがに全て散ってしまい、完全に葉桜になってしまっているけれど。

 F県立F女学院高等学校。

 それが、中学を卒業して高校に進学した私が、通うことになった高校だ。

 自宅からの距離は歩いて6、7分。私の足がもっと速ければ、5分たらずで到着してしまうくらいの好立地だ。偏差値はごく平均的で、今まであまり勉学に勤しんでいなかった私にとって、ここに行くことがほとんど約束されていたような学校だ。ただ、公立校にしては珍しく、共学でないのがマイナス・ポイント。一人っ子の私にとって、三年間とはいえ高校卒業まで同性に囲まれて過ごすのは、なんか違うという気がするのだ。

 だが。

 私がこの学校を選んだのには、家から近いとか、偏差値があまり高くないとかいう以外に、明確な理由があった。

 私は、母親の影響で小学校3年生の時からトランペットを吹き始めた。

 私の母は、結婚する前からトランペットを吹いている。もともとプロを目指して音楽大学に通っていたけれど、プロにはならず、今は地元のオーケストラに所属して、主席トランペットを担当している。

 だけれど、小学校の時は、学校に吹奏楽部やバンドはなかった。そこで、母親だけでなく、私も楽器を始めたということで、家で小さな防音室を作ってくれて、学校から帰ると、ずっとそこで練習していた。

 ただ、私が楽器を吹く約束事の一つとして、学校の勉強が優先だったので、学校から帰ると宿題を早々と済ませ、そこで練習するのが常だった。

 母親が、オーケストラで演奏する曲を練習するときは、母親のパートとは違うパートを吹き(いわゆる「下吹き」)、よく相手をしたものだ。

 中学になると、吹奏楽部があったので、そこで3年間、トランペットを担当した。

 小学生のときよりも、そこそこ上達したので、母親が防音室に来ていない時、母親が吹いているパートをよく演奏した。だから、有名なクラシックの曲のトランペットのパートは、もうほとんど暗記してしまった。

 それで余裕が出たのか、トランペットがそのパッセージを吹いているとき、他の楽器はどういうパッセージを吹いているのか気になりだし、オーケストラ・スコア(総譜)にも興味が出て、色々なスコアを読んでいるうちに、「移調楽器」の楽譜も、自然と読めるようになった。トランペットも移調楽器なので、移調楽器の楽譜を読むこと自体に抵抗はなかった。

「移調楽器」というのは、変ホ調のアルト・サックスや、ヘ調のフレンチ・ホルンといった楽器など、ピアノやヴァイオリンのようにハ調で楽譜が書かれていない楽器のことだ。

 移調楽器の中でも、今の楽器のように音の高さを変える機構が付いていなかった昔のオーケストラのトランペットは特殊で、曲のその箇所の調性の主調に合わせた調の楽器を使用することを前提に楽譜が書かれていた。曲の途中で転調して調が変われば、違う調の楽器に持ち替えて吹く。

 昔の曲の調や転調の種類はたかがしれているのだけれど、ニ調やト調、イ調のトランペットなど、その頃にあった調の楽器の多くは、次第に使われなくなっていき、今では全くと言っていいほど使われなくなった。今では殆どの場合、吹奏楽で使うのは変ロ調のB♭管、オーケストラでは、どの調で書かれている曲でもB♭管とハ調のC管の楽器を使うのが一般的となっている。たまに変ホ調やごく稀にニ調の楽器を使う時もあるけれど、あれば便利という程度だ。

 だが、昔からの伝統で、半音階で音の高さを自由に変えられる機能が楽器に付いてからも、100年近くは曲の途中で何度も違う調の楽器に持ち替えて演奏することが指示されていたり、今では使われていない楽器の調で書かれていたりして、特にオーケストラのトランペット奏者は「移調」から逃れることは出来ない。

 移調楽器を演奏することで大変なのは、例えばヘ調で書かれた楽譜を変ロ調の楽器で演奏するというように、楽譜に書かれた調と違う調の楽器で演奏する場合、指使い(運指)が異なってくるので、それぞれの組み合わせの指使いを覚えるか、頭の中で変換(移調)しながら演奏しなければならないことだ。

 吹奏楽だけしかやっていないと、B♭管用に書かれた楽譜をB♭管の楽器で吹くことが殆どなので、意識することは全くないけれど、吹いている楽器とは違う調で書かれた楽譜を読まなくてはいけないところは、音楽大学に入ってクラシックの曲を中心に演奏するようになって、皆んな一様に最初に苦労するらしい。

 もちろん、ハ調で書かれた曲をハ調の楽器で、変ロ調で書かれた曲を変ロ調の楽器で演奏するのなら何の問題もない。だが、ハ調の楽器と変ロ調の楽器で吹き心地や音色は大分変わってくる。だから、自分がメインで使用している調性の楽器で、どの調で書かれた楽譜にも対応できるそれぞれの指使いに慣れた方が、何かと都合がいい。

 私が通っていた中学は、吹奏楽コンクールでは、強豪校でも弱小校でもなく、調子が良い年は県大会の良いところまでいくことはできても、調子の悪い年は、銅賞にも届かないブロック大会止まり。私が2年生の時にはブロック大会銀賞、3年生の時には金賞になったが、県大会に出場することは出来なかった。「来年は県大会出場だね!」なんて下級生にプレッシャーを掛けていたけれど、果たして、今年度はどうなるだろう?

 そんな中学時代、今思うと私の人生を決定づけたといってもいい、一つの出逢いがあった。

 といっても、実際に逢ったわけではなく、私が一方的に意識していただけだけど。

 その人は、私達の学校よりはレベルが下の、万年ブロック大会止まりの、隣の学区の中学校の吹奏楽部でトランペットを吹いていた。隣の学区ということもあり、その存在自体、部として、もともと意識にあった。けれど、それは部全体としてであって、生徒一人ひとりについては何も知らなかった。

 ところが――。

 あれは、中学2年の吹奏楽コンクール。課題曲に次いで演奏される自由曲で、その子がソロを吹いた。あまり長いパッセージではなかったけれど、その子の演奏は、私の印象に強く刻まれた。その時は知らなかったのだけれど、彼女も中学2年生。上級生を差し置いて、ソロを2年生が担当するというのは、学校の部活では、よほどのことがなければありえない。でも、コンクールでどうしても上位入賞を果たしたければ、「学年に関係なく、上手い人がソロを吹く」という当たり前の方法をとっただけとも思える(あとで確認したら、やっぱりそうだった)。つまり、私が特別に意識するようになったその子は、それだけトランペットの演奏技術が高いということだった。実際、あの時のあの演奏は、凄かったし。

 その子の名前は、少し後で知ったのだけれど、西条茉莉奈さんという。

 偶然にも、私の幼馴染、足柄吉美の友達が茉莉奈さんと同じクラスで、吉美を通して、その彼女からの茉莉奈さんの情報を仕入れていた。

 そしたら、中学2年の進路希望調査で、茉莉奈さんが、F女学院を第一志望にしていたと聞いた。

 吉美の友達のその子は、席が茉莉奈さんと同じ列の一番後ろで、書き終えた進路希望調査書を集める役だった。その子は、吉美から茉莉奈さんのことをいろいろ聞かれるので、とりあえずの軽い気持ちで茉莉奈さんの調査書に書かれていることを盗み見てしまったという。まあ、特に秘密にすることでもないし、見るくらいは良いのかもしれないけれど、それを別の学校の生徒にリークするのはどうなんだ。

 それによって、私の進路も自動的に決まった。もともと、通うことがほとんど決定事項になっていた学校なので、躊躇はなかった。

「やっぱり、私はF女学院に通うことが運命づけられていたのか」。

 ちなみに、私の母親もその学校出身だ。もし、私がF女学院の吹奏楽部に入れば、自分の母親がOGになる。

 それはそれとして。

 とはいえ、トランペットを吹くことが人生の大半を占めている私にとって、茉莉奈さんの後を追って、F女学院に通うというのは、究極の選択だ。

 中学校には、学区というものがあって、住んでいる地域によって行く学校が決まっている。隣り合った学校同士の境界線の近くに住んでいて、隣の学区の学校の方が距離的に近い、というような場合などには、越境通学もある程度は認められるものの、私のように、最寄りの中学が歩いて10分もなく、隣の学区の学校には自転車でないととても通えないともなれば、越境通学など認められるはずもない。

 それに、「学区関係なく、どの中学に行っても良い」と言われたところで、一番近くにある学校を選んだろう。自転車で片道30分以上もある中学校に通うなど、論外だ。

 もっとも、中学校で吹奏楽に入り、吹奏楽コンクールで上位入賞することにこれほどまでにこだわるようになるなど、小学生の私には想像もつかなかったことなので、吹奏楽の強豪中学を選んで入るなど考えようがない。

 そうなのだ。中学時代の私は、吹奏楽コンクールの成績にかなり拘っていた。

 だけれど、高校は、違う。

 公立校なら学区は一応はあるが、その学区は中学に比べるとかなり広く、その中に吹奏楽強豪高の1、2校はあるだろう。私立なら、日本全国、どこでも選び放題だ。それこそ、毎年全国大会で優勝しているような超強豪校に入ることだって、夢ではない。

 中学は、学区の関係で、たまたま吹奏楽の強い学校に行けなかった。

 しかし、高校は違うんだ・・・。

 そう本気で思っていた時期が、私にもありました。

 なので、中学生の私の進路の選択肢は2つ。

 一つ、ある程度、吹奏楽が強い学校に行く。

 一つ、茉莉奈さんと同じ学校に行く。

 結局、私が選んだのは後者になったのだけれど、後悔はしていない。F女学院にだって、吹奏楽部はあるので、部活動でトランペットは続けられる。なにしろ、大学で未来の夫(つまり、私の父親)と出会い、学生結婚するまで、プロを目指していた母親が通っていた学校の吹奏楽部だ。

 昔は、コンクールでそれなりに結果を残していたとも聞く。なんでも、県大会までは、余裕で進むことのできるレベルだったらしく、数年に一度は支部大会に出場、そして、全国大会にも、1、2回行ったことがあるほどだったという。


 ――入学式当日

「さて、ついにやって来ましたな」

 真新しい制服を身に纏った私は、校門の入り口前でそうひとりごちると、「祝・入学! F女学院高等学校。令和✕年度入学式」と書かれた看板の置かれた校門を横目に、高校の敷地に入っていった。まあ、この高校は、中学への通学路の途中にあって、毎日前を通っていたので、新鮮さはないけれど。

 校門を入ると、50メートルくらい先に人だかりがあり、何やらにぎやかだ。

 集まった大勢の人びとのために、昇降口の入り口はほとんど見えなくなっていた。

 そうか、クラス分けの発表が掲示されているんだ。

 入学式は、クラスに分かれて出席するので、まずは、どのクラスに配属(?)されたか確認しないとだ。

 中学の時は、自分のクラスに行く前に、入学式が行われる体育館に直接行って、決められた席順に座った記憶があるけれど、今回は、まず、教室に集まってから、クラス単位で体育館に移動することになっている。

 クラス分けの表が掲示板されている、大きな木が何本かある方向に、足早に歩き出した途端、

「沙織ぃ~!久しぶりだね~!」と脳天気な明るい聞き慣れた声が私を背後から呼んだ。

「私を呼び捨てとは、いい度胸じゃないか。あん?」

 私が足を止めて振り向くと、忘れたくても忘れられない、見慣れた顔があった。

 吉美だ。

 どういう縁か分からないけれど、中学の三年間、ずっと同じクラスだった子だ。しかも、幼稚園からの幼馴染。もはや、高校まで同じとは。

 知ってたけど。

 学校が始まって、いつの日にか、吉美に出会うこともあるだろうな、という程度のことしか考えていなかったが、こんなにも早いタイミングで吉美と遭遇するとは。可能性としては十二分に起こりうる可能性があったのに、これは全く想定していなかった。

「あ、吉美じゃない。元気してた?」

 ありきたりな挨拶。

 そりゃそうだ。

 春休みは短い。中学の卒業式の日に別れて以来、十日程度しか経っていないのだから。

 何年かぶりに出会った生き別れの親子じゃあるまいし、大袈裟な挨拶なんていらない。これで十分だ。

 吉美は、声を上げて笑い、

「ははは。あた棒よ! 元気だけが取り柄なんだから。私から『元気』をとったら何が残るっていうのさ!?」

「う~ん――。食いしん坊でおっちょこちょいで、厚かましいところ? あ、天然キャラってのもあるよね」

「それ、取り柄って言う?」

 私が、まだまだ吉美の「取り柄」を箇条書きしようとしているのを遮って、吉美が突っ込んでくる。

 素っ頓狂な顔をした吉美が首をかしげると、ゆるく付けた胸のリボンも同時に傾く。

「まあ、お互い、無事に高校進学出来たんだし、細かいこと気にしない、気にしない」

「それはそうと。例の、沙織の『憧れの君』だけど、私達と同じクラスだったよ」

 吉美は、唇にほんの少しだけ笑みを浮かべながら、朝食のメニュー言うみたいに、あっさりと言い、ニッコリと笑った。

 この天然ボケの吉美ときたら。なに、いきなりネタバレしとんじゃい。

 とはいえ、この予想外、というか考えもしなかった事態に、私の気持ちは、一気に高ぶっていった。

「マジで?」

 私は、これまでにない早口で言った。

「うん。マジ、マジ。自分の目で確かめて来な!」

 吉美は、私の目を見ながら力強くそう言うと、自信満々に大きな身振りで掲示を指差す。

 できれば、他人に言われる前に、自分の目で発見したかったんだけど、それ。

 それに、「私達?」

 吉美は、たしかにそう言った。

 ――ということは・・・。

 げっ、それって、また吉美と同じクラスってこと? 四年連続って、そんなことあるのか。

 そういえば、クラス分けって、どういう基準でやっているんだろう?

 たしか、吉美の他に、三年間同じクラスになった生徒はいなかったはず。

 なにか明確な基準があって、私と吉美が同じクラスになる要素がそこにあるのだとすれば、不思議なことではないけれど。

 どうか神様が手抜きしたのではなく、これから良いことの起こる伏線でありますように。

 クラス分け表を見ると、本当に茉莉奈さんと同じクラスだった。この偶然も、クラス分けの基準、とやらのなせる技なのか。

 だとすれば、来年も同じクラス? 「ムフフフ・・・」

 いやいや。それならば、自動的に吉美も付いてくるぞい。

 一人、おかしな妄想をしていると、そろそろクラスに入らないといけない時刻になったらしく、男性の先生が、掲示の前に溜まっている新入生へ校舎に入ることを促しに来た。

 女子校にも、男の先生いるんだ。そんな当たり前のことを新鮮に思いながら昇降口に入り、靴を外履きから上履きに履き替える。上履きは、靴の裏とつま先の部分に色がついている一般的なもので、中学の時と同じタイプだ。けれど、学年カラーが違う。もちろん、学年カラーが同じでも、中学の時の上履きを使い回すわけにはいかないけど。

 中学の時の学年カラーは赤でお気に入りだったが、今年からは緑色。緑色の学年カラーって・・・。学年カラーは、入学する年によって、体操服のラインやジャージなど、持ち物の色が変わってくることだ。赤は、今年の三年生で、二年生は水色だ。そして、今年の学年カラーは緑。中学の時は、ひとつ下の学年(つまり、今年の三年生)が緑で、「ないわー」と思っていたが、まさか、高校になって自分の学年カラーが緑色になろうとは・・・。

「緑の学年カラーってさ、ありえないよね」

 後ろの方で、吉美の嘆き声が聞こえる。

 いや、実際あるのだからしょうがないだろう。中学の時だって、下級生の学年カラー散々バカにしてたじゃなかい。「カエルじゃあるまいし」って。私は覚えてるぞ、吉美。そもそも、一年生の学年カラーは前年の三年生の学年カラーだからな。部活に入ってない吉美は3年生との付き合いがないから、印象薄いだろうけど。

 吉美の話を適当に流しながら歩いて行ってしばらくすると、教室についた。

「1-A」。

 1年生の教室は、校舎の一階にある。二階は2年生、三階が3年生だ。覚えやすい。

 1-Aの教室は、1年生の教室の中で、一番昇降口に近い場所にある。昇降口から教室があるのと反対の方向に曲がっていくと、そこは職員室だから、昇降口に一番近いということは、職員室にも一番近いということになる。

 部活動の部室は、職員室や普通教室がある校舎とは別の校舎、部室棟にある。部室棟には、主に運動部の部室が集まっている。多くの文化部は、普段の授業で使う普通教室や、理科室や生物室などの移動教室で活動し、準備室を部室として利用している。

 部室棟で活動する文化部は、写真部や新聞部、天文部など、ある程度独自の設備が必要で、普通教室や移動教室で活動するには支障がある部活だ。

 中でも、吹奏楽部は、独自の施設が最も多く必要な部活動といえる。ティンパニーやコントラバスなどの大物楽器の他、部が所有している楽器もたくさんあるし、楽譜の保存場所も必要になる。そもそも、合奏練習には、50~60人が一度に入ることのできる広さが必要だ。

 この学校には、音楽室が二つある。

 吹奏楽部は、そのうちの大きい方、第一音楽室を使う。小さい方の音楽室、第二音楽室は、軽音部が使っている。日本の音楽を演奏する伝統音楽研究部(この高校には、そういう部活があるのだ)は、部室棟とは別に、独自の部室と活動拠点がある。昔は移動教室が集まっている校舎で活動していたそうだが、人数が少ないのと、やはり音が出るので他の部活の活動に支障があるということで、20年前に増設された新校舎に生徒会室が移動したのをキッカケに、旧生徒会室を使うことになったそうだ。

 母の受け売りだけど、もともと生徒会室は、在校生が「旧校舎」と呼んでいる、体育館の横にある小さな校舎にあった。でも、普通教室や職員室がある本校舎と離れた校舎にあるのは不便だという声が、学校創立時からあったという。生徒会は、在校生の代表だから、「生徒会に不便を強いるのは、学校側が生徒を蔑ないがしろにしているのと同じだ」と主張する強硬派(学生運動?)も昔はいたらしい。そういう経緯で、この学校には生徒会室の移動問題が長年の懸案事項だったのだけれど、めでたく解決した。

 伝統音楽研究部は、音楽科教育の学習指導要領の改訂によって、充実されることになった、日本の伝統音楽の授業に対し、文化庁が行っている「伝統音楽普及促進支援事業」が適用されて、割と優遇されている。普通の生活をしているうえで、三味線とか箏そうや琴こととか、日本の伝統楽器の実物に触れる機会はそうそうない。

 この学校の説明会でも、それができることが強調されていたのだけれど、そのことにどれほどのニーズがあるのかは分からない。それ言うなら、吹奏楽部も、西洋の伝統楽器に実際に触れられる稀有なケースだぞ。トランペットだって、実物に触ったことがある人なんて、音楽をやってない人では僅かしかいないだろう。

 ともあれ。

 1-Aの教室の前に来ると、席順が書かれた紙が貼ってあった。全体を見ると、どうも名前の五十音順になっているみたいだ。私の名前は“た”から始まるので、真ん中辺か。吉美は“あ”なので、こういう時はいつも先頭になる。小3のときだけは、相澤さんという人がいて、珍しく出席番号が二番になっていたけど。

「あー。やっぱり私一番最初だよう。自己紹介また一番最初かあ」

 なんて、吉美が声を上げていたけど、一番最初なんて、いつものことじゃん。9回目ともなれば、毎年の恒例事項じゃないか。何を今さら。それに、自己紹介はいつもの持ちネタがあるだろ。小3のときみたいに、二番目になったからといって、一番目でも二番目でも、本質的には何も変わらんぞ?

「そりゃそうかもだけど、一番目ってのは、それなりに注目されるんだよね。一番目と二番目じゃ、大きな違いだよ。万年中間管理職の沙織には分からないだろうけど」

 珍しく、吉美が反論してきた。

 中間管理職って・・・。

「左様でございますか。万年中間管理職の私には、とても想像できない苦労ですなあ」

 まあ、頑張れ。お手並み拝見させていただきましょう。

 指定された自分の席につく。

 4月とはいえ、まだまだ肌寒い日のあるこの時期、教室の窓は締め切られているのだけれど、外光を取り入れるため、カーテンは開け放たれている。「もしかすると」と思い、窓の外をみやると、私の家が見えた。私の部屋の窓までばっちり。

「やっぱり」

 私の部屋からこの本校舎も見えるのだから、当然か。この教室は一階にあるけれど、学校自体が周りから少し盛り上がった丘のような場所にあるので、一階からでも見えるのだ。

 まあ、あそこに私の家があると知っている人が、じっくりと目を凝らして直視しないと分からないくらいの距離にはあるのだけれど、吉美なら、すぐに分かるだろう。

 あ、窓閉め忘れて出てきちゃった。家を出る前に、学校を見てたんだよな。高校入学前の最後の景色が見たくて。実際にこの高校に通いだしてからは、また違う風景に見えると思うから。雨が降る予報じゃないからいいか。この校舎から私の部屋の窓が見えることは誰にも言わないでおこう、っと。吉美には、後で口止めしておかないと・・・。

 席についてしばらくすると、先生が二人入ってきた。

 先生の自己紹介によると、一人は担任で、もう一人は副担任だそうだ。担任は、30代中頃から40代前半くらいのキャリアっぽいキリッとした表情。数学の先生だという。今日は入学式というハレの日だ。担任はカチッとしたタイトな濃紺のスーツの中に、大きめのリボンタイの付いた白いブラウスを着て、これ以上ないというフォーマルな格好をしており、キャリア度が半端ない。

 副担任は20代後半くらいの、まだ大学生の雰囲気が残っている穏やかそうな表情。担任ほどのお硬い服装ではないけれど、薄ピンク色のパンツスーツに、襟のないバンドカラーの黒いブラウスで、フェミニンな印象を残している。

 二人とも私達と同性だ。聞くところによると、女子校の雰囲気に慣れるため、1年生にはできる限り女性の担任が就くらしい。副担任までは手が回らず、男性が就くこともあるようだけれど。やっぱり、女子校にも男性の先生はいるんだ。公立校だから、教育委員会に指示されたまま配属されるだけなので、男性でも女性でも、先生は先生だ。どっちだって本質的には変わらないのだけれど、女性にしか分からないような相談事もあるから、やはり同性の方が話しやすいってのはあるけど。

 先生の挨拶や自己紹介が終わると、入学式場となる体育館への移動時の注意や、入学式の流れなどの説明をするショート・ホームルームがあって、それからすぐに廊下に列を作り、体育館への移動が始まった。

 教室が昇降口に一番近いA-1は、後のクラスの事も考え、迅速に行動するように注意される。なるほど、教室から廊下に出て、後の方のクラスを見ると、もう既にちらほら列を作り始めている。

 列が出来るやいなや、列の整理をしていた副担任が、列の最後尾から「OKです!」と、最前列で列が出来るのを見守っていた担任に合図を送る。

 副担任のその合図を受け、担任の「それでは、移動開始します」という一言で列が移動し始める。さすがに、私語をする生徒は一人もいない。そりゃ、いろいろな中学から集まった入学したての高校で、こういう状況下で気軽に無駄話が出来るような相手もいないのだから。あの脳天気でおしゃべりな吉美だって、厳しそうな雰囲気を全身にまとった担任の目の前で、小さくなっている。そもそも吉美の身長は女性としても低い方。170センチ近く身長がありそうで、しかもスラッとしたモデル体型の担任との身長差は、列の後ろから見ると強調されて、まるで親子のように映る。

 体育館へは、本来、昇降口で上履きから外履きに履き替え、校庭を斜め横断して体育館の出入り口に着くと、今度は体育館シューズに履き替えないといけない。でも、入学式は保護者や来賓など、部外者も多く出席する。そういう方々に、体育館シューズとか上履き持参で履き替えさせるわけにはいかないので、床にシートを張り巡らせて、土足でも入れるようになっている。体育館のスペースの関係で、在校生は出席しないけれど、入学式は、生徒会の指示のもと、各委員会のメンバーや在校生有志で準備される。春休みの貴重な一日を、入学式の準備に当てて頂き、感謝です。

 開け放たれた体育館の出入り口から、「開式の辞。これより、令和✕年度○○女子高等学校の入学式を執り行います」と、スピーカーを通した声が聞こえる。これが、入場の合図になる。

 この言葉を受けて、担任が列の先頭から「それでは、入場を開始します。全体、進め!」と号令をかけると、吉美がいる最前列から、順々に列が進み始める。

 体育館に入っていくと、保護者や来賓が拍手で出迎えてくれた。

 拍手を受けるのは、吹奏楽部で慣れてはいるけれど、こういう状況で拍手をされると、こっ恥ずかしいやら嬉しいやらで、気持ち良いもんだな。

 で、私的に気持ちが傾いたのは、その拍手ではない。入場行進時の音楽だ。

 この音楽を奏でるのは、CDではなく、吹奏楽部の生演奏。

 私の頭の中に、突然(゜∀゜)キタコレ!!のアスキーアートがパッと浮かぶ。

「威風堂々か」

 演奏されていたのは、イギリスの大作曲家エドワード・エルガーの代表作、行進曲《威風堂々》第一番。

「行進曲」とはなっているけれど、コンサートで演奏するための音楽形式としての行進曲で、実際に行進するための音楽として作曲されたものではない。だから、行進曲としてはテンポが少しだけ早く、楽譜の指定通りだと早足になってしまう。中間部と、最後の部分でもう一度繰り返されるメロディーが有名で、曲名を知らなくても聴けば誰でも知っている超有名曲だ。私が吹奏楽で聴いたのは始めて。吹奏楽ではこうなるのか。へー。

 1-Aが入場するのは、1年のクラスでは一番最初なので、着席してからも演奏は続く。そもそも、この曲は行進曲としては長く、7分近くかかる。この演奏はテンポを少し遅くしているから、7分以上かかるだろう。入場が最初の方のクラスで良かった。やったね! 殆ど全曲聴けるじゃん。

 席に着いて、1年生の入場が全て終わるまでしばらく吹奏楽部の演奏を観察することにした。

 今演奏しているメンバーは、あたり前のことだけど、昨年度の三年生は卒業してしまったので、新2年生と新3年生だ。部員の人数を数えると、39人。二学年で39人は、まあまあ多い方か。

 吹奏楽コンクールでは、一団体上限55名という制限がある。一年生が16人入部して上限に達する計算だ。それ以下だと、部員全員コンクールに出場出来るし、それ以上だと、部員全員がコンクールのステージに上ることはできない。二学年39人ということは、一学年あたり約20人。一年生も同じくらい集まるとすれば、全員で約60人。5人くらいはコンクールに出られないのか。

 指揮をしているのは、先生ではなく、どうやら部員のようだ。いわゆる「学指揮がくしき」(*学生指揮者の略)というやつだ。1年生がいなくて、そもそも部員の人数が満足でないところを、入学式みたいな重要な学校行事の演奏の指揮を、学指揮に任せるんだ。

 指揮をしている部員が相当優秀なのか、顧問の先生(指揮をするのが顧問とは限らないけれど)が、PA(*スピーカーを含む音響拡声システム一式)の操作など、入学式のお手伝いに駆り出されて、部の面倒を見られないのか。この位置からだと、制服のリボンが見えないので、学年カラーは分からないけれど、三年生かな? 部長さんかな?

 楽器のバランスは、1年生がいないにもかかわらず、目立って欠けているパートはないようだ。聴いていると、ちょっと低音が薄いように感じられるけれど、吹奏楽はオーケストラに比べて、低音を奏でる楽器が少ないので、仕方ない。本当の低音といえるのはテューバとコントラバス(*吹奏楽では弦バス、ストリング・ベースとも)、それとファゴットとバリトン・サックスくらいだ。ユーフォニアムやバス・クラリネットは、低音よりではあるけれど、低音だけでなく、中音域の演奏も得意で、別に低音に特化した楽器じゃない。そもそも、低音の音域はトロンボーンとほとんど同じだ。

 そして、私の最大の関心事は、もちろんトランペット。人数は3人。計算的には、2年生か3年生のどちらかが一人だけ。1年生が2人入って5人か。最低限の人数って感じだな。普通、トランペットは3パートあるので、全学年で5人だと、どのパートかが一人だけになる。たまにしか音を鳴らさないオーケストラならまだしも、ほとんど出ずっぱりのことも少なくない吹奏楽のトランペット・パートとしては、1パート2人以上は欲しい。

 新入生の入場が終わると、国歌斉唱。ここでも、吹奏楽部は活躍する。全員起立のあと、厳かな前奏が流れる。前奏といっても、サビ(?)のメロディーの最初の部分が、先行して奏でられるだけ。まあ、国歌って、ちゃんとした前奏ってあんまりないんだけどね。

 国歌斉唱が終わると、着席して、校長の入学許可宣言と式辞、来賓祝辞、来賓紹介、祝電披露などがある。校長は別として、知らないおじさんやおばさんのお話が延々と続く。

 新生徒会長による在校生の祝辞は、後日の新入生オリエンテーションに回され、そこで生徒会や部活の紹介が一気に行われる。生徒会長は、入学式だけでなく、卒業式でも送辞を考えたり、式の段取りの手順作成や準備やらで忙しく、入学式での祝辞まで用意している時間がない、というのがその理由だそうだ。クラス分けの掲示や何やらも、生徒会で作ったそうだ。

 この学校の生徒会長を含めた生徒会執行部役員選挙は、基本、1月15日に公布され、2月1日に投票、即日開票される。選挙といっても、対抗馬が出てのいわゆる競争選挙ではない。前年度に副会長だった2年生が、来年度の生徒会長になるのが伝統で、投票は、ほとんどの場合、信任投票となる。3年生である生徒会長は、一学期終了をもって実質的に引退となり、受験勉強に専念することになる。その後、生徒会長は引き継ぎの名目で、機会があれば副会長に仕事を伝授してく程度。直近の大きな学校行事、すなわち文化祭の準備を先頭に立って行うのは、副会長だ。

 もともと、この学校は公立校とはいえ、生徒の自主性を重んじる校風で、生徒会執行部の仕事は他の公立校よりハードらしい。そういった校風の中で、生徒会執行部の役割は大きく、生徒会長はその人柄も大事だが、いかに執行部の用務に精通しているかも重要視されている。だから、前年度の2年生の副会長が、ほぼストレートに次年度の会長になるのは理にかなっているのだ。「生徒会長になるのは、まず副会長から」というのがこの学校の生徒会役員選挙のキャッチフレーズの一つにもなっている。実際、生徒会の役員選挙で、副会長はほとんどの場合競争選挙になり、新生徒会長が推薦した副会長候補が落選するケースもあったそうだ。

 そして、次は新入生代表宣誓だ。

 はっきり言って、私が入学式で一番楽しみにしていたのは、吹奏楽部の演奏を聴けることだった。中学の時にも、卒業式や入学式で吹奏楽部は何かしらの演奏をしたので、高校でも吹奏楽部が出張ってくることは分かっていた。吹奏楽部の演奏は、去年の定期演奏会と文化祭での演奏を楽しみにしていたのだけれど、新型流行性感染症が猛威を奮っていて、人が密集するイベントはことごとく自粛に追い込まれていた。その関係で、吹奏楽部の定期演奏会も文化祭での演奏も中止されてしまった。その前の年には、私がこの高校に入るなんてこと、想像すらしていなかったので、定期演奏会でも文化祭でも、演奏は聴いていない。立地が近いので、確か、部にお知らせは来ていたハズだけど。

 その次に、私が楽しみにしていたのが、新入生代表宣誓。同い年とはいえ、入試トップの成績を収めた子が、どういう挨拶をするのか。学業では「万年普通」――見え貼り過ぎだな。「万年普通よりちょっと下」が正しい――の私と優秀な子のどこがどう違うのか、確かめてみたかったのだ。

 入学式の司会(後で分かったことだが、教頭先生だという)が「新入生代表、石神井恵美、前へ」と、アナウンスすると、「はい!」と大きな返事が聞こえた。

「C組か。クラスは入試の成績順じゃないんだな」

 新入生代表、もとい、石神井さんが登壇すると、彼女には何か独特のオーラのようなものがあるのか、心なしか場の空気が張り詰めたような気がした。校則ギリギリの、毛先が肩につくかつかないかの、長めのセミロングヘアーを結ばず背中に下ろし、前髪を厚めにとって、サイドとバックの毛先にシャギーを入れた整えられた髪型(もし、知り合うことが出来たなら、美容室教えてもらおう。地元の子かな、電車で通ってるのかな)。

 頬から顎先にかけてのスラッとしたラインが印象的な、同性の私から見ても、かなりの美人だ。さらに色白で、かなりの小顔に見える。天は二物を与えましたか。ああ、神様って不公平ですね。人生の厳しさは、もっと後になっていくらでも学びますから、せめて高校生活だけは安泰に暮らせるようお願いします。

 ありきたりな時候の挨拶の後、彼女は言葉を続ける。

「私が、中学生活の三年間で学んだのは、勉強だけではありません。当初、私は勉強ばかりしていました。学業で良い成績を上げること。それこそ、私の明るい将来を約束してくれる、頼もしい味方だと信じていたからです。私が、この場で、このようにお話させていただけるのも、良い成績を上げたからに他なりません」

 おいおい、言ってくれるじゃないの? さすが入試トップ。そりゃ、勉強はさぞかしお出来になるでしょうね。でも、それだけで人生楽しいか? わたしゃ、ラッパの演奏技術を上達させることが、自分の明るい未来を約束してくれる、と思ってますがね――。やっかみ半分、現実逃避半分。

「ですが、その考えは、今では、私を作り出している要素の半分でしかありません。

 中学2年の、ある出会いが、私の勉強一筋の考えを改めさせ、今に至る人生を豊かなものにしてくれました。時間の関係で、細かくはお伝えできませんが、私が、本校への入学を決意したのは、本校の教育方針の一つである、『人生の支えとなるコミュニケーション力や人を思いやる力、温かい豊かな心と広い視野を持ち、 何事にも力をつくして行う人物の育成』に感銘を受けたからです。学生の本分である勉強は、もちろん大事です。力をつくして行う価値のあるものです。その一方で、勉強で学べないことも、この社会にはいくらでも存在しています。特に、自分に良い変化をもたらしてくれる、友人や知人との出会い、社会との関わりの中からもたらされる豊かで価値のある経験は、ガリ勉から得ることは困難でしょう。高校進学という人生の節目の一つを経て、一日一日悔いのないよう大切に過ごしていきたいと強く願うとともに、本校での生活が、人生をより豊かなものになるよう、学業はもちろん、それ以外の価値ある活動にも全力で取り組み、精進して行きたいと思います。今後とも、先生方、並びに来賓の方々のご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い申し上げます」

 満場喝采の拍手。新入生代表の挨拶って、こんな受けるもんだっけ? 席に戻る石神井さんの表情も、晴れやかなものだ。

 さすが優等生。言うことが違うね。私なんかにゃ、思いも寄らない言葉の連続だったよ。正にこの先の人生バラ色って感じだね。こんな子と友達になるのって、どういう人なのかな。

 拍手が鳴り止まないので、司会が式を進行するタイミングに迷っている。小さな咳払いの後、

「ええ・・・、では、宜しいですかな? 続きまして、校歌斉唱」

 事前に、ショート・ホームルームの際、校歌の楽譜が配られはしたのだが、こんなのいきなり渡されてもすぐに歌えるもんじゃない。中学の入学式でも同じだったと記憶しているが、入学式で校歌を歌えないのは、あるあるネタだ。合唱部でも配置してくれていれば、つられて歌えるかもしれないけど、歌っているのは先生方くらいだ。私の母みたいに、この学校のOGがいたとしても、高校生の娘がいるということは、少なくとも高校を卒業して17年以上は経っているということだ。忘れちゃってるだろうな。

 新入生が歌わない校歌斉唱が終わると、「閉式の辞」の後、吹奏楽の演奏と拍手の中、順次退場して行く。今度は、入ってきたのとは逆の順番で、A組が一番最後になる。

「今度は、ラデツキー行進曲か」

 《ラデツキー行進曲》は「ワルツの父」、オーストリアの作曲家ヨハン・シュトラウス一世が作曲した行進曲で、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートのアンコールに演奏されることで知られている。「~の父」という言い方は、そのジャンルや物品を考案・創始したり、普及させたりした人に付けられることが多いが、彼の場合、息子のヨハン・シュトラウス二世が「ワルツ王」と呼ばれ、《美しく青きドナウ》など、有名な曲がたくさんあるので、文字通りの意味になる。

 ただ、今や、一世の作品で、頻繁に演奏されたり、音楽関係者に広く知られているのは、この《ラデツキー行進曲》くらいしかない。例えば、一世と同じ作品名の《アンネン・ポルカ》という作品を二世も作曲していて、単に《アンネン・ポルカ》と言った場合、二世の作品のことを指すようだ。

 《ラデツキー行進曲》は、途中の短いパッセージが繰り返し演奏しても違和感がないので、演奏する時間が不確定な場合に都合がいい。楽譜通りに演奏すれば4分かからないけれど、もう少し長くなりそうなら、繰り返せばいい。新入生が全て退場したのに、曲の演奏がまだ終わってないなんて間抜けだ。新入生入場の時に、どれくらい時間がかかるかは測っているだろうけど、入場と退場では経過時間が違うだろう。A組の列のドベの私は、吹奏楽部の《ラデツキー行進曲》を全部聴けた。ラッキー! 演奏は、私が体育館の入口を出るか出ないかという絶妙なタイミングで終わった。

「凄い、時間ピッタリだ」。やるな、吹奏楽部。

 私の、吹奏楽部に入るという決意は、更に硬くなった。


 体育館から教室に戻ると、今度はロング・ホームルームで、生徒一人ひとりの自己紹介が行われる。こういうのが苦手な子のためかどうかは分からないけれど、「これだけは言ってね」という必須事項が言い渡される。自分の名前(当たり前だ)、出身中学、大体の住んでいる場所、趣味、好きあるいは得意な教科、嫌いあるいは苦手な教科だ。あまり多くても覚えきれないし、こんなもんだろう。それに、多分、教科ごとに自己紹介させられる。ここで言うのは、あくまでクラスメイト全体に向けての自己紹介だ。これから友達づきあいをするにあたって、自分と合いそうな子がここでなんとなく分かる。教科ごとの自己紹介は、授業担当の先生に向けてになるだろう。

「あと、受けは狙わなくていいから、自然体でね。声が小さい人は、皆んなに聞こえるよう、出来る限りでいいから、なるべく大きな声でね。では、出席番号一番の○美さんから。トップバッターで緊張するかもしれないけど、皆んな同じだから、大丈夫よ。では、お願いします」

 この担任の先生、案外優しい?

 まあ、吉美が緊張なんてするわけない。多分、数日前からネタを仕込んでいるに決まってる。彼女の持ちネタはいくつかあるのだ。

 吉美の自己紹介は、言うべきことがあらかじめ決められているので、割と淡々と進んだ。しかし、吉美の人当たりの良さそうな明るい性格が出ていて、好印象だ。実際、友だちになったとき、そのギャップに驚かなければいいが。まあ、吉美が相当なコミュニケーションおばけなのは事実だ。

 で、吉美は最後の最後に、

「高校になって一番の不満は、給食がないことです。給食のメニューに期待し過ぎて裏切られたり、予想外に良かったり、そういう楽しみがなくなるのはちょっと残念です。でも、学食では大盛りや特盛が指定できるのは良いですよね! ダイエットって、常に『明日から』と決意しつつ、永遠にしないものですよね? 只今、いっしょに学食に行ってくれる人募集中です! 希望者は、ホームルームが終わったら、私のところに来てくださいね。以上」

 ウィンクまでしやがって、何を考えてるんだ。そういえば、「大食い」というのも吉美の特技、というか特質だったな。給食ではいつもお代わりしていたし。しかし、本当にその募集に応募してくれる人はいるだろうか? 誰も来てくれなくてしょぼくれる吉美が目に浮かぶようだ。

 ところで。

 クラスに入って、私の注目事項は、もちろん吉美の自己紹介ではない。むしろ、そんなのはどうでもいい。後、自分の自己紹介も。言うことのテンプレートはあるのだし、それだけ言えばいいだろう。私の番は真ん中辺なので、そろそろ自分の番が回ってきそうな、後ろの出席番号の人たちは、自分が言うことを考えるのに必死だろうし、自己紹介が終わった人は、安堵したり、今の自己紹介で本当に良かったのか反省したり、多分、真面目には聴いていない。それに、自己紹介ったって、この場で名前を覚え、顔と名前を一致させることが出来るのなんて、どんだけ良い記憶力を期待されてるんだか。そんな記憶力があるなら、英語も数学も世界史も、テストであんな苦労はしない。

 しばらく何人かの自己紹介を聞くと、いよいよ彼・女・の順番になった。

「次、西条さんね。どうぞ」

 そう担任に促され、「はい」と返事をしてから西条さんがスックと立ち上がる。

 自己紹介で自分の名前は言うのだから、「担任がいちいち言う必要ある?」と思ったが、クラス名簿の名前と顔を確認する必要もあるのだろう。それに、先生が言うのは名字だけで、フルネームではない。

「西条茉莉奈です。中学はS中。この学校には、ほとんど来ていないみたいですので、家の場所を言ってもピンとこないかもしれませんが、△△駅から歩いて5分くらいのところです。趣味は、読書と映画鑑賞。好きな教科や得意な教科は特にありませんが、苦手な教科は音楽です」

 そう言い終わると、彼・女・は席に着いた。

 え!?

 趣味は読書と映画鑑賞? 苦手な教科が音楽?

 ちょ、ちょっと。どういうこと、それ?

 私の頭にははてなマークが飛び交い、驚きを隠せなかった。

 傍から見たら、目の焦点が虚ろで半口を開けて、さぞかし間抜けな顔をしていただろう。

 トランペットは趣味ではなく、本業みたいなもんってこと?

 音楽は知れば知るほど奥が深いのに気づいて、とても得意とか好きなどと言うには憚れるとでも?

 これは、ぜひとも本人に問いただせねばなるまい。

 西条さんの、真偽が疑われる自己紹介のおかげで、やる気のなかったのが、さらに気の抜けたものになってしまった自分の自己紹介の後、自己紹介タイムが終わって、いくつかあった担任からの言葉も、右耳から左耳に素通りしていた。

 西条さんにどう言えばいい? どう言えば、本当のことを話してくれる? 当たり障りのない話題から入って、しばらくして本心を訊く? 当たり障りのない話題って、何? などと思考を巡らせているうちにホームルームは終わった。

 吉美の募集に、何人くらいが話しかけに行くか観察しようと思ったが、この際、もうそんなことはどうでもよくなっていた。私は居ても立ってもいられず、西条さんのところに直行した。

 ツカツカと西条さんに歩み寄り、可能な限りソフトに語りかける。

「あの・・・。西条さんて、S中出身なんだって?」

 一瞬ビクッとなって、驚いたような表情の西条さんがゆっくりと振り返る。

 いきなり背後から声を掛けたのは失敗だったな。

「あなた、私と同中おなちゅうなの? 見かけない顔だけど・・・」

「ううん。私はT山中よ」

 自己紹介で言ったじゃん。自分と同じ中学出身はほとんど来ていないって自分で言ってたじゃん。同じ中学の名前が出たら、印象に残るでしょ。やっぱ、聞いてないし。

「T山中・・・?」

 そう言うと、彼女の表情がなんとなく険しくなったような気がした。T山中の生徒に何かされたことがあるのかな。

「実は、私の友達の友達が、S中でね。S中からこの高校来るのって、珍しいなと思って」

「ふぅん。友達の友達、ねぇ・・・」

 訝しがる西条さん。友達の友達てって、つまりはほとんど赤の他人ということだ。でも、ウソじゃない。その友達の友達に、あなたの情報リークさせて、今、私はここにいるんだから。

「で、その友達の友達とは、同じ高校に行かなかったの」

「そうそう。その子、私より偏差値高くて、K高の方に行ったんだ」

 K高は県立校で、偏差値は上の中くらい。県下では、割と進学校として知られている。

「じゃあ、あなたはなぜこの高校に?」

「内申点と合わせれば、偏差値的にもA判定出てたし、うち、ここから歩いてすぐなんだ」

 それも自己紹介で行ったぞ。さすがに、6~7分じゃ家バレしそうだから、“10分くらい”とかいって曖昧にしたけど。

「そういえば、西条さんの家、S駅の近くって言ってたけど、S中の学区でも、一番北寄りの方だよね? よく、この高校に通うことにしたね。電車で、何分くらい?」

「各駅なら20分、快速なら15分」

 西条さんの表情が、更に曇ってきた。いつまで、こんなありきたりな質問攻めに合うんだろう?的な。

 そろそろ、本題に入ったほうが良さそうだ。

「でさ、声かけたのは、西条さんは、苦手な教科が音楽って言ってたけど、英語や数学ならまだしも、敢えて音楽っていうの、珍しいなと思って」

「本当に音楽が苦手なのだから、仕方ないじゃない。それとも、あなたは、万人が音楽好きとでも思ってるの?」

 西条さんのムッとした表情。

 これはこれで良いな、なんて思った。アホか、私は。

「いやいや、流石にそうは思ってないけど」

 西条さんのレア表情を前に、ヘラヘラしながら答える私。

 それが、さらに彼女の感情に拍車を掛けた。

「いや、絶対そう思ってる」

 なぜか、断定口調。

 西条さんは、さらに続けて

「私ね、中二のとき、あなたみたいな人に、音楽の才能、めちゃくちゃ否定されたの。それ以来、音楽は、嫌い」

 おいおい。「苦手」から「嫌い」に格上げされたぞ。そいつ、こともあろうか西条さんに何を言った。

「そうなんだ。で、何言われたの?」

「思い出したくもないわ」

 即答ですか、そうですか。

 こりゃ、完全に地雷ふんだか。墓穴掘ったな。

 そう思ったのもつかの間、意外にも、西条さんの方から話題転換を図ってきた。

 本当に、音楽の話、したくないんだな。

「というか。この辺にある中学の学区と、S中との学区って、同じ県だけど、かなり離れてるよね。友達の友達がS中とはいえ、よく他の中学の学区とか、そんな細かいところまで知ってるわね? 友達の友達なんて、ほとんど知り合いとは言えないし、直接話したことも、ないんでしょ?」

 うーん。痛いところを突かれてしまったな。

 そこに、救世主が現れた。

「おーい、なになに?なんの話してんの?」

 ここで、おなじみの吉美。

 いつもながら、グッドタイミングだぞ。

 ここで友達の友達の話をこいつに振れば、ちょっとは時間稼ぎになるか。

 そう思ったのもつかの間。またもやいらんことをシレッと言いやがる。

「何、もう部活の話ししてんの!?」

 はぁ? 部活の話は、今はちょっと・・・。

「沙織ったら、意外に手がや早いんだねー。感心した。もう西条さんにアプローチかけてんだ」

 屈託のない笑顔で素っ頓狂なことを言い出す。

 前言撤回。完全にミスキャストだ。

 まあ、傍から見れば、私が西条さんを口説いている、そう見えなくもないけれど。

 口説いてるんじゃねーよ。やむを得ず火消しに回ってんだよ。

 さてはこいつ、「募集」に誰も応募しに来なかったから、暇を持て余して私んとこ来たんだな。

「部活? 一体何の話?」

 狐につままれたような表情の西条さん。

 少なくとも、自分とは別の中学出身の見知らぬ人間が、自己紹介では言わなかった自分の中学時代の部活について知った素振りを見せている。しかも、西条さんから見れば、飛び入り参加の完全な第三者から「部活」の話が出たのだ。

 吉美が、知らずにネタバレしそうだったので、慌てて

「あのね、実はね、そうじゃなくって・・・」

 と切り出したところで効果なく、

「吹奏楽部。 吹奏楽部の話してたんじゃないの?」

 あっちゃー。

 これが「万事休す」とうやつか。

「吹奏楽部・・・。ちょっと待って。意味分かんない。あなたたち、何者なの?」

 何者、と言われましても。どう答えたら良いか。

「どうして私の中学時代の部活知っているの? 全く縁もゆかりもない中学なのに、学区とか、S中のことやたら詳しいし」

「ああ、それはね。その、『友達の友達』の最初の『友達』ってのが、この子なのよ。そうよね、吉美の。S中のお友達」

「え、加奈子のこと? うん、友達だよ。中学んとき、ボランティアの河川清掃で知り合った。私、帰宅部なんで、部活入ってないと内申低くなるから、内申のためだけでやってたボランティア。かなり良い点数に化けたらしいよ。でも、最低でも一年半はやってなきゃいけなくてさあ。結構きつかったよ」

 これは本当の話。

 吉美にしては、意外に戦略的。まあ、そのおかげで私も恩恵に預かれたわけだけど。

「ちょっと待って。ということは、その友達を通して、私のこと知ったってこと?」

「そうそう、そうなのよ。だらね、私達、怪しいもんじゃないの」

 どういう言い訳だ。

 ところが、この苦し紛れの言い訳が、またもや墓穴を掘った。

「そういえば、中学時代、やたらと私のこと聞きに来てた人がいたわ。かといって、私と友達になるでもなく、毎週毎週、月曜日になるといろいろ質問してくる・・・」

 そりゃそうだ。

 吉美のボランティアは日曜日。吉美がその友達を会えるのも日曜日だから、前日までに私が知りたい西条さんの情報を吉美にラインし、その友達に伝えていたのだから。しかし、それもクラス替えがある中3までの話。違うクラスになってまで質問しに行くのはさすがに不自然だから、しなくなったけど。西条さんの志望校情報も、中2の2月までで途絶えている。そんな短い時期のこと、よく覚えてるな、西条さん。相当怪しかったんだろうな。

「あ!!」

 西条さんが、いきなり大声を上げた。

「思い出した! そういえば、中2の時の進路希望調査書。教室で志望校書いて提出する時よ。私が座っている席の列。最後尾に座ってたの、その子だわ! 私の進路希望調査書も集めてった。間違いない。ってことは、あなたたち。私がこの高校を第一志望にしてたのも、知ってたってこと?」

 記憶が次第に鮮明になっていくのか、言いながら、西条さんは語気を強めながら言った。

「いや、あのね!それには深い事情があってね!§¶〓〆・・・」

 最後の方は、もうほとんど言葉にならなかった。

「無理無理無理。絶対無理。もうあなたたちとは話したくない!キモッ!わけわなんない!」

 西条さんは、首を激しく振りながらそう言いって、カバンを胸の前に抱えて私達の前から立ち去ろうとしていた。吉美は、事情が分からず、キョトンとした顔をしている。

 そこに――

「あら!あなたたち、ここのクラスだったのね!F組の方から探してたし、入れ代わり立ち代わり、皆んなで新入生代表の挨拶のこと褒めに来るんだから、遅くなっちゃった! もう帰っちゃったと思って心配したけど、ちゃんと二人共そろってるじゃない!」

 教室前の出入り口から、勢いよく飛び込んでくる生徒がいた。

 どうやら、私達に言っているようだった。

 なんだ、こいつ、と思ったが、よく見ると、入学式で新入生代表の挨拶をした、入試トップの成績の石神井さんじゃないか。そんな彼女が、なんで私達を探し回ってた?

 さすがに、彼女の勢いに西条さんも負けたのか、行きかけた途中で、棒立ちになっている。

「あのう・・・。どういったご用件で?」

 右側の頬を右手の人差し指で掻きながら、私。

「え、部活の話じゃないの?」

 なんで、石神井さんが、私達の部活を気にするのか。しかも、まるで、「私と西条さんが話していることイコール部活の話」みたいな言い草だ。

「部活?」

 また部活か。嫌な予感しかしない。

「そうよ。部活。これから二人いっしょに行くんでしょ?部室」

「もしかしてですけど、その部活というのは?」

「吹奏楽部に決まってるじゃない」

 ですよねー。

 だがしかし。今、ここで、「吹奏楽部」という言葉は禁句だ。

「私は、吹奏楽部には、入りませんよ」

 この衝撃の一言に、私も石神井さんも「!?」となる。

 ほらー。

 西条さんが、もっと殻に閉じこもっちゃうじゃないのよ。

「いやいやいやいや。ちょっと待ってよ。西条さんが吹奏楽部入らないなら、意味ないでしょ」

「どういうことですか、それ」

 西条さんが、食い下がる。

 同学年なのに、私も西条さんも、石神井さんに対して丁寧語なのがおかしい。

「私の野望に、あなた達二人が必要なの。一人欠けても、達成できないわ」

 野望?

 なんスか、その野望って。この人、どこまで未来志向なんだか。夢とか野望とか、「口にするだけじゃ意味がいない。達成してこそ意味があるのだ」ってタイプね。

「あなたは入るんでしょ? 沙織さん」

 満面の笑みで、私に振ってくる。あたかも、100%確実な決定事項のように。

 もちろん、入りますよ。入りますとも。

 しかしなぜ、私の名前を?

「よかった」

 私が吹奏楽部に入ると知って、さらに笑顔になる石神井さん。

 ここで、石神井さんが、ネタバレしてくれた。

「私、今日の入学式の挨拶で、『中二の時のある人との出会いが、人生を変えてくれた』って言ったじゃない?」

「うん、聞いたけど」

「その『ある人』ってのが、あなたよ」

 へ? となる私。

「私・・・?」

 半信半疑で、右手の人差指で顎を指しながら聞き返す。

「そう、沙織さん、あなたよ。私の人生を変えてくれた人」

「ちょっと待って。じゃあ、石神井さんがこの高校に入ったのって、私がこの高校に来たからなの?」

「いえ、さすがにそれはないでしょ。それは、かなりキモくない?」

 やっぱそれはキモいよね。うん、知ってた。

「私がこの高校に来たのは、たまたま。第一志望の私立すべっちゃったから、滑り止めのこの高校に賭けるしかなかったのよ。第一志望は親の都合で、私の実力より上のF大付属でさ。頑張ったけど、結果は散々よ。で、この学校の入試の時にあなたを見かけてね。偶然近くを通りかかった時、あなたの『この学校単願』って言葉が耳に入ってね。絶対来てると思って、探してたって訳。もし滑ってたら、高校浪人でしょ? それはないって踏んだの。公立単願なら、だいたい合格圏内の学校受験するでしょ。部活もやってるから、内申点も悪くないはずだし」

 なるほど、それなら納得だ。入試トップの成績なのも。F大付属高っていったら、普通科超難関クラス。私立でも県内トップクラスじゃない。そこ目指して勉強してたんだもんね。ただ、入試の時、「偶然私の近くを通りかかった」ってのが引っかかるけど。まあ、私の自意識過剰ってことで。

「ねえ、石神井さん。それじゃ、私もう関係ないでしょ?早く帰りたいんだけど」

「ダメよ。あなたにも後で話があるの」

「私には、あなたと話すことは、ないのだけれど」

「私の方に、あなたと話すことがあるって言ってるの。それに、この話も、あなたに聞いてほしいのよ。だから、最後までここにいてちょうだい」

 新入生代表、半端ない迫力ね。西条さんの、意を決して放った言葉も、真っ向から否定される。西条さん、下を向いて黙り込んでしまった。

「でさ、私、石神井さんとお話したこと、あったっけ?」

 私の拙い記憶をいくらたどっても、石神井さんの顔は浮かんでこない。石神井さんの顔を始めて見たのは、確かに今日の入学式だ。石神井さんほどの容姿端麗なら、合っていれば絶対に忘れないはずなんだけどなあ。

「ないわよ」

 え!?

「実はね、沙織さんと、直接話しをしたことは、ないの」

「じゃあ、どうして・・・」

「それはね、中2の時の、吹奏楽コンクールよ」

 そうなんだ。

 私が西条さんの演奏を聴いたのと、同じ日のコンクールだ。

「私達の中学、出番があなた達の中学の次でね。舞台袖で演奏を聴いていたわ。地区大会のブロックは同じだけれど、全然名前を知らない中学校。今はいい言葉が見つからないけど、あなた達の中学の演奏を聴いてね、ひどく感動したわけ。私達の学校も、それなりに頑張ってはいたけれど、それも一部の熱心な子だけで、多くは内申点稼ぎたいためだけに部活やっているような子ばっかで。それをさ。中学2年で、あんな難しい曲を、軽々と吹きこなしているじゃない。あなた」

 ああ、あの曲か。あれは確かに難しいけど、小学校の時からお母さんと吹いてた曲だしなあ。

「あなたのその演奏を聴いて、恐らく中学になってからトランペットを始めた同学年の子が、こんなに頑張って成果を出している子がいるんだ、と思ったら、勉強ばっかで他に何も楽しいこと見つけてない私の人生がさ、突然意味のないものに思えてしまったのよ」

 ごめんね、私、小3からトランペット吹いてるから、その時点で既に5年半経ってるんだわ。演奏歴としては、中学から始めた人なら、高3になってる計算。

 まあ、今は伏せておくけど。

「で、あなたの方は、なぜ吹奏楽部に入らないことにしたの?」

 いきなり西条さんに話題を振る石神井さん。

「私は、中3の時の吹奏楽コンクールで・・・」

「あなたも、地区大会のブロックは私達と同じでしょ? ってことは、同じ会場にいたはずよね」

「そうよ。で、沙織の演奏を聴いた」

「!」となる私と石神井さん。

 いきなり呼び捨て!?

 いや、そこじゃない。

「だったら・・・」

「沙織はね、確かに巧いわ。誰がどう聴いても巧い。っていうか、巧すぎるのよ、あなた」

 西条さんは、そう言って、私のことを指差す。

 いきなり指を指されたばかりか、「巧いのがいけない」みたいに言われて困惑する私。まあ、自分じゃ言うほど巧いなんて思わないけど。お母さんにも、常々・・・。

「でも、あの演奏を聴いて、この演奏には『心』がこもってないって思ったの。でも、技術的には完璧。『中学3年にしては』っていう保留事項なしにね。なのに、あの演奏を聴けば、誰でも巧いと褒める」

 そうね。だから、お母さんにも、常々「あなたはもっと心を込めて演奏しなさい。音楽は、技術だけじゃなく、心でも奏でるものなのよ。心がない演奏ばかりしていると、技術が高止まりしたとき、演奏者としてそこで終わり。プロが齢をとってダメになる理由が分かる? 齢をとって、身体が技術を支えられなくなった時、技術一辺倒だと、次第にダメになっていくだけの自分を自覚するようになり、スランプから抜け出せなくなって、さらにダメになっていくスパイラルに入り込むのよ」と言われる。

「だからね。音楽って何なのよ?って思ったの。技術だけで、心の籠もってない演奏って、ただの抜け殻じゃない。ねえ、そうでしょ? アンコの詰まってないたい焼きなんて、クソ不味いだけじゃない。それを、皆んなにちやほやされてるのをいいことに、ヘラヘラして。心底ムカついたわ!」

 ごめんね、アンコの入ってないたい焼きで。タコが入ってなくても、それなりに美味わよ、たこ焼きは。

 まあ、それは自分でも自覚してることだし、真摯に受け止めておきましょう?

「それが、あなたが吹奏楽部に入りたくない理由?」

「そうよ。悪い?」

「悪くはないけど・・・」

 ああ。もうこの辺でネタばらしするしかない雰囲気だな。

 西条さんには吹奏楽続けてもらいたいし、石神井さんの誤解も、解いておいたほうが良いのかな。

「あのね、実はね・・・」

「ええっ!? 小3からトランペット吹いてる!?」

 吉美を除き、その場の一同がいっせいに驚きの声を上げる。

「うん。そうなの。でね、プロも目指してたお母さんに、ずっと付きっきりでレッスン受けてて、勉強なんかほとんどせずに、トランペットばっか吹いてた。バカみたいに、何時間だって吹いてたわ。だから、お母さんに『あなたに、技術的に教えることはもうない。でも、忠告はしておく。いい? 音楽には、『心』が籠もっていなければ、いくら技術が優れていても、人の心を動かすことは出来ない』とずっと言われ続けてるわ。だから、西条さんがそう思ったのも当然。あの時だって、別にヘラヘラしていた訳じゃないわ。『この人たち、本当に私の演奏良いと思ってるのかなー』って、疑心暗鬼になってただけ。未だに、『心を込めて演奏する』ってどうすれば良いのか分からない」

 そこまで一気に話して、「ふぅ」と一息ついて、

「だからね!」

 私は沈み込んだ空気の中に、ひときわ明るい声色で喝を入れる。

「私、西条さんといっしょに吹奏楽部に入って、西条さんから学びたいの。『心』を込めた演奏。私のトランペットには、それが必要だから! だから・・・」

 言おうか言うまいか迷ったが、ええい、ママよ! 勢いで言っちゃえ!

「だから、中3のコンクールの時、西条さんの演奏を聴いて、あなたを好きになったの! それで、あなたと同じ高校に行って、いっしょに吹奏楽部に入って・・・それから・・・それから・・・」

 今まで心の奥底に秘めていた、西条さんへの想いの丈を一気にぶつけることが出来て、もう最後の方は涙で顔がぐちゃぐちゃになって、全く言葉が出てこなかった。

「私は、知ってた」といわんばかりの吉美のスカしたドヤ顔が視界の隅に入り、ちょっとムカついた。

 それで我に還ることが出来たようで、ちょっと冷静になった。

「分かった、分かったから! そんな揺らすな!」

 気がつくと、私は泣きながら西条さんの両肩をガッシリと掴み、前後に激しく揺さぶっていたらしい。

「じゃあ、いっしょに部活入ってくれる?」

 冷静になったおかげで、ここは意識的に甘えた口調で演技した。私のほうが、西条さんよりちょっと背が高いので、さすがに上目遣いには出来なかったけど。

 この演技は、石神井さんには筒抜けだったようで、ニヤニヤしてる。口元が、アニメやマンガでよく見るフニャフニャっとした形になっているのが可愛い。

 西条さんは、まだ少し迷っているようで、左手で右腕を掴み、私から視線を反らしている。

 でも、それも一瞬で、

「うーん、もう! 分かったわよ。入ればいいんでしょ?入れば。私が吹奏楽部に入部して、全てが丸く収まるなら、入るわよ。ダメなら、辞めればいいんだし」

 西条さんは、叫ぶようにそう言ったが、石神井産が意味不明な言葉を発する。

「それはダメよ、あなたが辞めたら、トランペット、沙織一人になっちゃう」

 え?

 それでは、計算が合いませんことよ?入成績トップ娘さん?

 っていか、「そうだね」ってことで、話終わりにしません?

 それは、西条さんもおかしいと思ったらしく、

「だって、私が辞めても、沙織と石神井さんと、経験者二人残るじゃない」

 うん、うん、と私。

「なんで?」

 キョトンとした石神井さん。

 無意識か、右手でセミロングの後ろ髪をパッとハネあげる。

「あなたもトランペットでしょうが!」

 そう同時に突っ込む私と西条さん。息ピッタリ。

「――違うわよ」

 シレッと言い放つ。

 意味がわからず、

「何が!?」

 とまた二人同時に聞き返す。

「私、トランペットじゃないわ」

 う・そ・だっ!

 これは私と西条さん二人の心の声。

「私の楽器、トランペットじゃないわよ。あれ、言ってなかったっけ? 私のパート」

「聞いてない」

 と相変わらず二人同時。

 そういや、たしかに、石神井さんが中学時代、何のパートを担当していたか、本人からは聞いてない。

 でも、話の流れからして、石神井さんはどう考えてもトランペットじゃないか。

 しかし、それは単なる思い込みだった。

「私、クラリネットよ」

 はぁ?

「ベー・クラも吹くけど、どちらかと言えば、バス・クラリネットが専門ね」

 木管、しかも低音かっ!

 トランペット全然関係ないし!

「あら、いけなかったかしら? だって、内申のために入った部活だし、目立つ楽器は練習大変じゃない? 金管は特に。だから、おとなしそうな音色で、人数がいて個人が目立たない楽器を選んだの。私、4歳からピアノやってるじゃない? だから、細かい音符は得意なのよ」

 そう言いながら、両腕をパァーとひるがえし、ピアノの鍵盤を低音から高音に半音階で上がっていくエア・ピアノを披露する。

「あ、これでも、最初は苦労したのよ。そもそもクラリネットはピアノと楽譜の読み方違うし。移調楽器なんて、音楽の授業で習う? リード作るのだって、私、不器用だから、新しく買ってきた10枚入りのリード、全部ダメにしたこと何度もあるわ!」

 いけなくはないけど。

 クラリネットの10枚入りのリード、全部ダメにするの初めて聞いた。

 あー、それで分かった。

 なぜ、恵美が舞台袖にいながら、沙織の顔がわかったのか。

 吹奏楽コンクールでは、舞台で演奏している学校の次の出番になる学校は、舞台袖で待機する。その際、入場が早い順、つまり木管、金管という順番で並ぶのだが(打楽器は反対側の袖で待機)、クラリネットの座る位置は指揮者の目の前だ。つまり、木管でも、サックスやフルートよりも前の方に並ぶことになる。だから、舞台袖にいても、舞台上にいる沙織の顔が確認できたのだ。トランペットだったら、後ろの方に並ぶので、演奏は聴こえても、舞台上の奏者の細かい顔まで確認するのは難しい。

 私が西条さんの演奏を聴いたときも、待機列の後ろの方から舞台袖まで行くのに時間がかかり、西条さんがソロを吹いている実際の姿を拝むことはできなかった。

 ともあれ、石神井さんのおちゃめな一面にも触れることが出来たし、西条さんも部活に入ってくれるようだし、今までの緊張が一気にほぐれた。

 それは西条さんも同じだったようで、私が西条さんを見ると、西条さんも私の方を見た。

 思わず二人目が合って、同時に笑い出す。

「で、高城さん?」

 西条さんの表情が、少し鋭くなったような気がした。顔は笑ってるんだけどね。目が、笑ってない。

「はい、何でしょう」

「あなた、どこまで私のことストーキングしてたのかしら? 例の、『友達の友達』に言ってないことまで、知ってたりしない?」

「ないわよ」

 きっぱりと否定。

「本当に?」

「本当に」

 西条さんは、明らかに信用できないという表情。

 実は、一つだけ独自に仕入れた情報があるんだよね。まあ、大したことないので、ここは、知らぬ存ぜぬを通すしかない。面倒なことになりそうだし。

「信用できないな。あのさ、ちょっと駅前の喫茶店まで、付き合ってくれるかしら? そちらの『お友達』もご一緒してくれると助かるんだけどな」

 どうやら、西条さんは、吉美の「失言」を狙っているらしい。

 吉美は、「おう。奢ってくれるなら付き合ってもいいよ」などと都合の良いことを言っている。

「いいわよ。パンケーキ・セットでもスペシャル・ミックスサンドでも、好きなもの注文しなさい」

「やったー!」

 やったー、じゃない。

 確か、吉美が失言して私が困るようなヤバい情報は、ないはずだけど。

 やれやれ。

 今日の放課後は、予想よりだいぶ長くなりそうだ。


 つづく。

第2話はこちら
第3話はこちら

本文で取り上げられた作品

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■《威風堂々》第1番(音声のみ)

https://youtu.be/mPkEZK56xSg


■《ラデツキー行進曲》

https://youtu.be/j_NUA9SOybU

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