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ハンセン病療養者の短詩を読む ②手足の麻痺 ―受くる指なし口づけのむ―

ハンセン病は、手足の麻痺をもたらした。また、手足の変形として症状が現れる場合もあり、しばしば欠損にもつながった。


足萎えのが足音を聞きとめて窓辺の盲友ともは呼びとめるなり 田原浩

足が不自由な人の「足音」を聞き分けてその名を呼ぶのは、目の見えない同病者であった。

遺句集の重さ麻痺の手に計る 中山秋夫
闘病の末亡くなった患者の句集がある。その重さを、感覚のない手に感じ取る。重さとは重量だけのことではないだろう。

岩清水受くる指なし口づけのむ 林すみれ
ハンセン病の麻痺は、結果として麻痺した指や手足を失うケースも多かった。指がないので、岩の清水に直接口を付けて飲む。岩清水にとがめられることはない。

針もてぬ手となりながら布切を見れば縫ひたしをみなの吾は 林みち子
布を見れば縫いたくなるのが女だという話は、あるいは政治的正しさに反することとして現代では言いにくくなったかもしれず、しかしこの作者にとっては、針を持てない手となってなお実感する真実の望みであった。

ピンポンの玉ほどの柚子麻痺の手より麻痺の友の手渡すはかたし 飯川春乃
小さな柚子だ。ピンポン玉ほどの柚子という言葉は、むしろ持ちやすさを思わせるが、麻痺の手から、やはり麻痺している友の手に渡すのは難しい。ピンポンの玉という比喩が卓抜である。

痛み走るはだ生きている生きている 島洋介
痛いのは生きているからだというのは理屈だが、実際に麻痺するおそれのあるハンセン病患者にとって、痛みは直接的な生のあかしであった。生きている生きているという繰り返しは、叫ぶようでもあり、確かめているようでもある。

木の陰にかなしく癒えしわれの手をなめる仔犬は偏見もたず 泉安朗
ハンセン病の患者は長く偏見にさらされた。その手をなめる仔犬は偏見を持たないというのだが、言い方を変えれば、手をなめるほどに親しむ者は、外の人間社会のうちには少なかった。

義肢擦ぎしすれの熱全身に柿熟るる 中江灯子
私は義肢の感覚を知らず、義肢擦ぎしすれとはどういうことなのか曖昧にしか理解できないが、全身に柿が熟れるという発熱の表現は、その苦しみを伝えてくれる。

はいチーズ麻痺した顔がままならず 桜井学
チーズという言葉を発することで笑顔を作る。それができない。

閉ずるなく萎えしわが目に炎天の光はしみて押してくるなり 太田正一
視力の喪失ではなく、まぶたの麻痺として病状が現れることもあった。麻痺した目は閉じず、その目に炎天の光は「押してくる」というのだ。光が光でも熱でもなく、圧力となる。


作品はすべて、『訴歌 あなたはきっと橋を渡って来てくれる』阿部正子・編、皓星社より引用した。

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